5・マダム、そしてムッシュ。
ジューと気持ちの良い音が響いて、フライパンでバターの溶ける香りが広がる。
俺は振り向いて、巽さん家の紫乃花さんに尋ねた。
「どっちがいいスか?」
「では、わたしはムッシュで」
「うっす」
頷いて、家から用意してきたソースをハムチーズサンドにかける。
ブラックペッパーを振ったら、完成だ。
ひと足先に……全員の用意ができるまで待ってたら冷めちまうからな……マダム、クロックマダムを頬張っていた紅太が、不思議そうな顔をする。
「マダムは目玉焼きが載っててお得なのに」
そんな理由でマダムにしたのか。龍神の長の坊ちゃんのくせに、なんかみみっちいぞ。
後、口にもの入れてしゃべるのはよせ。
「だって紅太、ムッシュも食べたそうにしてたじゃないですか」
キッチンと居間を隔てるカウンターの上に出来立てを置く。
席に座った紫乃花さんは、クロックムッシュの端をフォークとナイフで切り取って、紅太の皿に置いた。
食い意地の張った小学一年生は、満面の笑顔になる。
「ありがとう、姉上。余も……」
ヤツのマダムは、笑顔の直前に飲み込まれていた。
さっきしゃべったとき皿に落ちた、ヨダレまみれのパンくずを見つめる紅太に、紫乃花さんは微笑んだ。
「紅太は育ち盛りなのですから、たくさん食べなさい」
「はぁい」
「お皿に落ちたものもですよ。せっかく乾さまが作ってくださったのですからね?」
自分のマダムを焼きながら、俺はキッチンの隅にある電子レンジを見た。
いや、かつて電子レンジだったものの残骸だ。
俺には直せなかった。家電会社の専門家にも無理だろう。
コンセントだけが無傷で残った、真っ黒な鉄くずなんだぜ?
昨夜の紫乃花さんは、可愛く小首を傾げて言った。
スイッチを押しても電源が入らないので、電力が足りないんだと思って霊力を注いだら、いきなり爆発してしまったのです。
それはね、コンセントを差していなかったからですよ。
アルカイックスマイルで答える俺に、彼女は瞳を丸くした。
まあ! コンセント? を差していたら霊力を注いでも爆発しなかったんですね。いやだ、恥ずかしいわ。避雷針みたいな感じなのかしら?
うん、違う。
もっともその突っ込みは飲み込んだ。
恥ずかしそうに頬を赤らめた彼女はとても可愛くて、いや、可愛いってのは俺の主観じゃなくて客観的な意見としてなんだが、ともかく退魔師の息子である俺は龍神の長の娘である彼女から目が離せないので、無粋な突っ込みを入れてる余裕はなかったのだ。
「んじゃ失礼します」
俺は自分の皿を持って、紅太の隣に腰かけた。
クロックマダムを切って、紫乃花さんの皿に載せる。
「せ、せっかくなんで、良かったらこっちも食べてみてください」
「まあ、ありがとうございます」
「すまぬの、乾殿」
空っぽの皿を差し出してくる紅太の頭を、こつんと殴る。
「お前は、もう食っただろ」
龍神に対してどうなの? という気持ちはあるが、普通にガキだしなあ。
そもそもふたりの母親がこの土地を守護しているのは、高位の神に命じられたとか人間と契約したからとかではない。時空が近いこの土地を守護することで、自分たちの棲む異界の霊力が安定するからなんだと。
聞き流したノロケのところどころで、親父が挟んだ真面目な話を思い出す。
人間が少なかった昔と違い、今は龍神の守護が戻ったくれぇじゃ土地は浄化されない。人々の悪意は霊脈を汚し、邪悪を生み出していく。
膨れた紅太をつついて、流しを指差す。
「食べ終わった皿を流しに浸けたら、冷蔵庫のプリン食ってもいいぞ」
「ひゃほー」
うん、やっぱ小学生だよなあ。
ちなみに、冷蔵庫も朝、俺が来るまでコンセント抜けてた。
最初から設置されてたクーラーは、昨夜のうちにコンセントをつなげてる。熱中症怖いもんな。
俺が持ってきたきな粉プリンを取り出して、紅太が怪訝そうな顔になる。
「乾殿、冷蔵庫の中が冷たいぞ。もしや雪女が封じられているのか? 余にも感知できぬとは、とんでもない術だな」
人間界に関するふたりの知識は、漫画で培われている。
冷蔵庫とか電子レンジとか、そういうものがあるのはわかっているし、機能なんかも父親に聞いたらしいが、原理までは理解していない。
まあ人間界の人間でも、はっきり理解してはいねぇもんな。
もちろん俺も説明できるほどの知識はない。
「科学科学」
適当に言うと、紅太は重々しく頷いた。
「なるほど、カガクという名の退魔師か」
いや、科学って単語くれぇは漫画にも出てきただろ。
つっても、ふたりの読んだ漫画は母親である龍神の長秘蔵のもので、恋愛をテーマにした少女漫画がほとんどだったらしい。好きだ嫌いだとほざいてる最中に、突然科学の話が出てきたりはしねぇか。
「この黒蜜はどうするのだ?」
「きな粉プリンにかけて食え」
「うむ」
和風のものはちゃんと知ってる。
現代に近いものだけ排除して、江戸時代くれぇの生活をしてたってことかね。
ぱくん、ごっくん。
スプーンでかき出したプリンを一気に飲み込んで、紅太が俺を見る。
いや、そんな一瞬で食える量じゃねぇぞ。
「ふわふわしていて口の中で蕩ける。……美味だ。乾殿、もうひとついただくぞ」
「お代わりは小学校が終わってからだ」
唇を尖らせたものの、紅太は素直に頷いてプリンの容器を流しに浸けた。
夏休みに近い微妙な時期のせいか、龍神だからか、紅太は学童保育を申し込んでない。
いわゆる鍵っ子だ。
小学校が終わってから俺らが帰るまで退屈すんだろうな。俺もそうだった。
親父は仕事でお袋はパートって聞いてたが、本当はふたりとも退魔の仕事してたのか。
いつ仕事があるかわからなかったから、学童に申し込めなかったんだろう。
「宿題終わって暇だったら、テレビ観てろ。……あー、もし電源が入らなくても、霊力を注ぐのはやめろ」
冷蔵庫と一緒にテレビのコンセントも差し込んだから、大丈夫だと思うけどよ。
あ、そうそう。
退魔師の息子だけど、俺にはなんの力もなく修行もしてないってこたぁ、ふたりに教えてある。そういうので見栄張んのってダセぇじゃん。
ウソついたせいで、危ない目に遭わせたりしちまうのもイヤだし。
親父はちゃんと、ふたりの霊力封じを用意してくれていた。五色の布で編まれた腕輪だ。
龍神の力は大きすぎるから、完全に封じるのではなく少し抑えるくらいだという。
しっかしよう、そこまで用意してたんなら俺に言っとけ!
退魔師の話はできなくても、隣家に知り合い……前からの知り合いではなくて退魔師協会を通じて知り合ったんだと……が引っ越してくるってことくれぇは教えといてくれ。
──紫乃花さんが食後のプリンを食べている間に洗い物を済ませ、俺たち三人は学校へ向かった。洗濯は……週末にでも紫乃花さんに教えよう。さ、さすがにそこまで手伝うのはヤバいよな、うん。
てか江戸時代くれぇの生活ってこたぁ着物だろ?
着物って、し、下着つけねぇって、もしかして今も……い、いやなんでもない!
俺は硬派だ! 紫乃花さんの服の下のことなんか、ちーっとも考えてねぇ!




