[02-1]
今や、ザトウ号は巨大な棺だ。
シナツが足を一歩踏み出すと、外骨格の表面を血液がぬるりと流れる。
遠心重力の消えた船内通路には、死体がいくつも浮かんでいる。強力な銃火器に撃たれ、無重力空間に臓物をばら撒いていた。
視界は最悪だ。
しかし、集中を乱すことなく、敵の一挙一動を捉え続ける。
白い気密服を着た船員が、磁力ブーツで通路に立っている。左右の手には、それぞれ電磁誘導式アサルトライフルを携えていた。
火薬の使えない宇宙を想定して開発された兵器だ。
強化外骨格兵に対抗できるほどの威力も有している。一斉射撃を浴びれば、シナツとて無事では済まない。
こちらに振り向いた船員がさらに、背中からミイラのような二対目の腕を伸ばした。その手にもアサルトライフルが握られている。
ナノマシンに寄生され、四本腕に変異したのである。
計四丁の銃火器から一斉に閃光が走る。
銃弾は死体を貫き、血のベールを切り裂いて、シナツの頭を狙って飛来する。
それを地を這う体勢で避けながら、壁や天井をアトランダムに跳ね回る。
変異体の目ですら追いきれない速度に弾幕は分散し、無防備な隙間が正面に作り出された。
その空間を見出したシナツは、ブーメランのような回し蹴りを胸に叩き入れる。
人間なら一撃必殺の威力に、変異体の体が床から浮く。
透明なヘルメットの中で吐血する男は、シナツの数少ない友人だった。
「すまない、チャールズ」
自分の人格に影響を与えた、彼の軽口を聞くことはもうできない。
シナツは握り締めた拳に体重を乗せ、男の頭を壁へ押しつけた。
手首までヘルメットに突き刺さり、中で頭蓋骨と脳が破裂する。
ポリカーボネートには蜘蛛の巣が走り、赤い体液がごぼごぼと溢れた。
せめて、安らかに眠ってくれ。
顔を背けながら生体電流を放出し、腕を引き抜く。
後には砂袋のような気密服だけが残った。
「……くそっ」
疲労困憊の体を引きずり、通路の奥へと進む。
皮肉な話だ。
強化兵士のプロトタイプとして生まれた自分が、化け物となった船員を始末して回っているのである。
両者とも、肉体を構築するナノマシンは同じ技術だ。
シナツは、科学者カザネ・ミカナギ率いるチームによって改良されたナノマシンを移植された実験体に過ぎない。
肉体を書き換えるように増殖していくオーバーライト・セルは、複数のチームによって研究が進められていた。
この事故は、暴走を起こした失敗作から始まったものである。
ナノマシンに刻まれた行動原理は二つ。
自己保存と敵性存在の殲滅。
変異体は自分たち以外全てを敵と見なしているようだった。
ザトウ号は、亜空間への潜航準備を進めている。
超長距離航行の際に利用される回廊ではなく、出口が設定されていない洞穴へと飛び込むことで、暴走した変異体を永遠に封印しようというのだ。
その前に、取り残された船員を救助しなければならない。
電子ネームプレートに『九一○号』と表示された船室の前に立ち、閉ざされたドアを強く叩いた。
「カザネ! 俺だ、開けてくれ!」
訪問者の姿は、部屋の中から確認できるはずだ。
若干の間があってから、ロックが解除される。無事を知ると、無性に彼女の無謀さが腹立たしくなった。
開いたドアに体を滑り込ませたシナツは、
「どうして戻って――」
口を開いたまま言葉を失った。
目前で、人が手足を広げて浮遊している。
腹と腰から、おびただしい量の血が流れていた。
自転して振り向いたのは、眼鏡をかけた黒髪の女性だ。
「……カザネ!」
外骨格を解除し、彼女の体を抱き支える。
口元に耳を近づけると、かすかに呼吸しているのが分かった。
腹の傷はアサルトライフルによる銃創である。貫通力の高さが却って臓器を傷つけずに済ませている。しかし、この出血量――ショックを起こしていないほうが不思議だ。
ぞっとするほど白い顔のカザネは、黒縁眼鏡の奥で、まぶたを重たげに持ち上げた。
「よかった……必ず来てくれるって……」
「待ってろ、今すぐ医務室に連れていく」
強く語りかけたところで、表情まで装うことはできない。
カザネは弱々しく微笑み、首を左右に揺り動かした。
「もうダメだってこと……自分で分かるわ」
残された力を振り絞って持ち上げられる手に気づき、シナツは握り返した。
気密服のグローブは二人の体温を伝えてはくれない。
「お願いがあるの。私の代わりに……あの子を助けてあげて……」
彼女が視線で示したのは、ベッド・カプセルだ。
その陰から、銀髪の幼い少女が手すりにしがみついて様子を窺っている。
カザネに気を取られていたとはいえ、どうして気配を感じなかったのか。
外見年齢は四、五歳ほどで、青い検査衣姿を着ている。
この部屋を宛がわれている、実験体九一○号だろう。
三桁目の数字から判断するに、オーバーライト・セルの被験者ではない。
ナノマシンによる脳機能拡張、つまり、超能力覚醒実験を受けている子供だ。
ザトウ号は、民間輸送船を生物実験用に改造した軍の施設である。
データを持ち出せても、認可のない実験体は連れ出せない。
担当者たちに見捨てられ、取り残されていたのだった。
「カザネ、お前……」
「見たいのよ。ザトウ号の子供たちが作り変える未来を……」
ザトウ号の外を何も知らないシナツには、彼女の願いを理解することができなかった。
彼女が信じる『未来』など、本当にあるのだろうか。
それでもシナツは頷いた。危険を顧みずに少女を連れ出そうとした、カザネの意志を無下にはできない。
「了解した。九一○号は必ず脱出させる」
はっきりとした返事に、カザネは頬を緩めた。
「ありがとう……」
「脱出させたら、必ず戻ってくるからな」
「ダメよ。一緒に脱出しなさい」
「バカな! そんな命令は――」
「シナツ」
彼女は笑みを消し、狼狽するシナツを真摯な目で見つめる。
卑怯だ。黙るのをじっと待たれては、何も言えなくなってしまう。
「九一○号には護衛が必要だわ。それに――」
カザネは不自然に言葉を切り、虚空に視線を彷徨わせた。
不安に襲われたシナツは、彼女の体を軽く揺すった。
「おい、カザネ?」
「……それに、あなたもザトウ号の子供だわ。こんなところで死なせ……ない……」
最後のほうは、息を吐き出しているだけの掠れ声となって痛ましい。
意識が混濁としてきているのかもしれない。
だが、カザネは最後にはっきりとシナツの目を見た。
「……生きるのよ、シナツ」
その言葉を残すと、彼女の瞳から急速に光が失われた。
何度頬を叩いても、反応は一切ない。
シナツは歯を食い縛り、血を厭わずに彼女を強く抱き締める。
穏やかな呼吸も、心拍も、全く聞こえない。
カザネ・ミカナギの時間は尽きたのだ。
「カザネ……俺は……」
知人の死を目の当たりにして、現実を受け入れる心構えはできていたつもりだった。
にもかかわらず、シナツには彼女の死を整理することができない。
許されるなら、ザトウ号が亜空間に飛び込む瞬間までこうしていたかった。
わずかにでもいい。
体温を永遠に感じていられるなら――
だが、それでいいのか。
背後の物音にはっと振り返ったシナツは、蒼玉の瞳に気づいた。
九一○号を道連れにすることが、カザネに対する真心だろうか。
考えるまでもない。
私情を押し殺し、使命を果たすのだ。
「九一、○号」
なぜか、喉に声が引っかかり、鼻がつんとした。
シナツは亡骸を無重力に任せ、少女を優しく抱え上げる。
「俺がお前を外に連れていく。いいな?」
こくり、と彼女は小さな頷きで答えた。
カプセルから引っ張り出した純白のシーツで少女を包んでやる。漂う血液に、触れないための即席の外套だ。
後ろ髪を引かれる思いでカザネを見つめ――顔からそっと外した黒縁眼鏡をインナーの襟に挟み、開いたままのまぶたを閉じてやる。
ザトウ号が亜空間に全てを葬るのならせめて形見を、と思い立ったのだ。
「行くぞ」
それでもなお残る未練を外骨格を纏うことで断ち切り、少女と共に部屋を飛び出す。
命を預かっている以上、無理はできない。
実験体との交戦を避けつつ、船から脱出しなければならなかった。
「ザトウ、脱出艇は残っているのか?」
『肯定』
船の案内人を務める女性型インターフェイスが、シナツの脳に形成された通信機能を介して答える。
『しかし、発着場は武装した反乱分子に制圧されております。危険ですので、最寄りのポッドをご利用ください』
コンピュータは船員一人一人の生体データを記憶している。
ところが、変異を起こした個体には狂いが生じるため、そう認識することで解決しているのだ。
「ポッドまでの道を教えてくれ」
『了解――亜空間潜航まで後、九百秒』
情報を受信したシナツの視界に、光の道が示される。
それを辿って駆け抜ければ、脱出ポッドの搭乗口に着く。
道すがら、九一○号の口からたどたどしい言葉が紡がれた。
「外、って何?」
浮遊する死体をシーツで作ったフードの下から覗き見しながら、関心を持ったのはそのことだったらしい。
外界の刺激を与えられなかった少女は感情が乏しく、死というものに疎いようだ。
シナツは足を止めずに答えるのである。
「宇宙だ」
「宇宙、って何?」
「……息ができない。こんな風に話すことも不可能な、真っ暗な世界だ」
「じゃあ、どうして外に出るの?」
シナツはT字路の曲がり角を覗き込んで、安全を確認する。徘徊する変異体の位置情報は絶えず送信されているが、念には念を、である。
体力の消耗で乱れる呼吸を整え、道標を追う。
「その先に、お前が生きる世界がある。……多分な」
「多分?」
「俺も船の外に出たことがないんだ。分からないのはお前と同じだ」
「同じ……」
九一○号はシナツと自分の体を見比べて、ぽつりと呟いた。
「でも、違う」
「体や頭の中身が同じ人間なんていやしない。そういう意味じゃないんだ」
「……私、人間じゃない。実験体だから」
「ああ、そうだな。俺もだ」
今度は少女とのやり取りに疲れた吐息である。
話しているうちに、搭乗口が見えた。
部屋の中はエレベータ・ホールに似ている。
外部パネルを操作し、並んだ扉の一つを開けて覗くと、ハッチの開いた卵型ポッドに貫通幌が接続していた。折り畳み式の橋が足場を作っている。
外骨格を解除したシナツは大人には狭いシートに九一○号を座らせ、ベルトをしっかりと巻いてやった。
よし、と自らの半身をポッドに乗り出し、モニターに表示されたシンプルな注意書きを読んで聞かせる。
「あー……射出は俺がやる。船の外に出たら、救難信号――助けてくれ、ってメッセージが周りに送られる。近くを通りかかった船が回収してくれるはずだ」
シナツは画像で教えられた棚を探し、閉じている蓋を軽く叩いた。
「非常食はここだ。一食ごとに分けられているみたいだから、全部食べるなよ。酸素マスクはこっちだ。ここのO2ってランプが赤く点灯したら、引っ張り出して口に当てる……いいな?」
言葉では分かりにくいかと思って、両手を口に当ててみせる。
すると、九一○号がシナツの動作を真似し、手のマスクに声を籠らせた。
「分かった」
「よし、賢いやつだ」
シナツはフードの上から少女の頭を優しく撫でた。
九一○号は不思議そうな顔でこちらを見つめている。反射的に逃げようとしないのは、悪く思っていないからか、あるいは実験体の性質上、触られるのに慣れているか。
『亜空間潜航まで、後三百秒』
もうすぐ脱出装置が作動しなくなってしまう。
幌からホールに引き返したシナツは、慎重にパネルへと触れた。
「お前を先に送ったら、俺もすぐに追いかける。近くを飛ぶから、一人じゃない」
後は運に任せるしかない。
大勢の船員が退去しているのだから、事故を察した船が駆けつけるだろう。一人乗りのポッドにも気づいてくれると信じたい。
「出すぞ、九一○号!」
意を決し、射出機構の作動ボタンを押した。
しかし、制御盤が鳴らしたのは、不快なエラー音だ。
疑似人格が告げた警告に、シナツは耳を疑ってしまった。
『船員が搭乗していません。正しく手順に従って――』
再度ボタンを押しても、同じエラー・アナウンスが繰り返されるだけで、ポッドはうんともすんとも言わない。
「なぜだ! ちゃんと乗っているじゃないか!」
時間がない。シナツは思考をフル回転させ、原因を考える。
安全確認は全てクリアしている。子供だと反応しないのか? 緊急時の脱出装置に、そんな制限があろうものか。
「反応――そうか!」
思わず頭を抱えてしまう。
警告は『船員が搭乗していません』と言っていた。
「船員じゃないからいけないんだ」
九一○号のことは、生体センサーに感知できても、人間によく似た何かと認識しているのかもしれない。
搭乗者がシナツでも分からない。コンピュータは個別認識しているようだが、特有の生体反応に対して定義づけされているからに過ぎない。
それが分かってどうなる。はっきりしたのは脱出できないという事実だけだ。
外部パネルを殴りつけてやりたい気分だった。人間と認められていない者が、外の世界を歩むことは許されないのか。
九一○号の青い瞳がこちらをじっと見ている。
なんと説明したらいいのだろう。
申し訳なさで顔を歪めるシナツに、少女が尋ねた。
「どうして、四七二号なのにシナツって呼ばれてるの?」
「あ? ああ……カザネが数字の読み方を変えて――」
と、しどろもどろに答えたときだ。
外部パネルが突如、『ぴっ』と軽快な電子音を立てた。
『船員の搭乗を確認しました』
「……なんだと?」
しかめ面で装置を睨んでも、機械はそれ以上の言葉を発さない。ずいぶんと素直な態度になって、射出の合図を待っている。
代わりに、少女が口を開いた。
「私たちのこと、教えてあげたから」
教えてあげた?
まるで分からず屋を説得したような、少女の言い方だ。
実験によって獲得した超能力と、何か関係あるのか。だとしたら、絶体絶命の窮地を彼女に助けられたことになる。
「感謝する、九一○号――と呼ぶのもなんだな」
シナツは苦笑交じりに肩を竦めた。
「落ち着いたら、一緒に名前を考えるか? 俺みたいなやつさ。実験体ナンバーと分からないような」
「名前……私の……シナツみたいな……」
彼女は上の空に頷いて、「うん」と答える。
相変わらず表情の変化は見られないが、青い瞳には確かな感情の煌めきが窺えた。
「よし、今度こそ行くぞ」
シナツは左手にサムズアップを作り、改めてパネルへ手を伸ばす。
今度こそ脱出機構が作動を始めた。幌が折り畳まれ、ポッドと搭乗口のハッチが同時に閉鎖される。
扉の向こうでは、クレーンに運ばれたポッドが射出レールに乗ったことだろう。電磁誘導によって加速し、一気に無重力空間へと飛び出すのだ。
すぐに次のポッドが運ばれてくる。
搭乗口から乗り込もうとしたシナツはつまずいて、ポッドの座席に倒れ込んだ。
少女を送った途端に気が緩んだのかもしれない。
長時間に渡る戦闘の疲労が、どっと押し寄せてきたのだ。
なんとか正面を向いて座り直し、内部から射出シークエンスを開始させる。
『亜空間潜航まで後、百二十秒』
「じゃあな、ザトウ号」
『はい、ご搭乗ありがとうございました、シナツ』
調子のよいコンピュータだ。
ポッド搭乗者に対する注意喚起が機内のスピーカーからアナウンスされる。
『アームレストに掴まり、舌を噛まないよう、ご注意ください』
「あいよ」
『射出、十秒前。三、二、一――ゼロ』
急加速で、体がシートベルトに押さえつけられる。
この負荷に九一○号は耐えられただろうか、心配でならない。
彼女の顔を思い描くよりも早く、強烈な感覚はふっと消えた。自分もいよいよ宇宙に出たのだろう。
外部カメラと接続したモニターに、灰色の巨大船が映る。
ザトウ号――外から見る自分の故郷は、船内の惨状など全く窺えない、宇宙を泳ぐ巨大生物の威容があった。
船の前方には、星の光をも呑み込む亜空間への入口が広がっている。
シナツの脳裡にザトウ号の日々が想起される。
初めて認識した人間はカザネだ。彼女の助手たちに様々なことを教わった。ときには自分の肉体に恐れを抱いて――
今、全てが消え去ろうとしている。
亜空間に侵入し始めた船が先ほどよりも膨らんで見えた。疲労困憊が祟って、目がおかしくなったのかもしれない。
「……いや、違う!」
シナツは驚くあまり座席から立ち上がろうとして、ベルトに押さえつけられた。
射出速度を失ったポッドが、船に引き寄せられているのだ。
「どうなっているんだ!?」
彼には知る由もない。
亜空間へ潜航する膨大な質量の物体は、通常空間に歪みを生じさせる。周囲の物体に対し、入口が開いている間は引力が働き、閉じると今度は斥力が働く。
いわゆる、『引き波現象』だ。
外部カメラを動かすと、九一○号のポッドもこちらに近づいていた。
このままでは二人ともザトウ号の自殺に巻き込まれてしまう。
「来るな! 来るんじゃない!」
こうなったら、ポッド同士をぶつけて突き放すしかない。
シナツはコンソールを死に物狂いで調べ、推進装置を作動させる。
だが、機体の向きを修正する程度の低出力ブースターでは引力の渦に逆らえない。
二機のポッドが接触するよりも先に、シナツは亜空間に呑み込まれるだろう。
「くそっ……何か……何かないのか!?」
任務の遂行によって維持していた精神が、呆気なく砂のように崩れる。
シナツはスクリーンにうっすらと反射する化け物の姿に気づいた。
この状況を打破することもできず、なんのための力だ。
誰も救えない。
この手が作り変える未来など、ないのだ。
だが、九一○号はまだほんの小さな子供ではないか。
そんな少女すら物理現象から見逃してもらえないのは、あまりにも残酷すぎる。
「早く行け、ザトウ号!」
自分はどうなっても構わない。
だから。
「あいつだけは――」
外部カメラが暗闇に覆われる。
絶叫の半ば、シナツの時は凍てついた。
生も死もない世界を通り過ぎ、そして――