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「まるで誇っているみたい」


 それは突然だった。生ぬるい暗がりに、変化が訪れた。


 周りでなにかがはじけて、『彼』を覆い包んでいたなにかが漏れ出ている。


 狭い。身体中を柔い壁が圧迫してくるのだ。


 なんとかしなくては、と感じた。もう今までのままではいられないのだと。


 暴れた。


 自分を圧殺しようとする壁を押しのけようともがく。


 このままではだめだ。どうにかしなければ。


 苦しい。もがく。もがく。


 頭頂部がスースーする。冷たい。


 両の側頭部を掴まれ、引っ張られた。引きずり出された。


 抱え上げられた。


 外気に触れ、さっき頭頂部に感じたものを、全身で感じた。これも眠りのなかで体感したそれとはまるで違った。なんだかひりついて、全身、痛い。


 空気。これを吸ったり吐いたりしないといけない、と思って、()せた。胸が、苦しい。すると鼻に、なにか柔らかくて生あたたかいものがくっついてきて、吸い出された。続いて、口も。それで彼は呼吸することを思い出した。


 近くで、女の荒い息づかいが聞こえる。


 うまく開ききらないまぶたの隙間から、目の奥まで光が滲む。薄ぼんやりとした世界が見えた。


 揺らめく光源に照らされて、彼の目に人間の上半身らしいシルエットが映る。


 しかし彼の目には白黒のぼやけた影としてしか映らない。視界がおかしい。景色には網の目のように毛細血管がびっしりと走っている。右上と左上に、ほの暗い盲点がふたつぽっかり空き、おまけに網膜に映ったそのままの形で、天地が逆さまに見えている。眼球を動かし、上を見ようと見上げれば、世界はかえって上に逃げ、下を見ようと見下ろせば世界はかえって下に逃げる。混乱。


 光源は、松明だった。火の番らしい、まだ若い、黒い肌の少女が静かに持つ。しかし彼女は表情を失い、今にも大事な炎を取り落としかけていた。咎める者も、いない。それどころではないのだ。赤子の姿を見て硬直している。


 ほの暗い密室に響いていた、女が激しく息張(いきば)る声が途切れ、落ち着いた呼気にへ変じてゆく。


 やがて天井近くの採光用の窓から黎明(れいめい)が差し込むと、部屋に、光が広がった。木と土の、倉のような家だった。暗い茶の内壁に、ところどころ木の根が生き物の血管のように浮き出している。


 差した光は、布越しに産婆に抱えられた『彼』の姿をはっきり露わにする。


「おお、なんという……」


 産婆が、うめくように言った。けれど、彼にはまだ理解できない。言葉を思い出していない。そも、前世において知らない言語でもあった。


 産婆は彼の姿に動揺していた。


 上の前歯が1本すでに生え、口元から覗いている。たまにあることだ。


 すでに薄く生えた、柔く細い頭髪は、白い。これも珍しいが、なくはない。


 生まれたての赤子らしい、しわくちゃの顔面の上で、目蓋が半分ほど開き、『薄赤い瞳』が覗いている。これもたいしたことではない。


 そしてなによりおかしいのは……。


「……坊やを」


 椅子に腰掛けたままの、『母』の声に、産婆は、彼を抱えたままビクリと震えた。


「、巫女様」


「坊やは、無事ですか。抱かせてください……」


 黒い肌、淡い水色の瞳。細面の、巫女と呼ばれた彼女は、産婆に向かって繰り返し、我が子の安否を問うた。


「巫女様……、どうか、どうかお気を確かに……」


 しわがれた声で産婆は反す。言葉は、己に言い聞かせるようでもあった。そのまま巫女に渡そうとして、まだ(へそ)の緒を切っていないことを思い出した。


 すぐに緒に触れて、


(フィア)切断せよ(スナイヴィット)


 赤子側と、母の側の二カ所、順番に指先で焼き切る(・・・・・・・)。本来ならば慌てて切らずに口呼吸が落ち着くまで待った方がよいが、巫女と彼をいっときでも繋げておきたくなかった。傍らに用意してあった陶器の器に満たしたぬるま湯に、彼を浸け、軽く羊水を洗い流す。


 布で(くる)み、恐る恐る、腰かけたままの巫女へと渡した。


 そして母たる巫女は彼の姿をはっきり見た。


「巫女様。その子は……」


 恐々とした産婆の声。


「男の子かしら、女の子かしら……?」


 慈愛に満ちた、母の声。


「男児です。しかし巫女様……」


「この子、泣かないけど、だいじょうぶなの?」


「息はあります。しかし、巫女様……!」


「わたしの子です。かわいい坊や……」


「巫女様! わかっておいでなのですか?! 忌み子です! 白い肌の、忌み子です!」


 その赤子は白かった。この場で、彼の肌だけが白かった。赤子の柔肌に浮かんで然るべき血色も、少ない。  


 松明を預かる少女も、震える唇で小さく呟く。


「伝説の、はるか北に住まう蛮族と、同じ色……」


 産婆が続けて巫女を説き伏せにかかる。  


「……今なら間に合います。この子は『流れた』。なかったことに」


「嫌ですよ。受け継がれる命の流れ、遮ることはなりません」


「しかし……、里に置いてはおけませぬ……! 巫女の威光をもってしても、貴女とその赤子、民から守り切れませぬ!」


「仕方ありませんね。では、わたしはこの子を連れて里を抜け、北へ向かいます」


「なにを……?」


(わか)つ川の向こう、大いなる森を越えて、伝説の北の地に。白い肌の人たちが住まうのでしょう? この子を受け入れてくれるかもしれないわ」


「突然なにを仰せですか?! 無理です……、樹の民、獣の民と、いまだ名付けられてもいない未知なる数多(あまた)の魔獣どもが、あなたの行く手を阻むでしょう……!」


「だいじょうぶ。わたし、魔獣はわからないけれど、森の深くにいる毛むくじゃらの人たちとは、昔いっしょに遊んだこともあるのよ?」


「地を裂く別つ川の激流も、決して越えること叶いませぬ……!」


「別つ川は……、曲がりなりにも、水の巫女として永く(つと)めたわたしが一生懸命お願いしたら、オンディーヌ様がどうにかしてくださると思うわ」


「水の大精霊様がお許しになられても! 伝説によれば別つ川を越えた先は、乾いた砂の不毛の地です……! 水の恵みはありません!」


「だいじょうぶ。わたし、飲み水なら自分で出せる(・・・・・・)もの」


「どうにかなったとして、北の果てに住まうとされるのは、かつて(アーデラ)を滅ぼさんとした蛮族どもです!」


「大昔のお話でしょう? ちょっとは違ったふうになっているかもしれないわ。世界は流れるものだから、なにもかも、同じままではいないわよ、きっと」


「巫女の務めは、どうなりますか……」


「妹への引き継ぎを前倒(まえだお)しして。その子なら、だいじょうぶ」


 びく、と、傍らの少女が……巫女の妹は震え、手の内の松明を揺らめかせた。そして母となった姉に問う。


「姉さま、本気なの……? 北へ、って……、そんなの絶対死んじゃうよ……!」


「そうかも。でも、死なないかも」


「適当いわないで……」


「行かなきゃならないの。ここがわたしの分水嶺(ぶんすいれい)。この子と生き延びる流れを、選びたいから」


「じゃあ、じゃあ、その子こっそり里で育てられないの?! ねえ、ばあや!」


「……狭い里です。それに我らは少のうございます。そのうえ雨季の度、氾濫(はんらん)()を読んで動き回らねばならぬとなれば、民に隠し通すことままなりませぬ」


「あたし姉さまの代わりなんてできないもん! お願い姉さま、考え直して……、どこもいかないで……」


「わたしの代わりになんて思ったらいけないわ。あなたはあなたとして、お役目と人生に努めなさい。昔は巫女のお役目を(うらや)んでいたじゃないの。衣装が綺麗とか、傍付(そばつ)きがいっぱいいてズルいとか、姉さまばっかり母さんに構ってもらって、とか……」


「だって……、姉さんはいつもズルいもん……」


「……ばあや、ちょっと預かって。殺しちゃ駄目よ?」


 すっくと立ち上がる巫女に、ひょいと預けられた赤子をつい受け取ってしまった産婆は、目を剥いて何度も母子との間で、視線を忙しなく往復させた。ぎこちない抱擁に機嫌を損ねたらしい赤子が、うー、と一声唸ると、彼女は条件反射で、白き忌み子を柔く優しく抱いた。今まで取り上げ、また育ててきた赤子と同じように。胸の内に葛藤を秘め、名状しがたい顔つきで。


 巫女は産婆の脇を通り抜け、松明を堅く握りしめたままの妹の元に歩み寄る。


「もう火はいいの……、夜は明けたから」


 巫女が手をかざすと、ジュウ、と湿気(しけ)った揮発(きはつ)音を立てて火は絶えた。


 なおも身を守るように火の絶えた松明を胸の前でかき(いだ)く妹の手を、解きほぐしてゆくと、コンと棒きれは床に落ちた。


 そのまま巫女は、妹を抱き寄せる。


「姉さま、ズルい……」


「しっかりなさい。今はいいけど、これからはあんまり泣いてはだめよ? よくない水が、巫女の(こころざし)まで洗い流しては困るもの」


「……泣いてないもん」


「ほんと? 川や、雲や、大いなる滝や、地の(もと)を流れる脈々の声が聞こえる?」


「……頑張る」


「うん。しっかりね」


 それから、抱擁を解かれた妹は、拗ねた声音で、姉の顔を見て問うた。


「姉さま、ひどいよ。どうして笑うの?」


 訊かれて巫女は、


「どうしてっていったって、ねえ……」


 巫女は、さほどの深刻さを出さずに、悩む素振りを見せながら、渋面の産婆に手で促して、赤子を再び受け取り抱いた。


「巫女様」


 と産婆も続けて問うた。


「貴女の選んだ道は先の知れぬ険しき流れにございます。いずれ遮られ、枯れ果てるやも。寿(ことほ)ぐことなどありはしないのに、なぜそうも、嬉しげなのです……」


 巫女は己の腕のうちに視線を落とし、我が子に微笑みかけながら、


「この子は苦労するでしょう。皆に望まれた存在じゃないし、己の生まれを恨むこともあるかもしれない。でも……」


 誇らしげに、言う。


「今はただ、嬉しいの。だから、わたしだけは、喜んであげたいの。 ……あら?」


 巫女の腕の中でぐずる気配もなくおとなしくしていた赤子に動きがあった。布の内側で腕をもぞもぞと動かして、外に出そうとする。


 このとき『彼』は、なにも覚えてはいなかったし、なにも解してはいなかった。


 ただひとつ、残ったものは。


「……あらあら」


 赤子は両手を握りしめ、天に向かって突き上げた。


 小さな、拳。


「見てよ二人とも。この子、生まれてきたぞって、まるで誇っているみたい」


  

プロローグ終了。次回から本編です。


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