[02-3]
シナツは移民として処理を受け、エデナスの外縁部に住まいを用意された。
乗用車の運転席にはルシエノが座っている。彼女の両手はハンドルを握らず、膝の上にちょこんと乗せられたままだ。車を操っているのは、優秀なサポートAI、バスケトなのである。
後部座席ではシナツとディゼが肩を並べ、それぞれ窓の外を眺める。
夜が訪れ、色とりどりの煌びやかな照明で飾り立てた街の通りを、ザトウ号の船員以上に複雑な人種が行き交っていた。
先ほど見かけたトカゲ頭の他にも、狼や猫の耳、目を持つ人々もいる。
フェアリアンは全く見かけない。珍しい人種なのかもしれなかった。
ふと、ディゼの琥珀色の瞳が窓に反射して映っているのに気づく。
「なんだ」
「別に。ずっと黙ってるから、ダアトと何を話したのかしらって」
「歴史の勉強と、……これからのことを、な」
シナツは今になって、白くなった拳に気がついた。
固い針金のように曲がらない指を強引に開き、血を通わせる。
「市民は漂着物をどう思っているんだ。自分たちの世界を滅茶苦茶にされたんだ、忌み嫌っているんだろ?」
「……そういう人は少なくないわ」
ディゼは慎重な物言いだった。
「二百年前は、特にね。技術を捨てても幸福は掴めるはずだって主張してた人たちが多数派だったの。ダアトの思想とは異なる街を作ろうとして――でも、だめだった。武器も作れないから、フォービドゥンに襲われて全滅したそうよ」
「……結果から見れば、ダアトは正しかったというわけか」
「そうなるわ。まあ、たとえフォービドゥンがこの世に存在しなくても、いずれはそうなると思うけど」
冷めた口振りのディゼに、シナツは「何故そう思う」と尋ねた。
ザトウ号の惨状しか知らない彼には、ナノマシン群さえいなければ、と考えない彼女が不思議でならない。
琥珀の瞳が悟ったように遠くを見つめる。
「人類は天敵から身を守るために炎を起こす術を学んだんだもの。それを拒むなら、自然界だけじゃない、遺産の危険に晒されるだけよ」
「だが、現代の人類は炎がもたらす破壊を知っているはずだ。同じ過ちを繰り返すっていうのか?」
「……シナツは原始主義者みたいね」
「俺は単に、こんな未来を見たくはなかっ――」
矢継ぎ早に本心を言葉にしてしまったところで、はっと我に返り、窓に軽くこめかみを打ちつける。
「……すまない。それでも、あんたたちはこの世界で生きているんだよな」
「気にすることないわ」
ディゼの声は穏やかだった。
項垂れる青年の肩に柔らかく手を乗せる。
「あたしたちは二百年かけて漂着物との折り合いをつけてきたけど、あなたはまだ一日目じゃない。時間が解決する、なんて無責任なことを言うつもりはないけど……」
彼女はぽんぽんと叩き、温もりを残して離れた。
「エデナスに滞在するなら、向き合い方をなんとなく感じることがあると思うわ」
運転席のルシエノが肩越しに振り返った。
ネオン光の陰で、エメラルドの瞳が微笑んでいる。
「確かに漂着物には危険な技術も多いです。でも、私としては感謝のほうが大きいんですよ。もしも技術がなかったら、私も存在していません」
ルシエノは長く尖った耳を撫でた。
「フェアリアンはみんな、遺伝子操作を受けて生まれた子供なんです。この耳は証としてこうデザインされたそうです」
知らずして彼女の存在を否定していた自分が浅ましい。
ろくに外を知らない過去人が口出しするまでもなく、彼ら彼女らは今ある世界に順応しているのだ。
この雑踏に加われば?
それ以前の問題だ、とシナツは硬く目を閉じた。
○
到着したのは、中心部よりも明らかに寂れた区画だった。
ディゼにドアを開けてもらったシナツは、車外に降りるなり顔をしかめた。
「この臭いはなんだ。息苦しいというか、喉が渇くというか……今までのはどうにか我慢できたんだがな」
「シナツさんが地上の大気に慣れていないからですよ」
ルシエノがイグニッション・キーを上着のポケットにしまい、視界に映した住居の写真と実物を見比べる仕草をした。
二階建ての古いアパートである。
「宇宙船の空気はコンピュータに管理されていたそうですから、限りなく無臭に近かったのかもしれませんね。ここは裏手に排水路が流れていますし、臭いは特に強いでしょう。何も、こんなところを手配しなくてもいいのに……」
「あなた、ダアトを怒らせたんじゃないの?」
意地悪く笑うディゼに、「かもな」とシナツは答えた。
ルシエノがトランクルームを開け、商品名の入った段ボール箱を不安そうに眺める。
途中、立ち寄った商店で購入したゼリータイプの栄養調整食品だ。
「本当に、食事はこれだけでいいんですか?」
「ああ。味がなく、かつ、エネルギーを補給できる食い物というリクエストに適っているんだろ? 水でさえ口に合わないんだ。当面はこれでいい」
食事の他にも、衣服や靴を少女たちが選んで購入していた。
これらにかかった代金は特務課の経費で落とす、とのことだ。
荷物をどう運ぼうかと悩むルシエノに、シナツは手枷に封じられた両腕を差し出す。
「俺が運ぼう。これはもう外してくれ」
「だ、だめです! ちゃんと部屋に着いてからでないと――」
一緒にいた数時間から察すると、ルシエノは規律を重んじる性格らしい。
一方で、同僚のディゼは苦笑いを浮かべるのだった。
「いいじゃない、ルーシー。順番がちょっと前後するだけよ」
「でも……ううん……分かりました」
ルシエノは手枷の下を支え、しばし見つめる。
機関の監視システムに送られた要請はすぐに承認され、小気味いい電子音と共にロックが解除される。
シナツは自由になった両腕を軽く振り、荷物を軽々と抱えた。
ブロック塀に囲まれた敷地は、さぞかし雑草駆除に苦心しているだろう、と思わせる植物の侵食具合である。
「シナツさんの部屋はここの、二きゃっ!」
ルシエノは奇妙な悲鳴を上げて、錆びた外階段の一段目から下りた。
鉄板を固定するネジが不安定に軋んだのである。
「……外れたりしないですよね」
「他にも住民がいるんだから大丈夫よ、きっと」
「うう……」
彼女が一段ごとに両足を乗せるものだから、上がるのにかなりの時間を要した。
階の一番奥がシナツに用意された部屋である。
エデナスの施錠は電子式で普及している。このアパートも例外ではなく、ドアの横に旧式の生体認証パネルが備わっていた。
特務課の権限でドアを開けたルシエノは恐る恐る中を覗き込み、大げさに胸を撫で下ろす。
「掃除はちゃんとされているみたいですね」
「そりゃよかった」
備えつけのベッドに簡素なキッチン、そしてシャワールーム。
部屋は段ボール箱を置いてなお、簡単な運動なら苦にならない広さだ。
ベランダ側の一面がガラス戸になっているため、外の冷気が室内に浸透している。
その癖、暖房器具は空調のみと来た。
「それでは、シナツさん」
ルシエノがこほんと咳払いをした。
「しばらくは観察期間と言って、窃盗や暴力事件を起こした移民は重い処分が下されます。衝動的な行動はくれぐれも控えてください。もし、何か困ったときには、これを」
と、手首に着ける端末装置、リストデバイスを渡される。
「通話機能をインストールしておきました。通報は警備課を、日常生活でお困りの際は内務課のコールセンターに連絡してください。移民向けのガイドも入っています」
端末の操作は疑似的なタッチパッドだった。
ホログラム・スクリーンに触れると、装置が指の動きを認識するのである。
「それから、あの……」
ルシエノが上着の内側から手のひらサイズの小さなケースを取り出した。
受け取って中を見たシナツは、胸を締めつけられて目を細めた。
「よかった。どこかで落としたと諦めていたんだ」
それは、黒縁眼鏡だ。
血は綺麗に拭き取られていた。
そっとケースに戻し、ひとまずの置き場所として段ボール箱の上に乗せる。
「シナツさんは眼鏡をお掛けに?」
「いや、俺のじゃない。カザネの形見だ」
それを聞いてしまったルシエノは、そっと俯いた。
「シナツさんの身柄を確保したとき、技研に回していたんです。視力矯正レンズと分かったので預かっていました」
「何から何まで、感謝する」
「い、いえ……私はセフィロト機関の人間ですから……」
彼女は言葉を喉に詰まらせ、ぐっと息を呑んだ。
ほんの僅かな間を置いて、幼さを残した顔が上がる。
「では、現時点をもって護送完了とさせていただきます。私たちはセントラル・タワーのオフィスに戻りますね」
彼女ははにかみ、極力シナツを見ないように部屋を出ていった。
彼女たちはすぐ別の任務に就くのだろう。
もう二度と会うことはないかもしれない。
無言で見送ったシナツは、もう一人の少女に目を向けた。
同僚が車に戻ったのに、ディゼはまだ部屋に残り、後ろ手を組んで視線を彷徨わせている。
「どうした」
「しばらく会わないかもしれないから、一応誘っておくわ。セフィロト機関にあなたの力を貸してくれないかしら」
ダアトの差し金か、と反射的に身構えてから、徐々に体の力を抜く。
機微に疎いシナツでも、彼女が企みを抱いているようには見えなかった。
「……ダアトからも取引を持ちかけられたばかりだ」
「ということは、答えは『ノー』ね?」
ディゼはとりわけ非難じみたところもない。
断られることを予想していたからこそ、切り出す前に迷いを見せたのかもしれない。
「俺の体に使われている細胞はフォービドゥンとほとんど変わらない。違いがあるとすれば、今のところ制御できているか既に暴走しているか、それだけだ。……そんな技術を振り回す気にはなれないな」
「ルーシーを助けてくれたじゃない」
即座に切り返されたシナツは、一瞬口ごもってしまう。
「あれは……たまたま、その場に居合わせただけだ」
「その場に居合わせても、なす術を持たない、無力な人が大多数よ」
ディゼの声色に変化はない。二人の間も手を伸ばせば届く距離を保っている。
しかし、シナツの領域に踏み込むような彼女の柔らかい視線だった。
「無理に戦えとは言わないわ。だけど、大切な人の重さに潰されないで」
そして、彼女は前髪を掻き上げる仕草で視線を逸らした。
「厚かましいようなら、ごめんなさい。あなたが技術を否定しているのは、生き延びた自分を憎んでいるからって感じたから……」
「……ああ」
シナツもまた彼女と目を合わせず、口元に自嘲の笑みを浮かべる。
ディゼの指摘が胸を貫き、壁に伸びる影まで縫いつけるようだった。
「誰も救えなかっただけじゃない。もしも何かが狂っていたら、俺がカザネや船員を殺していたかもしれないんだ。そんな光景が頭にちらついて……」
「安心して」
ディゼは決意を秘めた眼差しでシナツを仰いだ。
彼女はきっぱりと言ってのけるのである。
「もしもあなたがフォービドゥンになったときは、私が灰にしてあげるわ」
琥珀色の瞳が照明を反射して輝く。
その言葉は、シナツの淀んだ心をすっとさせた。
「……頼む」
「任せなさい」
大きく頷いた彼女はシナツの胸を手の甲で小突いた。
「まあ、そんなことにはならないと思うけど。シナツはあたしと似てるみたいだし、ね」
開かれた扉から穏やかな夜風が入り込んでくる。
彼女は微笑みを残し、颯爽と立ち去るのだった。
似ている――俺と彼女が?
共通点は見当たらない。
だが、彼女がそれを見出したというのなら、その通りなのだろう。
今度は目を閉じ、九一○号の安否に思いを馳せる。
できるなら、少女がこの大地に漂着したときは真っ先に駆けつけてやりたい。
「分かり切ったことじゃないか」
セフィロト機関が少女を待つのにうってつけな場所だということは。
閉め切ったカーテンを乱暴に引く。
ルシエノが言っていた通り、ベランダ側には排水路が区画を分断している。
その向こうに、アパート群から徐々に高くなるビル群の階段と、突出して聳え立つセントラル・タワーを眺めることができた。
砂上の楼閣だ。
あの頂点から今もダアトが見ている錯覚を感じ、ガラス戸から離れようとして――
高周波音が短く二度、聞こえた。
否、聴覚で捉えたのではない。
頭の中に響いたのだ。
船やポッドで使われていた救難信号だ。
この世界にとっては二百年も前の、である。
シナツは弾かれるようにガラス戸を凝視した。
正確には建物の屋上、その縁に悠然と立つ人影を。
スーツ姿の男が、こちらの反応に口を歪ませる。
真っ白になった頭で取っ手に指をかけたが、動かない戸に思考を再始動させた。
「くそっ、鍵か!」
シナツは苛立ちを覚えながら、指紋認証パネルに親指を押し当てた。
瞬間、ロックが外れる。
改めて力を加えると、ガラス戸は滑らかにレールを滑った。
ベランダの柵を跳び越え、排水路沿いの狭い道に降り立つ。
男はシナツが部屋を出たのを確認してから、繁華街へと誘うように踵を返した。
「……待て!」
制止の声が届くはずもない。
舌打ち一つ、シナツは俊足で後を追うのだった。