2・きつ姐さん
俺は、小学校のときお年玉で買ったデカい中華鍋を振った。
家から持ってきたんだ。
チャーハンはこれじゃねぇとな。
本当は火力ももちっと欲しいけど。思いながら、お玉で中身をかき混ぜる。
うん、いい出来だ。
──が、巽家キッチンの主役は、俺オリジナルの納豆チャーハンじゃなかった。
じゅるっ。
何度もヨダレを飲み込みながら、紅太がカウンターの周りを回る。
視線はカウンターの上の皿から離れない。
そこには肉汁を閉じ込めるため、休憩中のローストビーフがある。
たっぷりかけた市販のタレが、少し焦げた匂いを漂わせて、牛肉ブロックにしみ込んでいく。
焼けた砂糖の匂いが心地いい。
カラメルの香り成分は、赤血球が運ぶ酸素の量を増やして冷え性を緩和してくれる。
お袋は冷え性がひどかったから、冬になると、よくキャラメル系のスイーツを作ってやったっけ。
筋肉ダルマで、年中暑苦しい親父のほうが大量に食べてやがったのは、今でも解せねぇが。
「紅太、チャーハン載せる皿出してくれ。四人分な」
男子小学生は、唇の端から垂れたヨダレを腕で拭く。
あふれすぎて飲み込み切れなかったみてぇだ。
まあ、気持ちはわかる。成長期だもんな。
納豆チャーハンをプッシュしたい俺でさえ、肉の匂いにときめいている。
こっそり唾を飲み込んで、皿にチャーハンを載せていく。
紅太が目を輝かせた。
「おおっ! チャーハンも美味そうだな」
なんだよ。ずっと肉ばっか見てたくせに。今さら、んなこと言ったってなあ……チャーハンを分け終えて、俺は包丁を手にした。
「……端っこ味見すっか?」
「うむっ!」
「ええっ? 紅太だけズルいです!」
鈴を転がすような可愛い声で不満を表明したのは、ちょうど部屋に入ってきた紫乃花さんだった。
今日はTシャツ型のマキシワンピースで、色はグレイ。
どんなワンピースも似合う彼女は、ぷうっと膨れた。
「わたしも味見したいです。お部屋にいても美味しそうな匂いが漂ってきました」
「イイっすよ」
丁寧語に戻った俺に、紫乃花さんは一瞬だけ怪訝そうな顔になった。
でもローストビーフの端っこにフォークを差して渡すと、たちまち笑顔になる。
手づかみの紅太と一緒に頬張って、可愛い顔をくしゃくしゃにする。
……可愛い。
こんな状況でも、彼女は可愛い。
バカ勇気、泣くんじゃねぇ。惚れた女の幸せを願ってやるのが、真の硬派ってもんだろ?
俺は涙を飲み込んで、これまで視界に入れないでいた、七尾さんに目を向けた。
「七尾さんも味見しま……」
オレンジのストラップレスキャミソールに黄色いショートパンツを纏い、すらりとした足をさらした七尾さんは、真っ赤な顔で俯いている。
俺が女の服の種類に詳しいのは、お袋が無口だからだ。
服屋の店員にお袋が買いに来た服の種類を告げて、
彼女は俺の妹ではなく母親なので、デザインはシックなものをお願いします。
と告げるまでが仕事。
俺は味見を終えて、うっとりとローストビーフを見つめている紫乃花さんに視線を移した。
納豆チャーハンにも興味を持ってほしいが、今言いたいのはそれじゃねぇ。
「紫乃花さん」
「ご飯ですか?」
「勇気、噛んだら肉汁出た! 柔らかくて、すごく美味いぞ! もう一枚、もう一枚!」
とりあえず紅太は黙ってろ。
俺は手を叩いてお代わりを要求する男子小学生を無視し、親指で七尾さんを指差した。
声を潜めて告げる。
「……肩紐があるか、パッドのついてるキャミのがいいんじゃないっすか? 男の胸じゃズリ落ちちまいますよ」
「イヤだ、勇気さま。七尾先輩は女性ですわ。隠行の術を解いても、殿方の制服のままでは変化がわかりにくいかと思いまして、わたしの服をお貸ししたんです」
「……」
あの胸で?
と一瞬思ったが、考えてみりゃお袋も似たようなもんだ。
お袋は全体的に丸みがあるから、性別を間違われることはねぇんだけど。
てか女? 七尾さんが女って……じゃあさっきふたりが紫乃花さんの部屋で着替えてたのは、恋人同士だからじゃなくて、女同士だったからなのか?
うひゃっほー!
俺は躍りだしそうになる自分を抑えた。
なんだ、そうか。そうだよな。そういうことか。
変な想像して凍りついてた心が燃え始める。
包丁を握る手が軽い。切り分けたローストビーフの厚さに、紅太が歓声を上げた。
チャーハンの上にひとり三枚ずつ載せて、あふれた肉汁と混じったタレを軽く注ぐ。
もちろん納豆チャーハンの持ち味を殺さない程度だぜ?
「紅太、スプーンとハシ」
「任されよう!」
「わたしはお茶を用意しますね」
「七尾さんはお客さまっすから、座って待っててください」
「お、おう?」
落ち着かない様子で席に着いた七尾さんも、肉の匂いが気になるようだ。
筋の通った高い鼻が、ぴくぴく動いている。
あ、耳出た。人間の耳とはべつに、七尾さんの頭に三角形の獣耳が飛び出した。
箒みてぇな尻尾も生えてる? どちらも焼きたてトーストの色だ。
もしかして紫乃花さんたちと同じで、人間じゃねぇのか?
……それはともかく七尾さん、なんでさっき泣き出したんだろ。
紫乃花さんがお茶、紅太がスプーンとハシを用意して、それぞれの席に着いた。
「ふわあ……」
七尾さんの隣に座った紫乃花さんの前にチャーハンを置くと、感極まったような声を上げる。
見つめているのが上の肉だけでも、俺は嬉しかった。
紅太も席に着き、自分のスプーンとハシを握りしめている。
全員の熱い視線を感じながら、俺も自分のチャーハンを持って椅子に座った。
今は七尾さんの涙の理由よりも大切なことがある。──両手を合わせて、
「いただきます!」




