泡沫の微睡み
■マーク → 文章が主人公の視点、一人称であることを表します。僕とか俺とかいうやつです。
拳、すなわち、BOXです。手で拳を造る……、故にボクシング! あ、ごめんなさい空手のお話ですけど。ちなみに英単語で拳はフィストということが多いです。
★マーク → 文章が三人称であることを表します。
星、すなわち、作中の世界そのものを指します。
★
名を忘れ、言葉を忘れ、あらゆる思い出を忘れ、何者でもなくなった『彼』は、生ぬるい暗闇のなかで、身体を丸めてじっとうずくまっている。
時折、夢を見ていた。前世の夢、封じられた記憶が、泡のように浮かんでは消える。
けれども、ただそれだけだ。すべて曖昧な微睡みのなかに溶けてゆく。
もう、夢と現の、自分と世界の境すらわかってはいない。
眠りのなかで、自分が見ている景色や言葉の意味さえわかっていない。
だからそれは、この時点でなんの意味も成しはしない、ただの夢のはずだった。
――思い出が浮かび上がる。
小学生になったばかりの夏だった。
よせばいいのに同級生たちと張り合って通学路を走り回っては競争し、思いきり急な坂道を駆け下りようとして蹴躓いてすっ転び、焼けついたアスファルトの上をニュートン力学的に何度も大きくバウンドしつつ、全身を擦り剥き打ちつけ転げ落ちた。
それだけで打撲と擦過傷にまみれてパニック映画のゾンビみたいな有様だったのに、そのまま車道へとパチンコ玉みたいに弾き出された彼は、普段は車なんて全然通らないその一本道で、ちょうど時速60キロでゴキゲンに突っ走ってきたカローラに吹っ飛ばされた。
空中でグルグルと錐揉みしている時間はやけに間延びしていて、そばを歩いていた近所のお姉さんがゆっくりとこちらを振り向き、日傘を取り落とし、整った顔を絶叫の形に変形させるのまで回転する視界の中ではっきり捉えていた。
幸い後遺症は残らなかったが、地面に叩きつけられた際キレイに脱臼した右肩の痛みは堪えがたく、救急車で運ばれる間じゅうウンウン呻き続きることになったし、それを医者にハメ治されるのは絶叫モノだったし、体中の青あざと擦り傷の痛みはたっぷり一週間もしつこく纏わりついた。
――思い出が消えては浮かぶ。
小学3年の夏だった。
その年の春先に入門した空手の道場で、しかし彼はまだ実際に殴り合う組手稽古をやらせてはもらえなかった。相手と自分の技に耐え切れる体を作るのが先、というのが道場の方針で、彼は正拳突きと上下の受けと、摺り足の移動からなる最も基本的な型の他に、ひたすら走り込みと筋トレをやらされた。
よせばいいのに早く実際に戦いたくて仕方がなかった彼は、師範代に認めてもらうために、いわれた量の何倍もの自主トレを己に課した。
腹筋、背筋、腿上げ、走り込み。特に掌ではなく拳を地につけての腕立て、俗に拳立てと呼ばれるマゾいトレーニングは、さらに数倍の量を行った。日を追うごとに倍加していった鍛錬に、筋肉痛が途絶えることはなかった。整理運動のストレッチをする度に引き攣る痛覚に、けれども少しずつ慣れていった。
――思い出が消えては浮かぶ。
小学3年の秋だった。
彼は同じころに入門した同学年の友人と、初めて組手稽古をさせてもらうことになった。
胴体と前腕と拳にサポーターを装備し、股間のファウルカップで急所を守り、透明なプラスチックに覆われたメンホーと呼ばれるヘッドギアを念のためにと被った上で顔面攻撃を禁止し、受けと正拳のみで戦えとのことだった。
彼は始めの合図と共に、教わった通りの摺り足で間合いを詰め、教わった通りに腰を入れた右の逆突きを放ち、初撃でその友人をたっぷり一メートル半も吹き飛ばした上に自分の右手中指を脱臼骨折し、その後またしばらく組手を禁じられた。
嫌だ、戦いたい。どうしても戦いたいんだと泣き喚く彼に、師範代は難しい顔をしていった。もう少し我慢しろ。型と約束組手で蹴りと受けをしっかり覚えたら、それでもう少し体が大きくなったら、もっと年上の連中と一緒に稽古させてやるから。頼むから我慢してくださいお願いします。
彼はしぶしぶながらもそのいいつけに従ったが、やめときゃいいのにこれまでの筋トレに加えて、格闘漫画で読んだ鍛錬方法をいくつか真似して実践し始めた。両の手足にそれぞれ3キログラムずつのパワーリストを装着しての十分の一倍速スロー型稽古とか、自宅ベランダの手摺りに足首を引っ掛けて逆さ吊りになっての腹筋運動とか、指の脱臼が完治してからはさらに、拳立てに加えて指立てというさらにマゾい鍛錬を始めた。漫画のキャラみたく片手の人差し指一本というのはさすがに無理があったが、彼はかなり早い時期に両手の親指と中指と人差し指の先だけでこれをこなせるようになった。指の腱の一本一本まで痺れるような筋肉痛に苛まれてもやめなかった。
――思い出がはじけて消えては、また浮かぶ。
小学4年の夏だった。
自宅の裏手にある安アパートに、地元の特撮ヒーロー番組でスーツアクターを務めているという若い男が引っ越してきて、ご丁寧にも引っ越しそばを持って挨拶に来た。彼はそのころ同じ鍛錬を積み重ねながら徐々にその量を増やし続けていたが、これだけではまだ足りない、僕の目指す境地には届かないと焦ってもいて、空手出身だというその男に頼み込んで弟子にしてもらい、アクロバティックな空中殺法をいくつも教わった。
よせばいいのに調子に乗った彼は、自宅裏手の工場の螺旋階段の上でこれを試し、着地に失敗した。実にスピーディでハードな感じに転げ落ちて全身打撲まみれになった彼は、隠れて技を教わっていたのが師範代にバレて、さらにスピーディでハードな拳骨をド頭にもらった。とんでもなく痛かった。
――思い出が浮かんでは沈んで、はじけて消えて、また浮かぶ。
小学5年の冬だった。
朝起きてから、なんだか怠くて熱っぽくて関節痛くて胸が苦しかった。
ちょうど道場で中学生に交じって稽古をし始めたころだったので、体もついていこうとして必死なのかなあ、これで強くなれるかなあとか呑気に思いながらきっちり登校した彼は、朝礼でぶっ倒れて救急車の世話になった。診断はマイコプラズマ肺炎。後遺症の残らない型です。入院しておとなしく寝ていてください。若いから五日ほどで退院できるでしょう。
ちょうど町工場の切り盛りが忙しい時期で、両親が見舞いに来れるのは初日だけだそうで、彼は病院の用意した食事と着替えと濡れタオルだけで五日間過ごすのかと思うと暗澹たる気分だった。彼は痛いのよりも苦しいのよりも戦えないのが何より嫌だったので、二日目にはもう暴れ出したい気持ちでいっぱいだった。ああ組手やりたい組手やりたい組手やりたい超殴り合いたい。そんな彼のアツい想いを、まさか感じ取ったわけではあるまいが、見舞いにきてくれた友人は一昔前の携帯ゲームとソフトを持ってきて不敵に言い放った。
「まさかルナティックモードは無理だろうけど、ハードモードくらいはクリアしてみせなよ」と。
よせばいいのに子供の意地というのは恐ろしいものがあって、彼は、その筋ではかなり有名な2Dシューティングゲームの移植版を、布団を被って看護師の目を逃れつつ日がな一日中プレイした。画面中を覆いつくし、生き物のように激しくうねり、複雑な軌道で交差して退路を塞がんとする光の弾幕を、ゼロコンマ一ミリの間隙を縫って透り抜け、ついに四日目に超絶最高難度のファンタズムモードのエクストラボスをやっつけたけれど、日和見感染の気管支炎と知恵熱と眼精疲労で入院は3日延びて、咳き込む度に気道の内側をカッターでズタズタにされるような鋭利な痛みと、視線を動かす度に眼球を巨人に握り締められるような鈍重な痛みと、四六時中乾式サウナに入りっぱなしみたいな高熱にうなされた。うなされながら友人にプレイ記録を自慢したところ、「バカジャネーノ」という、大変に有難いお言葉を賜った。
――消える。また浮かぶ。
中学1年の夏だった。
通っていた道場の恒例で、門下生の何人かで地元のエイサー祭りに参加することになった。
六車線の大通りを封鎖し、五百人超の人間が、真夏の太陽を受けて陽炎を噴き上げるアスファルトの上で脚絆に頭巾に打掛着流し姿で泰然と整列し、全身で複雑な螺旋運動を行いながら緩やかに四股を踏み、トラックの上から大音響で弾き出される三味線と地謡の咆哮を突き抜けるように太鼓を打ち鳴らす中で、彼も滝のような汗にまみれて精一杯小太鼓を叩いた。
けれども彼には未練があった。彼は当時から小柄な方で、大きな打太鼓や締太鼓を抱えながらでは踊れなかったのだ。同級生のくせに打太鼓を抱えて勇ましく踊る友人が羨ましかった。その燻った情熱は祭りの後、ゲームセンターで燃え上がる。某有名太鼓ゲームにどっぷりとのめり込んだのだ。
本当によせばいいのに、自治会の仕事で師範代がおらず、道場の練習がしばらく休みなのをいいことに、彼の夏休み後半戦は、その百円で四曲設定の筐体に打ち込まれた。彼の打ち込みは店内スタッフもコアなゲーマーもドン引きするほどにガチで、手の平の皮が全部ズリ剥けてバチは血まみれになり、その筐体の1Pは接触不良を起こして彼にしか叩けなくなった。小学生の頃からため込んだ数万円の小遣いを一週間かけて全額すって、難易度鬼設定で秒間12撃とかいう無茶な連打をコンマゼロ1秒のシビアなタイミングでリズミカルに5分間ぶっ通しで求められる超難度楽曲をパーフェクトに叩き切った彼は、ギャラリーの拍手喝采の中で気絶して人生三度目の救急車の世話になり、高熱を出して三日三晩寝込んだ。知らない間に撮影されていたらしい彼のプレイは、その後動画サイトにアップされ、2万回の再生数を記録して、彼はゲーム会社主催の大会にも招待されたが、出場はできなかった。両の手首の腱鞘炎がかなり重症で、しばらく箸も鉛筆も持てなかったのである。関節を焼けついた万力で締め上げられるような熱を孕んだ鈍痛はしぶとく手首に残留し、完治するまで組手も型稽古も禁止された彼は下半身の筋トレばかりやらされたが、練習に復帰した後は、彼の縦拳を完全に見切れるのは道場で師範代だけになった。
――浮かぶ。消える。はじける。揺蕩う記憶の残滓たち。
中学の入学を控えた春だった。
漫画喫茶に入り浸って格闘漫画を何作も全巻読破した彼は、空手を扱った多くの作品の中に登場する巻き藁突きというものに非常に憧れて、よせばいいのにどうにかしてこれを用意できないかと父に頼み込んだ。男気溢れる彼の父上は、自宅裏手の工場の軒下のアスファルトに舗装された地面を削岩機で粉砕し、回転砥石で丁寧に整えて、大工の知り合いに借り受けたボーリングマシンで掘削し、がっちりと縦穴を掘り上げて、木板をピッタリ差し込んだ。
殴りつける部位にゴム紐を巻きつけて完成である。藁は破傷風の原因になるからと、止した。だが彼はかつてないほど父に感謝し、毎日毎日この巻き藁に感謝の正拳突きを打ち込み続けた。まずは一日千本からだった。最初の一日で中指と人差し指の背の皮が全部ズリ剥けた。何度もズリ剥けた皮は一月ほどで厚く張り治し、拳がやや肉厚になった。三ヶ月ほどで、拳頭、つまり人差し指と中指の第一関節が中に引っ込んで拳がのっぺりとした形になった。半年も続けると、引っ込んだ拳頭が再び僅かずつ膨らみ始めた。いわゆる拳ダコだ。始めて二ヶ月で最初の木板が折れて、回数を一日千五百本に増やした。今度はひと月で折れた。三年続けて彼は高校生になった。折れた木板の枚数は三桁に届いた。進学ついでに、突き込む回数を一気に一日五千本へ増やした。彼の拳は初めて見た人がちょっとぎょっとするくらい厳つくなった。ずいぶん久しぶりに皮がズリ剥けたが、もう彼の拳はちょっと擦り剥いたくらいでは血を流さなくなっていた。それからさらに三年が経った。へし折った木板はそろそろ四桁に届こうとしていた。
そして、高校の卒業を控えた冬だった。
彼が初めての組手稽古で吹き飛ばし、病室に見舞いに来てゲームを届け、エイサー祭りで勇ましく大太鼓を叩き、ずっと大会で覇を競ってきた同じ道場の友人が、練習場の雑巾がけの当番が一緒になったあるとき、訥々と語りだした。内地の大学に推薦を貰った。どうしてもプログラミングを学んで、ゲーム開発がしたい。待ち時間に片手間でやるような適当なやつじゃない、コストパフォーマンスが吊り合わずに斜陽となった本格RPGを復活させ、子供たちに感動を与えたい。だから俺の空手はもうお終いだ。
最後にお前と決着をつけたい。
よせばいいのに青春ドラマ的な青い情熱にほだされて、彼はそのほとんどケンカじみた試合を受けた。グローブなし。ファウルカップなし。スーパーセーフなし。禁じ手、なし。
元はエアロビ教室だったらしい練習場は四面が鏡張りで、果てのない合わせ鏡の荒野に、二人きりで向かい合って、およそ持ち得る全ての技撃を交錯させた。
互いの矜持に懸けて、まさか金的や目潰しこそなかったが、互いの手先をロクに見もせずに、視認を許さぬ高速で飛び交う突きと蹴りと手刀の嵐を縫って、普段は約束組手や型稽古の中でしか使わないような組み技や掴み技を狙い合うのは冗談ではなく命懸けだった。残像も残さぬ勢い、彼の廻し受けを掠め、軌道を逸らされながらも左眼のフチにヒビを入れてきた本気の拳はしかし布石。震脚、地を震わす踏み込みは彼の右足の甲を正確に踏みつけ縫い留め、体を沈めて懐深くに入り込み垂直肘打ちを突き込まんとする友人の左の鎖骨に、彼は突貫一直線でカウンターの右縦拳を射放った。打ち抜かれて後方に吹き飛んだ友は派手に尻餅をつき、それが一本だった。最後の一撃で彼は自分の中指を脱臼し、彼の鎖骨にはヒビが入った。互いの体のあちこちには内出血の痕が多く残った。
この試合の怪我は、まるでその後すぐに内地へと去った彼との別れを惜しむようにずいぶん長く、痛み続けた。
――思い出が踊る。蜃気楼のように揺らめく。
はじめて中国武侠ドラマへの出演を打診されたときのことだ。
『芸名、ですか?』
まだぎこちない中国普通語で彼は問うた。相手は、カンフースーツにサングラスの、壮年の男。
男は大仰に頷き語った。
『悲しいことだけどね、島の人。最近は日本人というだけで毛嫌いする輩も多い。ウチの人間ということにした方が都合がいいんだ。普通語に不安があるなら北京か台湾出身ってことでもいい。プロフィールも一から作る。同じ東アジア系だし、見たところ、君は最後にテレビに出たときから随分雰囲気が変わってる。バレないよ。なんなら整形も斡旋しようか』
『なんだか……、不誠実な気がします』
『誰に? みんなは騙されたとは思わない。喜ぶ』
『いえ、自分に』
『わからないね。こだわって要らない反感を買うことはない。このやり方は昔、日帝が我々に伝えたんだ……。シャンラン、知ってるか?』
『……ええ。でも、ごめんなさい。あなたのやり方が間違ってるとは思いません。けど、それでも……』
彼がひと呼吸。長い間をおく。男は無理には口を挟まず……、目の前の役者を見定めるように黙った。
『僕が僕であることに、嘘はつきたくない。僕の名前は……』
スイッチを切るように、ブツリと情景が途絶えた。再び、暗闇。
――深く、遠く、遡る。名前の代わりに、自身の原点を想起する。
小学3年の春だった。
道場への入門が決まった日、今日はこれだけ覚えていくんだ、と前置いて、師範代は彼の目の前に手のひらを掲げた。
「小指から順番に、爪を付け根に食い込ませるように握るんだ。……そうだ。そうしたら親指の腹で、こう、留める……よし」
彼は師範代を真似た、己の手首の先にあるソレを自分の目の前に掲げた。
「そうだ、何度も握って確かめろ。沖縄方言じゃ、拳骨のことをメイゴーサっていう。いい響きだろ……」
「……メイゴーサ」
両の、拳を。
――泡沫の夢が途絶え、また、生ぬるい闇のなか。
彼は眠りのなかで見ているものの意味を解さなかったし、自分がヒトのカタチをしていることさえ忘れていた。
けれど、両の指を未熟な筋肉で時折震えさせ、懸命に動かし続けた。
はじまりが近い。
お気づきの方もいるかもしれませんが、私が別ペンネーム、別サイトにて掲載している別作品から、キャラクター設定を流用しています。(例によって更新停止してますが……)
やんごとない事情につき、なろう様には掲載できませんが、気になった方は、あれです、テキトーな検索エンジンで『血の盟約』って調べてみてください。
本サイトの感想欄などにて、『向こう』の話はされないよう、切にお願い申し上げます。
パクり疑惑回避のため、恐れながら念のため。
大変失礼しました。