[10-4]
早朝の空、デブリが大気圏に突入して燃え尽きる。
おんぼろアパートのベランダで、三毛猫がゼリーパックをぺしぺしと叩いている。
情報屋ミケーレは、サッシに腰かけた青年を見上げ、髭を震わせた。
「あんさん、憑き物が落ちたって顔ですなあ。例の幽霊騒ぎが解決したので?」
「ん? ああ――」
シナツはパックから口を放し、まだ深い藍色の空から視線を落とす。
「前に『幽霊』は幽霊だと言ったが……あれは間違いだった。お前の忠告、『主人が迎えに現れたら、尻尾を振らずに影を見ろ』、だったな」
はて、とミケーレは頭を傾けた。
彼女の姿を求め続けた結果、対峙したのは人格を模倣しただけのナノマシン体だ。
そこに、カザネ・ミカナギの魂はない。
「あいつは影があった。だから、幽霊なんかじゃない。当たり前だよな、そもそも幽霊なんて俺には見えないんだ」
「他人の空似というやつで?」
「そんなところだ」
それを聞いたミケーレがけらけらと笑い転げる。何がそんなにおかしいのか、涙目を前足で拭うのだった。
「死人が蘇ることなんてありやせんぜ。ああ、安心した。幽霊を見ずじまいだったのは情報屋として悔しいですがねえ」
それから、ふと溜息をつく。
物悲しげな猫の様子に、シナツはそっと尋ねる。
「ミケーレ。お前にも会いたい死人がいるのか?」
はっとして飛び退ったミケーレは、余裕たっぷりに尻尾を揺らめかせる。
「おおっと、詮索はいけやせんぜ、あんさん」
「……それもそうだな」
シナツは猫に与えていたゼリーパックを拾い上げ、部屋に戻った。そろそろ出勤時間だ。ダウンジャケットに袖を通した青年は、ふと思い出してベランダに顔を出す。
「料理の毒見役は、さすがに無理だよな?」
「あっしの体は人間ごときと違って繊細なんでさ。気を遣ってもらわにゃ困りやすぜ」
しっしっし、とミケーレは破顔した。
「ところで、どうして料理なんて?」
「ゼリーが尽きたんだ」
一言答えたシナツは、ベランダのガラス戸をぴしゃりと閉めた。
室内には真新しいパイプ棚が置かれている。
そこに置かれているのは黒縁眼鏡。二枚のレンズが部屋を出る青年を見送った。
○
しんと静まり返った繁華街を歩いていると、黒塗りの高級車が歩道に寄って停車した。
シナツは足を止め、不審車を警戒する。
運転席から降りたのは、がたいのいい黒服の男だった。
後部座席をそっと開けると、無感情な顔で「どうぞ」と乗車を促す。
人間ではない。アクチュエータの駆動音がかすかに聞こえる。自動人形だろう。
シナツは肩を竦めて車内を覗き込むと、対面席まで設けられた後部座席に、白装束の大男と少女の姿があった。
「おはよう、シナツ」
「早いんだな、クオン」
銀髪碧眼の少女はいつもの仮面を膝の上に起き、可憐な素顔を晒していた。
一方、ケテルはすでに仮面を着けている。
シナツががら空きの対面席に腰を落ち着かせた。特務課の移動用車両やケストレルのシートとはわけが違う。革張りの、優れたクッションだ。
ドアを閉めた自動人形が運転席に戻ると、車はセントラル・タワーに向かって走り出した。
「ダアトの送迎つきとは、俺も出世したかな」
「今日限りだ」
ケテルの声は腹に響くが、議会室とは違って、威厳を前面に押し出していない。
「まずは我が子を守ったことに、感謝を」
「お父様……」
クオンが驚いた様子で、二人の男を交互に見比べる。
早朝からの重い話題に、シナツは後頭部を軽く押さえた。
「……いや、今までクオンを守ってきたのはあんただろう、ケテル。やめてくれ、俺は……やり直しただけなんだ」
「我はこの娘の名を今まで呼ぶこともなく、汝に託すという役目を終え――」
「待ってくれ!」
シナツは突きつけた手のひらを振って賢者の言葉を遮ると、クオンに身を乗り出した。
「……お前相手でもこんな喋り方なのか?」
「どうかな」
クオンは意味ありげに父親を見上げた。
車内に静寂が漂うこと、数秒。
「いいだろう」
ケテルは仮面をゆっくりと外し、フードを脱いだ。
シナツは思わず息を詰める。
男の顔は人からかけ離れていた。しかめ面の猫といった相貌で、黄金色の体毛には白と黒のストライプが走っている。
「まだ慣れないかね、シナツ」
にい、と笑うケテルの口から牙が覗いた。
「あ、ああ。いきなり見せられるとな。だって、手まで猫じゃないんだろ?」
クオンがくすりと笑みをこぼした。
彼女の感情豊かな表情に心が躍りながらも、シナツは「あ、え?」と戸惑う。
当の大男は口元に白手袋を嵌めた五本指の拳を当て、大きく咳払いをした。
「虎だ。太古に滅んだ猛獣らしい」
「生憎、ザトウ号にそんな動物はいなかった」
シナツは失礼を承知の上で尋ねる。
「クオン、初めて会ったとき、驚かなかったのか?」
「思い出して。ザトウ号ではあなたも変異してた」
そうだった、と額を押さえる。顔のない漆黒の仮面に、二本角。
シナツがくつくつと肩を揺らすと、クオンも「ふふっ」と顔を綻ばせた。ケテルも目を閉じて唇を歪めるのだった。
「どうしてクオンがダアトの義理の娘に?」
「奇縁だ。十年前、特務課にいた私が……クオン、の搭乗したポッドの調査を担当した」
まだ少女の名を呼ぶのにぎこちなさが残っている。
そのことよりもシナツが気になったのは、目の前の賢者が元特務課だという過去についてだ。
「確か、ベンティスの同僚の――そうだ、任務中行方不明になったジヴァジーン! それがあんたの本名か!」
「ダアトの一員となるのに、都合がよかったのだ」
ケテルと名乗っていた虎男――ジヴァジーンは指摘されるがままに認める。
もはや隠し立ては不要と考えているのだろう。
「私が生きていることを知っているのは、ベンティスと先代のマルクトだけだ。古株のビナーならばこの顔で分かるだろう。ダアトという組織は、何より物を隠すのにうってつけの場所だからな」
「ああ――くそっ、思い出したぞ」
シナツは腹立ち紛れに自分の膝を叩いた。
「初めてあんたと話したときだ。とっくにクオンを救助していたから、あんな脅迫じみたことを……」
「すまなかったな」
心の底からそう思っているのだろう。ジヴァジーンは目を伏せた。
「私たちはクオンの特異能力を稀有な才能だと考えている。だが、覚えておいてもらいたい。エデナス市民の総意ではないことを」
「敵は身内にもいるってわけか」
ダアトは十人からなる頭脳集団だ。中の一人くらいは、クオンを抹消すべきだと考える者がいるかもしれない。
シナツは真剣な顔つきで親子を見た。
「じゃあ、クオンはずっと隠れなければならないのか?」
「私は平気」
クオンが穏やかに微笑んだ。その表情には一抹の不安もない。
「ダアトの役目に慣れてきた。それに、シナツとも会える。心配なのは特務課第七班の二人だけど――」
「ディゼとルシエノなら大丈夫だ」
即答である。そのことに、シナツは疑いを持つはずがなかった。
都市から遠く離れた山岳部の漂着物まで救助に駆けつけるような仲間だ。
うむ、とジヴァジーンも同意する。
「シナツよ、頼みがある。お前の変異能力も稀有な才能だ。今のダアトはその力を危険視している。注意を引く役目を引き受けては――」
と、重要なところで、クオンが軽く手を持ち上げた。
二人の男は同時に少女を見つめる。
「シナツ、ルシエノから通信が入ってる」
会話を傍受されないよう、青年のリストデバイスを制御下に置いていたのだ。
その横で、ジヴァジーンが虚空を睨む。ダアト専用のコンタクトレンズ型ディスプレイを装着しているのだ。
シナツは少女の合図を受けて、通信を開始した。
「どうした、ルシエノ」
『シナツさん、フォービドゥンの発生を確認しました。もし現場に近いようでしたら――あれ、車で移動しています?』
「ああ、ちょっとな。分かった、現場に向かう」
通信を切ったシナツは、再び仮面を着けるジヴァジーンに笑いかける。
「どっちみち、俺は特務課第七班のシナツ・ミカナギだ。やることは一つ。そうだろ、ケテル」
「汝の任務遂行を期待しておるぞ」
シナツは背筋を伸ばし、敬礼を取るのだ。
「任務了解」
○
警備課の囲い込みによって駐車場に逃げ込んだフォービドゥンは、異様に発達した腕を使って乗用車を持ち上げる。
ぎょろりと四つ目が探した標的は、自分に銃を向ける兵士たちだ。
銃撃をものともせず、力任せに乗用車を放る。
「う、うわっ!」
間一髪のところで物陰に隠れた警備課のアラン、ブルトーは女性指揮官に大声を出す。
「あんなのに潰されたらぺしゃんこっすよ!」
「突撃して押さえつけるかぁ?」
「……いや」
指揮官、クフィル・ツヴァイクがサイドミラーに映る化け物を指差す。
「あの子たちに任せるとしよう」
突如として、フォービドゥンが腕をがむしゃらに振り回して暴れた。オーバーヒートか、手を覆う赤熱を振り払おうとしているのだ。
四方に巡らされた眼球が、トレンチコートを着た長髪の少女を見つけた。
この熱が彼女の琥珀色の瞳から放たれた特異能力と気づいたか、咄嗟に車を抱えて盾にする。
引火性の燃料は積んでいないが、市民の所有物である。
少女が発火を止めたのは、賠償請求を嫌ったからではない。
ディゼ・エンジはぐっと拳を握って叫ぶ。
「今よ!」
「おう!」
横から吹き抜けた突風がフォービドゥンに襲いかかる。
ずぶりと体に埋められたのは、人の腕だ。
生きとし生ける者全てに寄生するナノマシン体を相手に接近戦を挑んだ者もまた――
漆黒の戦鬼、シナツ・ミカナギの体から青い閃光が迸る。
「放電ッ!」
これにて『坩堝のダンプサイト』は完結となります。
ご愛読ありがとうございました! あとがきは活動報告にて!
広田犬歩