[10-2]
眩い照明に、シナツは目を細めた。
寝台に仰向けで寝ていたらしい。
どこか遠い場所の夢を見ていたからだろうか。体が重い。〈ザトウ号〉の実験室があるブロックは、通常よりも速く回転しているらしい。
しかも、足を引っ張られる感覚が強い。
船内の重力バランスがおかしくなっているのではないか。
「もう少し寝ていてもよかったのよ」
カザネ・ミカナギが、電子ノートにペンを走らせている。
周りにはチャールズもいた。他の二人も。
「まだ時間がかかるみたいだから」
「あ、ああ?」
シナツは腕を持ち上げようとして、拘束されていることに気づいた。
静脈には太い針が刺さっている。
チューブは頭の後ろへと伸びているようだ。
寝台の横で、心臓の鼓動に似た音が鳴っている。血液循環器のような機械が作動しているのだ。
自分の体に得体の知れない薬品が注入されている。
妙に気になって、微笑交じりにデータへ注釈を書き込むカザネに尋ねてみるのだ。
「なあ、何をやってるんだ、これ」
ん、とカザネは顔を上げる。その表情は『何を分かり切ったことを』と物語っていた。
「セルの入れ替えよ」
「……俺の体に異常があるのか?」
「そういうわけじゃないんだけど。まあ、今のままだと困るのよ」
と、ペンを器用に回して弄ぶカザネの目が、妙に無機質だ。
違和感に襲われて、頭が割れるように痛い。
おかしい。
こんなところで何をやっているんだ、俺は。
何かを守らなければならなかったはずだ。
脳に焼きついた横顔の輪郭を思い描こうとして、
『シナツ!』
誰かの自分を呼ぶ声に気づく。
涼しげな少女の印象がふっと湧き上がる。
シナツは狭い実験室に科学者以外の人間がいないことを確かめて、カザネに尋ねた。
「聞こえなかったか?」
カザネは『さあ』と肩を竦め、シナツの頭側に回った。後ろの機械を弄っているらしい。再び視界内に現れたとき、彼女は新たなチューブを三本も握っていた。
「ごめんなさいね。急がないといけないの」
にたりと笑うカザネの影がぐんと伸び、照明の光を遮った。
彼女は右手を高く振り上げると、まず一本目のチューブを無造作に、黒のインナーシャツの上から腹部に突き刺した。
「いぎっ――」
痛覚の遮断が間に合っていない。
薬品の液体が腹の中に無理矢理注ぎ込まれ、内臓が破裂しそうだ。
シナツは目を剥き、歯を食い縛り、寝台の上で暴れる。
その激しさに拘束ベルトがみしみしと軋んだ。チャールズたち、三人の助手はわざわざ合成繊維が千切れないようにと手足を押さえつけるのである。
カザネがさらに手を持ち上げたのを見て、シナツは唾を飛ばして叫んだ。
「待て! やめてくれ! こんな実験――」
彼女は聞く耳を持たない。
ぶすりと二本目のチューブが肋骨の隙間に侵入する。
「……ッ! ……ッ!?」
どうしてこんなことをされているんだ。
カザネは俺を物扱いするような人間ではなかったはずだ。
激痛で意識が遠のきそうになる。
逃げ道がないかと頭を動かしたシナツは、部屋の隅に誰かが立っているのが見えた。
白い気密服。俯き加減の顔は黒髪に隠れて見えない。女性……だろうか。
その人物を認めた途端、シナツは一切の苦痛を感じなくなる。
女性は壁際に立っているのに、背後には影がない。
ああ、そうだ。
シナツは彼女の名前を知っていた。
目の前の化け物が三本目のチューブを心臓に向かって振り下ろす。
そして再び、あの声がシナツを目覚めさせるのだ。
『シナツ、起きて!』
薄暗い部屋は妙に狭く、それでいて天井が高い。
シナツは振り下ろされる針を感知し、器具を握る女を蹴飛ばそうとした。
だが、足が何かにがっしりと掴まれてびくともしない。
針はインナーの生地を貫き、皮膚へと深く刺さる。
「ぐ、ぎっ……!」
シナツのこめかみに血管が浮かび上がる。
これがナノマシン体でなければ、直接注入された液体によって心臓が破裂するところだった。
意識を失っていたにもかかわらず、体は異物をコントロールしようと試みている。
「もうやめて!」
懇願する少女の声のほうへと視線を向ける。
銀髪の二つ結びが動揺で激しく揺れている。マルクトだ。青い瞳がシナツの体を凝視していた。
俺の……体……?
何かに吊り下げられているようだ。
頭を動かして見下ろすと、奇妙なチューブが四本も突き刺さっていた。
医療や実験に用いられる器具などではない。
まるで軟体生物の触手のように蠢いている!
「う、ああっ!?」
自分がフォービドゥンに繋げられていると知ったシナツが暴れ出したので、両手足の拘束が強まった。
頭上に「けけけッ!」と醜態を嘲笑う者がいる。
生温かい拘束台に、シナツはさらなる悲鳴を上げそうになって堪えた。
拘束台そのものがフォービドゥンなのだ。
では、このチューブから流し込まれているのは、ルキフェル因子か。
拘束具やチューブの針に電流を流すも、無駄な抵抗なようだ。わざわざ絶縁体を使われている。
「な、なんだ!? 俺に何をしている!」
「私たちの仲間になってもらおうと思って」
マルクトの傍らに立っているのは、カザネだ。
また彼女の姿を騙っているのか。
いいや、違う。シナツは暗闇にぼんやりと浮かび上がる彼女の姿に言葉を失った。
白い気密服の腹部に大きな穴が開いて、彼女の肌が露わになっている。
縁は焼け焦げているのか、黒ずんでいて――
銃創だ。
彼女は間違いなく、シナツの腕の中で息を引き取ったカザネだった。
よくよく部屋を見渡せば、覚えのある広さだった。
〈ザトウ号〉なのか。
コンピュータ類を固定するテーブルが、壁に張りついている。部屋の出口も、足のすぐ下にあった。
空間をほぼ九十度に回転させて――恐らく、地表に対して垂直に漂着したのだ。
一握りの冷静さで状況の把握に努めるシナツの顎を、カザネが掴んで前に向かせた。
「変ねえ。どうして細胞の入れ替えが進まないのかしら」
無理矢理まぶたを押し広げて瞳孔を確かめると、カザネは「まあ、いいわ」とマルクトに振り向いた。
「じゃあ、先にあなたの番よ、九一○号」
「やめろ!」
シナツは拘束台を手のひらで押し、前のめりになって叫んだ。
「マルクトに触れるな!」
「触るだけならもう何度も触っているわよ。ねえ?」
と、カザネは銀髪を優しく撫でた。
マルクトが咄嗟に払いのけようとした、その手でカザネが乱暴に掴む。口には笑みを浮かべているが、目は無感情だ。
「あなたが望むなら、いいのよ? シナツの処置をやめてあげる。その代わり、私たちの命令に従ってくれるかしら」
「マルクトに何をさせる気だ?」
「何って、決まっているでしょう」
カザネは逃げ場がないことを知っていてマルクトを解放した。
「この子はワン・マン・コントロールの実験体よ。ありとあらゆるシステムを制御下に置いて、体の一部のように操れるなんて、恐ろしい力だと思わない?」
シナツは地下トンネルで外骨格が解除されたことを思い出して、あれがマルクトの特異能力だったのだろうと初めて知る。
だが、同じナノマシン群でも、フォービドゥンを操ることはできないようだ。
違いはなんだ。
振り返ってみれば、〈ザトウ号〉から脱出するときも、マルクトはAIの認識能力を改めさせ、脱出ポッドを作動させた。
頭に響く彼女の声も、何度か聞いている。
そう、最初は生物隔離施設で眠っていたときだ。
テレパシーに似ている。そう考えたシナツは痛覚を閉鎖し、代わりに通信チャンネルへと意識を向けた。
『シナツ』
マルクトがこちらを見ている。口は動いていない。
シナツはカザネを睨みつけながら尋ねた。
『送受信機能を開放している相手なら、制御できるんだな?』
『……うん。私には、どうすることもできない』
マルクトの瞳は絶望に沈んでいる。
彼女は肉体を強化されているわけではない。
生身ではフォービドゥンに立ち向かうこともできない。
しかしながら、カザネは少女が持つ唯一無二の力を欲しているのである。
「人類はこの力を恐れていたみたいね。私たちなら有効活用できるのに」
「有効活用、だ?」
「地球を呑み込んだ後で、この子には女王になってもらうのよ」
シナツは喉を震わせた。
冗談を言っている様子ではない。
「お前、いや、お前たちの目的は……」
「あなたはよく知っているはずよ。行動原理は二つ。でもね、それだけではないのよ」
カザネは出入り口――正確には壁だ――を強く踏んだ。
「私たちが亜空間を抜け出せたのは、まったくの偶然よ。人類に観測されていなかっただけで、完全密閉空間ではなかったということ。穴の開いた貯水タンクのように、〈ザトウ号〉は流れに乗って通常空間に出られたみたい」
「お互い、幸運だったな」
険しい表情のシナツと同じく、カザネも微笑まない。
むしろ、怒りで拳を震わせるのだった。
「地上に出て、あなたはどう思った?」
「さあな。俺は初めて地上に降りたんだ。ただ、カザネから聞いていた話とは違う、と思ったが」
「そうよ!」
カザネは両手を広げ、天を仰いだ。
「すでに大気圏外戦争は終わった後だったわ! 地上には宇宙船や施設の残骸が降り注いで、私の故郷は滅茶苦茶だったのよ!」
まるでカザネ自身が憤慨しているような口ぶりだ。
あるいは、ナノマシン群が彼女の記憶を読み取ったことで、感情を喚起されたのか。
「人類は愚かよ! ただ『違う』ってだけで殺し合う! 歴史を振り返りなさい! ずっとそうやってきたじゃない!」
狭い部屋にカザネの叫び声がきんきんと響き渡る。
ゆっくりと後ずさったマルクトが、背中が壁に当たってびくんと体を震わせた。
「獣だってそう。弱肉強食? 弱者はただ処分される運命にあるの? そんなもの、強者の弁に過ぎないわ!」
フォービドゥンは元々、処分の最中に脱走した実験体だ。
今でこそ圧倒的な殺戮者だが、かつては犠牲者でもあった。
「未来なんて分かり切っているわ。生物はずっとずっとずっとずっと、屍のダンプサイトを築くだけ。だから、何もかもを『私たち』にして、一つにしなければならないの!」
カザネは素早くマルクトに駆け寄った。
「これでも情けをかけているのよ、九一○号。なんだったら、シナツはこのままにしておいてもいいの。だから、あの人類の寄せ集めを呑み込む、手伝いをしてもらうわ!」
かっと見開いた目に睨まれて、マルクトは「あ、あ……」と声にならない嗚咽を洩らした。彼女の恐怖はカザネの脅迫に対してではない。
ゆっくりと持ち上げられた右手の人差し指は、震えながらシナツを示した。
「……何?」
振り返ったカザネは、シナツの異変に満面の笑みを浮かべた。
「ほら、九一○号が協力してくれないからよ」
先ほどまで威勢のよかった彼は力なく項垂れ、時折、体を痙攣させている。だらしなく開いた口からは唾液が糸を引いて垂れていた。
「か……カザネ……」
「大丈夫よ、シナツ。すぐに気分が優れるわ。もう面倒なことも考えなくていいの。この世の全てが敵か仲間かで分けられるの」
カザネは彼の頭を優しく掴んで起こした。
それでも彼は、カザネの名をうわ言のように呼び続ける。
「何? 私に言いたいことでもあるの?」
「カザネ、お、俺が……」
息も絶え絶えのかすれ声で、聴覚センサーを働かせてもよく聞き取れない。カザネはシナツの口元に耳を近づけた。
「『俺が』、何?」
「俺がお前から教わったことは全く逆だぜ」
シナツの声は弱っていない。
演技だ。
カザネがはっとして身を引くよりも、その首筋にシナツが犬歯を突き立てるほうが速かった。
通信チャンネルが開いていないなら、外部から無理矢理こじ開けるだけ。
ベンティスがそうされたように、シナツは牙をプラグ端子としてカザネに接続したのである。
「マルクトぉッ!」
少女の能力行使は一瞬だった。
カザネは体を乗っ取られ、自分の意志に反してシナツの両手を解いてしまう。
この部屋に、フォービドゥンはもう一体いる。
反抗に気づいた拘束具型フォービドゥンが、チューブ型触手でシナツを串刺しにしようとする。
「……ふッ!」
シナツは鋭く息を吐き、自由となった両手を真上に伸ばして敵に触れた。
彼に触られるということは、ナノマシン群にとって死を意味する。
指先からの放電は敵の全身を走り抜け、細胞のことごとくを破壊した。
フォービドゥンは患者運搬用のパイプベッドを取り込む形で変異していたらしい。
シナツは寝台ごと床に落ち、体を強く打つ。
その衝撃で、カザネの首から口を放してしまった。
「このっ……!」
カザネはマルクトを睨みつけた。少女を人質に取れば諦めるだろう。そう考えたなら、即座に実行へと移さなければならなかったのだ。
足の拘束を外したシナツは、瞬く間にマルクトとカザネの間に割って入る。
う、とよろめくカザネに、シナツは笑みを作った。
「俺はカザネにこう教わった。『違う』からこそ、いいんだ。学ぶべきことは多い。敬意を払える。愛おしく思える。戦争は絶えないかもしれない。それでも、人類は前に進めるんだぜ」
「どうして……どうして、書き換えられないの!?」
「お前はよく知っているはずだ」
先ほどのカザネの言葉をそっくりそのまま返す。
このフォービドゥンの素体は、確かに〈ザトウ号〉で重傷を負って死んだカザネ・ミカナギかもしれない。
しかし。
シナツはインナーシャツの襟に挟まったままだった眼鏡を手に取って、そっとカザネに差し出した。
「返そうと思っていたんだ」
「そんな物、いらないわ! 私たちには必要ないもの!」
「お前ならそう言うだろうな」
シナツは弦を開いて、ぽつりと呟く。
彼女は最後に言ったのだ。未来が見たい、と。
そして――
「俺は生きるぜ、カザネ」
おもむろに眼鏡をかける。
同時に、シナツの体から黒い粘液が浮かび上がって外骨格を形成する。
「行動原理は相反していない。殲滅しなければならない敵はお前だ、フォービドゥン」
ノーモーションから突き出された拳に、カザネはすんでのところで躱した。
彼女もまともに受けては塵にされると分かっている。両腕を剣状に尖らせ、シナツの体を分断しようと襲いかかる。
回避、攻撃。単純明快な行動が、超高速で繰り広げられる。
両者の猛攻が起こした旋風は、傍観者のマルクトの二つ結びを揺らす。
少女は見て取れただろうか。
シナツの格闘がよりコンパクトな動きに洗練されるのに対し、カザネは駄々っ子のようにみっともなく両腕を振り回しつつあることを。
ついにシナツの右手がカザネの胸を深く貫いた。
心臓の停止は、血管を通じて傷を塞ごうとするナノマシンの動きを停滞させる。
右手を抜く代わりに、左手で鷲掴みにした頭を壁に叩きつける。
ぐしゃり、と脳の爆ぜる異音が響いた。
脳の破壊は、情報処理を致命的に遅延させる。
シナツは全身に肉片や血飛沫を浴びながら、罪悪感の欠片も抱くことはなかった。
体はフォービドゥンが乗っ取った物だ。
この肉は、カザネではない。血も、カザネではない。ましてや、骨だって、カザネではない。
だから、『すまない』などと言うつもりもない。
「放電ッ!」
外骨格を走る青白い光の模様が一際強く輝き、ナノマシンの塊に無慈悲な高圧電流が放たれる。
破壊には一秒も必要ない。
フォービドゥンは塵と化し、その後には穴の開いた気密服だけが残された。
重力に引かれて落ちる服を掴むと、腹部の穴からざらざらと砂が流れる。
この〈ザトウ号〉では二百年もの歳月が過ぎているのだ。カザネの体温が残されているはずもない。
シナツは服をそっと床に横たえ、マルクトに振り向いた。
「無事なのか――マルクト?」
「……うん!」
驚いた顔で部屋の片隅を凝視していた彼女は、はっと我に返ってシナツに抱きついた。
何を見ていたのだろう。
シナツには何も見えなかった。
まあいい、考えるべきことは他にある。
もう一度だ。
シナツは彼女を腕に抱え、部屋の出口を見下ろす。
今度は必ず、二人で脱出するのだ。