12・NA・ME・KU・JI!
「お帰り、勇気」
合い鍵は預かっている。
巽家の居間に入ると、ニヤニヤ笑いを浮かべた紅太に呼びかけられた。
なんでいきなり呼び捨て?
「泣きながら帰ってきた姉上に理由を聞いたら、勇気さまが……と言っていたので、余も名前で呼ぶことにした。良いな?」
「紫乃花さん、泣いてたのか?」
俺が、彼女自身に怯えたと勘違いされたんだろう。
紅太はニヤニヤ笑いのまま、肘で突いてくる。
「痛っ」
片手で抱えていたショッピングバッグを落としてしまう。
卵の安い日じゃなくて良かった。
「勇気ぃ、そなたヘタレかと思っていたら、なかなか大胆だな。カードをくれたのも、余を留守番させて、ふたりっきりで買い物へ行くためだったのか? ん?」
いや、カードは貸しただけで、譲ったつもりはねぇぞ。
とはいえ、今はそんなことどうでもいい。
俺は辺りを見回した。キッチンにも居間のソファーにも彼女の姿はない。
「紅太、紫乃花さんは?」
「自室で泣いている。……で? なにをしたのだ? 壁ドンか? 顎クイか? ひゅーひゅー」
紅太は口笛を吹いてない。口でひゅーひゅー言ってるだけだ。
アニメのほうが面白いっつってたが、結構恋愛ドラマにも詳しそうじゃねぇか。
てか、お前ねーちゃんが泣きながら帰ってきたんだから、ちったぁ心配しろ。
……まあ、紫乃花さんが本気で怒ったら、俺なんか一瞬で塵にされる。それがわかってっから、のん気に囃してやがるんだろうな。
ところで、と紅太は俺の片腕を見つめた。
「さっきからずっと突っ張っておるが、腕を伸ばしたままだと肘裏が痛くないか?」
「痛ぇよ、チクショー!」
でも曲げない。絶対に。
この腕の先には、海鮮のためにサービスの氷を入れていたビニール袋がある。
中に先輩トリオがいるんだ。俺が入れたんじゃねぇ。入ってもらった。
先輩トリオは這うことしかできねぇから時間がかかった。エビはちょっとヤバそうだ。
呪われてても言葉が通じてホッとしたぜ。
放置してたら乾いて死んじまうもんな。だけど俺には入れらんねぇし。
直に触って自分で入れたりしたら、心臓が止まっちまうぜ。
袋越しなら?……うん、ダメだ。今想像しただけで意識失いかけた。
「お、ナメクジだな。姉上が呪いをかけたのか?」
「ちょっと誤解があったんだ。それと、その名を口にするな」
「……? 名前? ナメクジ?」
「言うなっつってんだろっ! アイツとかコイツとかソイツとか、せめてローマ字で言ってくれ」
「NA・ME・KU・JI?」
「言わなくていいときまで口に出すなーっ!」
「注文が多いぞ。しかし勇気はコレが怖いのか。気が合いそうで良かった」
「はあ?」
「三すくみというのがあってな。余や姉上は龍神。龍は蛇に似ているだろう? 霊力の法則では、形が似ると性質も似てくるものなのだ」
確かに尻尾は蛇そのものだよな。紫乃花さんのしか見たことねぇけど。
つっても彼女たちは、龍の姿が正体ってわけじゃねぇ。自他ともに神と認めているけれど、霊力が強いだけで、基本は人間と変わらない。
あの尻尾や角は、霊力でできた鎧? みてぇなものらしい。本来、形は力の強さや属性で決まるものだが、制御が上手ければ好きな姿にもなれるという。
昨日は電子レンジ爆発のショックで飛び出して、無意識だったから隠行で隠すこともしなかったんだと。
「だからコレには弱い」
「お前、平気そうじゃん」
「三匹程度ならひねり潰せる。もっとも姉上が誤解で呪ったというのなら、元に戻したほうが良いのかな?」
「できるか?」
「姉上は呪いや封印、内に向かう力を得意とするが、余は逆だ。外に向かう力、爆発や解放を得意としている」
紅太が立てた人差し指の先が、金色に光る。
紫乃花さんの銀光と、色は違うが同じものだと感じた。
金の光をくるりと回して、
「もう肘を曲げたらどうだ?」
「へ?」
ビニール袋の中は空になっていた。
「呪いの軌跡を辿って、元いた場所に移動させた。暑さで見た夢だと思うだろう。呪われてる間は脳自体がアイツに変化していたしな」
「そ、そうか。ありがとう、紅太」
「礼には及ばん。余の身内がしでかしたことだ。だが勇気、姉上を責めないでやってくれないか? 慣れない環境で気持ちが張り詰めていたのだと思う」
コイツ、大人だな。
龍神だからだろうか。紫乃花さんじゃなくて、紅太が長になるって聞いてるし。
「それはそうとして、いい加減肘を曲げたらどうだ? 最後には引き攣るぞ」
「……紅太。俺は人間として最低の頼みをお前にする」
「ん? 姉上とイチャつきたいから出て行けというのなら気にするな。大家殿のところへ行って、カードゲームにつき合ってもらっているぞ」
大家さんはふたりの正体を知っている。
姉弟の父親で長の夫の巽さん(龍神にかけてるわけじゃなくて本名)は、元々このマンションの住人だった。
ベランダで布団を干しているときに落下して、地面に叩きつけられる寸前で異界へ行っちまったのだ。住人が行方不明になったことで、ただでさえ誤解を受けやすい顔の大家さんは、いろいろ疑われたらしい。
うちのマンションは、この土地の中でも霊脈の交わりが特に多く、昔はかなりヤバイ場所だった。協会経由で依頼を受けた親父たちが張った結界があるので今は問題ねぇが。
龍神の守護より親父たちの結界のほうが威力があるってのとは違う。小さいもののほうが守りやすいってだけだ。
結界ってのは消耗品なんだけど、紫乃花さんたちが住んでいる間は、ふたりの霊力を吸って自己回復する。それがふたりの霊力封じにもなるんだ。
紅太が軽々と呪いを解いたのを見るに、霊力封じっつっても微々たるものなんだろうがな。
俺は、龍神の坊っちゃんに告げた。
「この袋、コンビニのゴミ入れに捨ててきてくれねぇか?」
我が家のゴミ箱には捨てらんねぇ。
んなことしたら、俺は不眠症になる。次のゴミの日まで眠れるもんか。
いや、わかってんだぜ? もう中身はいない。だけど怖いもんは怖いんだよ!
「べつに家のゴミ箱でかまわんぞ」
紅太は俺から奪い取り、先輩トリオが入ってた袋をキッチンのゴミ箱に放り込んだ。
うああぁぁぁ!
おまっ! これから俺、そこで夕食作るんだぞ?
俺のアイツら嫌いを舐めんなよ?
普段ビールで集めたヤツも、親父に捨ててもらってるくれぇなんだぞ!
紅太は肩をすくめ、鼻を鳴らす。
「三匹のナメクジくらい、屁でもない」
「名前出すなっつってんだろっ!」
──自己嫌悪。ガキに本気で怒鳴っちまった。
俺はタオルに包んでタンクトップの腹に抱いていた仔猫を紅太に託し……一縷の望みを抱いていたが、いくら龍神でも死んだものは生き返らせられないと言われた……、洗面台で手の皮が切れるほど洗ってから、紫乃花さんの部屋へと向かった。




