生涯最後の戦い ~VSトラック~
よろしくお願いします。
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空が紅い。
かつて死んでいった、すべての生きとし生けるものの血を全部ぶちまけたみたいな凄まじい夕焼けが、路面のアスファルトと、僕の背を焼いていた。世界の断末魔めいた蝉の声を浴びつつ、夢幻じみた陽炎の中を歩く。
夏。沖縄。南風原町。
アスファルトと、さとうきび畑と、ジムと道場の町だ。他にも色々あるにはあるが、僕のイメージだとそうなる。
僕がこっちに住んでいたころより、さらに暑い。学生時代に行きつけだったゲーセンをちらっと覗いてきたが、知っている筐体はなかった。細かな商店や民家が消えて、デカい幹線道路が通っている。こんなに舗装してどうすんだろう。ヒートアイランド、でーじヤバいと思う。
大口の撮影を終えてから久々の帰郷だったが、スケジュールにそれほど余裕はなかった。でかい台風が連発した影響で便が続けて欠航してしまい、二日も遅れて到着したのだ。往年、世界で散発していた深刻な台風被害を鑑みれば、珍しいことではなかったが。
慌ただしく一日は過ぎた。
両親や、妹や、祖母や、やたら多い親戚と顔を合わせて、台風直撃後の後片付けを手伝って、墓に参って、学生時代に世話になった空手の師範代に、挨拶と軽い手合わせを先ほど済ませて、これから実家に戻って、ささやかな宴会をして、明日には那覇空港にとんぼ返って飛ばねばならない。
それで、次は……、どこにいくはずだったっけ。
そうだ、広東だ。次の映画の制作発表会に出席することになっていたはずだ。あれ、四川だっけ?
まあいいや、待ち合わせ時間に空港に行けば、マネージャーさんが教えてくれるはずだ。
やがて、勾配の急な二車線の長い長い下り坂に差し掛かると、遠く町並みが見渡せた。この辺はとにかく昔から台風が多かったので、自然、建物は低く重たく強固な造りになる。整然と居並ぶ無骨な直方体の群れは、墓石を思わせた。
左の路肩を下って歩いていると、ふと、少し前を歩いている、サマーワンピースに麦わら帽の、7、8歳ほどの少女が目についた。彼女の軽やかな足取りに合わせて、ロングの黒髪が煌めきながら、右へ左へと揺れ動くのが印象的だ。彼女を見ながら、僕はなにか感じていた……。たぶん、僕がその少女と同い年ぐらいのころの、思い出かなにか。かつての自分の、遠い印象のようなもの。
ふと、どう、と南風が吹きつけた。
首と目だけで何気なく振り返り、瞬間、僕はそれを見た。
一瞬だけだ。即座に、麦わら帽を押さえている前方の少女に跳びかかってその襟首を引っ掴むと、車道側に放り捨てながら背後へ転身し……、道の中心を大きく逸れ、塀を擦ぐように突っ込んできた巨大なトラックと、彼女の代わりに相対することになった。抱えて跳べば、ふたり一緒に躱せたんじゃないかと、小さく後悔。いやそれだと、ふたりとも轢かれて死んだかも。
それを行ったのは、良心や正義感ではなかった。まったくなにも考えていなかった。役者としての僕の身体に、あるいは人生にすり込まれた条件反射に過ぎなかった。きっと真っ赤な太陽を背に突っ込んでくる鋼の化け物の影が、あんまり劇画じみていたから。
多くの映画でヒーローを演じれば、こういう場面は多くある。そう、儒教の精神を汲む武侠の世界に描かれる英傑は、こういうときなにも考えずに危険へ飛び込むものだ。
嫌にゆっくりと鋼の怪物は迫ってくる。トラックが遅いわけではなくて、生命の危機を感じ取った僕の脳味噌が、全力で知覚を加速しているようだった。時間が粘ついて引き延ばされている。いわゆる『走馬燈』の状態だが、僕はこの、脳の神秘と日々の功夫がくれた素晴らしい刻を、悠長に人生を振り返るのに使ったりはしなかった。考える。反応する。生き残る。
生き残るのだ。
僕は自分が生き残ることを諦めてはいなかった。車に轢かれるのにも轢かれ方というのがあって、例えば、身体を宙で横に倒し、巧く筋肉を引き絞って内に丸まり、体幹を逸れた重心の端から、向かってくる車体の湾曲したボンネットを転がるように当たるとダメージはほとんどない。こういうスタントを自分でこなせたから、僕はいろんな監督に重用されたのだ。
でも、向かってくるトラックのフロントには絶望的に巨大な真四角の平面が広がるばかりで、とても衝撃を受け流す余地はなかったし、少女を投げ飛ばすのに足腰から生じた運動エネルギーを瞬間的に使い果たしたせいで、もう躱しようのないこの状況では、かつてアクション俳優の養成所で、陸自上がりの鬼教官から習ったどんな受け身も役に立たないはずだ。倒れ、車体の下に潜ってやり過ごすのは……、やはりタイミングが悪い。遅いのだ。逃げ遅れた上半身をバンパーに打ちつけて即死だろう。
だから僕はとっさに左足を後ろに引きつけつつ、その膝を抜いた。同時、右足で地を押し込んで後方へと小さく跳躍。相対速度を気休め程度に殺しつつ、宙に身を投げ出す。重心は後ろに倒してあり、四肢は脱力して『敵』へ突き出した。
あんなモノまともに受けてしまったら、いったい何万キロニュートンの衝撃荷重がかかるかわかったものじゃない。時間をかけて重さを全身に散らさねばならない。幸い、僕の筋肉と関節は自発的に荷重を制動するこの上ない柔体として機能するはずだった。
迫ってくる。近くで対峙すると、ほとんど壁だ。
まず左のつま先がバンパーに接した。衝突の瞬間は力に逆らわない。次いで、右のつま先。全身がバネになったイメージで、すべての関節と筋肉をフル稼働。柔く受けてから刹那の後に力を返す。
我ながら無茶だった。
異様に引き延ばされた時のなかで、僕と車体を置き去りに、世界は前へ前へと流れていく。両の大腿から背中までの筋繊維が、順番にブチブチと千切れる音を聞いた。当然それだけで重さを支えきれない。フェンダーに接した左膝の皿が、割れた。股関節が衝撃だけで外れた。ここで右足まで失うわけにはいかないと感じた僕は、両の手の平を、掌打の要領でウィンドウに叩きつける。左の手首が外れるのと、接した部分からガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走るのとがゆっくり感じられた。出遅れた右の手の平は、なんとガラスを円形にくり抜いてしまい、僕の右腕は、その表面をズタズタに引っ掻かれながら、肩までどっぷり車内に入り込んだ。撮影で使う飴細工の偽物と違って、半端に頑丈なガラスはがっちり僕の肩を喰ってしまっている。もう右腕は捨てねばならないかもしれないと覚悟した。次いで、右の脇腹から胴体がフロントに叩きつけられてしまう。アバラが何本イッてしまったのか、見当もつかない。
最後に、巨人に鷲掴まれた頭部が、ギリギリとウィンドウに押しつけられていく。ゆっくりとした体感時間にそんな気がしただけで、実際はガツンとしたたかに右側頭部を打ちつけたはずだ。視界がぼやける。晴れた。結局、腕立て伏せに力尽きたような格好で、フロントに押しつけられる格好になった。満身創痍だが、いよいよ、もう慣れた格好だった。ついに即死を免れたのだ。走行する車体にへばりつくのは初めてではなく、僕の基準ではありふれたスタントだ。生き残れる、と思っていた。もう少しだと。
右頬をべったりヒビだらけのガラスにくっつけたまま、目線だけ右に動かして車内を見ると、急病か、居眠りか、まあここまでやらかして起きないのだからなんかの病気だろう……、運転手の深く垂れた頭が見えた。突っ伏されたハンドルは、彼の重量によって真っ直ぐ固定されているようだった。
今度は目線を左に。坂の終点が見える。先は4車線の大通り。これから前輪が平地に乗り上げたその瞬間に、車体は下方への速度を失い、今までの慣性に従い僕を地面に放り出す……、あるいは叩きつけるはずだった。凌ぐには脚だ。辛うじて守り抜いた右脚で踏ん張ればどうにかなる。車体が通りに出たあとは、別の車が両の車線から突っ込んでくるか、否か。知るは天のみぞ!
けれど、見てしまった。
坂の終点。通りに出た、少年。几帳面に四角く畳んだ空手着を、白帯で括って肩にかけている。
まるで魅入られたように、つぶらな目を見開いて棒立ち――直撃コース。
僕は声にならない絶叫をあげて、車体に突っ込んだ右腕を伸ばし、ハンドルに手首を引っかけて思い切り右に切った。
浮遊感。
車体が横倒しに。
僕の身体が車体から浮き上がる。昔、柔道の授業で背負い投げされた感覚に似ている。食い込んだガラスに右の外腕をごっそり抉られながら、複雑に錐もみして僕の身体は吹っ飛ぶ。空を飛んでいるようだが、実際は落ちている。ここは下り坂で、つまり地面が斜めで、僕は本当の地面の側に、坂を真横へと吹っ飛んでいる。回転する視界。紅い飛沫。地獄の底から響くような重低音が、間延びして聞こえる。トラック、横倒しになってくれた?
とっさに受け身がとれた。視界がぐるぐるしている。紅い空、アスファルト。トラックは僕を置き去りに横転し、坂を転げている。また紅い空。
一回転げる度に、その、小刻みな衝撃ごとに、なんだろう。胸に、えもいわれぬ奇妙な感覚。鳩尾のあたりに水を思い切り注ぎ込まれるような、あるいは、穴が空いてしまったような。喉の奥になにか詰まっている。
ぐるぐる転げている。目に映る景色はすべて廻る。トラック。後輪側が大きく浮いて、空手家の少年を跨ぐように通り抜けた。ああ、奇跡ってあるんだな。ちょっと民家の塀が大変なことになってるけど、人的被害なし。運転手のことはわからないが、まあ、しかたないだろう。僕に向かってくる車。何台も。あ、4車線のど真ん中に突っ込もうとしてるのか僕。トラックもこちらのほうに横倒しのまま滑ってきている。
視界が止まる。僕は大の字になって紅い空を見ている。クラクションと、ブレーキ音と、鈍い衝突音が、僕の周りで幾重にも重なって聞こえた。轢き潰される、と思ってとっさに動こうとしたが、腹筋に力を入れた瞬間に、ゴボリと咽せた。吐血。
止まった。なにもかも。
何台もの乗用車が、パズルかなんかみたいに、僕を避け、互いにかみ合って停まっている。
路面に接した背中が熱いのに、背筋は寒かった。
声が出ない。息ができない。
ただ、空が、紅くて、なんか、ぼやけて……
最後に、妹との会話を思い出した。
にぃに、と、僕の出かけに妹は問うたのだ。ホントに送ってかなくていいの? 車、出すよ? と。
いいよ。と、僕は答えた。久々の里帰りだろ、自分の足で歩きたいんだ。ちょっと師範代に挨拶にいくだけさ……。
買い出しに車、要るだろ? ケンタのチキンと缶ビールを山ほど用意して待っててくれよ。
……ああ。
結局、人生最後の散歩に、なってしまって――
やっぱ異世界転生っつったらトラックで轢死DEATHよね!(白目)
ところで、『ドラマチックにサイキック』の更新をお待ちの方、本当に申し訳ありません。
どうしても書きたいヤツに出会ってしまったんです……。
ちょっとは書き溜めがあるので、スムーズに更新できるよう努めます。
重ねてよろしくお願い申し上げます。