[09-4]
シナツが到着したのは、市民が利用するなんの変哲もない地下駐車場だ。
訝しみながらなだらかなスロープに入っても、広い空間には一般車両が並んでいるばかりで、〈セフィロト機関〉の特別な施設があるようには思えない。
『おい、ケテル』
通信で名を呼んでも、返事はない。
代わりに、無音で進路方向の指示が送信され、光の矢印が視界に浮かび上がる。
警戒しつつも従えば、駐車場の行き止まりに着いてなお、壁の向こうに進めと指示が出ている。
「……ぶち破れ、ってことか?」
シナツが呆れながら壁に手を突いたときだった。
手のひらに重い振動が伝わる。機構が動き出して、壁が揺れたのである。
後ずさってみれば、そこは行き止まりではなく隠し扉だったのだ。
ゆっくりと上がった壁の奥には、車が悠々と通れる広い通路が続いている。
どこに続いているのだろうか。市街地マップを開きながら通路に進むと、背後で隠し扉の閉じる重々しい響きが空気を震わせた。
と、同時にマップの現在位置がリアルタイムに反映されなくなる。電波が遮断されたのだろう。
「方向さえ分かれば、大体は掴めるさ」
一人呟きながら、通路を走り抜ける。
恐らくは脱出路だろう、とシナツは想像していた。とすれば、現在窮地に陥っているのはどこか。セントラル・タワーに通じているに違いない。
ケテルとマルクトの護衛任務というわけか。
だが、本部ではまだ戦闘が繰り広げられているはずだ。兵士に死線を潜らせておいて、自らはさっさと逃げるつもりなのだろうか。
もう一つ、シナツには分からないことがあった。
どうして俺が選ばれたんだ?
二人と直接対峙したからだろうか。
とにかく、とT字路に出る。橙色の照明が点々と灯るトンネルだ。矢印はここで途絶えている。右と左、どちらに向かえばいいのか――
右側から轟音がトンネル全体を震わせたかと思うと、熱波が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
転倒しないよう、咄嗟に足を踏み締める。
「くそッ……」
運転手がハンドル操作を誤って壁や柱に激突したのではないだろう。ここでも戦闘が起きているのだ。
シナツは全速力で爆発の中心に向かった。
研ぎ澄ました聴覚センサーに、何者かの叫び声が届く。
「フォービドゥン! カザネ・ミカナギの姿で欺くのはやめて! あの人を傷つけるのは許さない!」
感情を昂ぶらせているのは、マルクトだ。
続く声は別の女の声、カザネである。
「ああ! シナツのことね」
どういう状況なのか、わけが分からない。
カザネが何かしらの目的で〈ダアト〉を襲ったのは分かる。
しかし何故、マルクトが自分を傷つけるなと叫んでいるのか。
どうやらケテルはこの場にいないらしい。『傷つけるな』とは、こちらの台詞だ。
「制御というのは人間レベルに合わせてあげているだけの能力――」
爆炎の渦に、フォービドゥンたちの一団を認める。
シナツの接近に気づいた数体が跳びかかってきたが、それをシナツはただの体当たりで弾き飛ばした。
この向こうに、護衛対象がいる。
「はん」
カザネの言葉を思い出して、鼻で笑い飛ばす。
シナツもフォービドゥンも、生物を基礎としたナノマシン体だ。細胞が生体情報を記憶しているからこそ、人の姿を保っていられる。
それを――
「人間レベルに合わせてあげているとは、元人間がよく言う」
「来たわね、シナツ!」
様々な動物の情報を取り込んで変異したフォービドゥンたち、そしてカザネをも跳び越し、マルクトの傍らに立つ。
幸い、白装束には血がついていない。怪我は負っていないようだ。
黒塗りの車両は煤がつき、辺り一帯には機械の破片、空薬莢が散乱している。加えて、オイルの匂いも。
警護用のロボットを自爆させたらしい。
ちょうどいいタイミングに駆けつけたようだ。
「護衛に来たぜ、マルクト」
と、格好をつけたところで、内心は穏やかでない。
フォービドゥンの数が多すぎる。
完全に包囲されて、退路は見当たらない。
外骨格を形成するナノマシンに取り込んだ補給剤を打って、背骨に沿って計六本、排出する。シリンダーがからからと音を立てて転がった。
「交戦する。あんたは隠れて――」
「ダメ!」
突如、マルクトが腕にしがみついてくる。
予想もつかない彼女の行動に、シナツは敵を前にして狼狽した。
「あ、ああ?」
「私は足手まといになる。一人で逃げて!」
「何言ってんだ。そんな命令は聞けない」
小柄な彼女を引き剥がすのに、力はいらない。悪いとは思いつつも軽く押し退けると、彼女はよろめくように離れた。
やり取りを見守っていたカザネが、くつくつと笑いを噛み殺す。
「その子の言う通りにしたほうが賢明よ、シナツ。これだけの数を一人で滅ぼせるとでも?」
「たったそれっぽっちの数だろ」
もちろん、強がりだ。
生体電流を外部に放出する戦い方は、理に適っていない。活動の源となるエネルギーをひたすら漏洩させるようなものだ。
〈ザトウ号〉では、消耗を避けた。亜空間に潜る船で、わざわざナノマシン群を死滅させる必要などない。
それでも長時間戦闘はシナツの体に極度の疲弊をもたらしたのである。
補給剤のストックはない。
シナツは胸に軽く拳を当てる。
「答えてくれ。お前はカザネなのか?」
「私は私よ、シナツ。他の何者でもないわ」
やはり、その返答だ。シナツは目の前の女性が生体情報をコピーしただけの偽物だと判断し、拳を『敵』に向ける。
「マルクト。あんたは応援を要請してくれ。向こうの手が空いてりゃ、の話だが」
彼女は緩やかに首を横に振った。
「やっぱり、また、こうなるの?」
なんのことかと問おうとしたシナツに、痺れを切らしたフォービドゥンが襲いかかってきた。
たとえどんなに鋭い牙や爪、武器を持とうとも、シナツには無駄だ。生体電流の鎧は触れる者を感電させ、塵に分解する。
フォービドゥンの尖兵はそれでも構わないのだ。
シナツが抵抗すればするほど、活動限界は早まる。同じナノマシン体だからこそ熟知している、致命的な弱点だった。
「マルクト!」
敵の動きに気を取られながら、シナツは鋭く叫ぶ。が、返事はない。
ちらりと後ろを見れば、マルクトは茫然と立っている。かすかに体を震わせていた。
「……マルクト!」
もう一度叫んでも、反応がない。
シナツは身を翻して、マルクトを片腕で抱く。
フォービドゥンの返り血を浴びる心配のない場所――ホイールはべこべこ、ボディは傷だらけの車しか見当たらない。
小柄な彼女を無理矢理後部座席に押し込んで、一言。
「すぐ応援が来る。ここで待ってろ」
彼女が何か言う前にドアを閉める。
その瞬間、シナツは奇妙な既視感を覚えて硬直した。
どこかで、こんなことがあったはずだ。
記憶の中の光景が鮮明に思い浮かぶよりも早く、敵の奇声が近づいてくる。
「くそッ!」
考える暇さえ与えられない。
振り返りながら声のする位置に肘を叩き込む。
装甲が砕ける感触に、
「……っ!?」
シナツは思わず息を乱した。
自分の腕を破壊されたのではない。
敵もシナツと同様に外骨格の鎧を形成したのだ。
人間を相手にするのに、肉を斬られようが骨を断たれようが関係ない。
しかしながら、シナツ相手には、その殻を破る力すらも消耗させられる。
敵が泥沼に引きずり込むつもりと分かってなお、コンマ数秒のラグもなく放電。
血の一滴までナノマシン化したフォービドゥンは、跡形もなく粒子となって弾けた。
「頑張るわね、シナツ」
群れに隠れたカザネがせせら笑う。
「そのお嬢さんを殺すつもりはないわ。利用価値があるもの」
「実験体も二百年経てば知恵がつくようだな。恐れ入るぜ」
答えつつ、シナツは構えを解かない。
「それで俺を欺けると思ったら大間違いだ。お前たちに組み込まれたプログラムは敵の殲滅と自己保存。利用し終えた後は養分か宿主か?」
『プログラムなんかじゃないわ。これは、私たちの使命よ』
いきなり、フォービドゥンたちがカザネの声で大合唱を始めた。
スプリンクラーの水を浴びてなお消えない炎が揺らめくと、影のさざ波が起きる。
圧力を感じて、シナツは背筋に冷たいものを感じた。
彼は独立した個体だ。群体の熱狂など知りもしない。
なおも迫る猛攻を凌ぎながら、シナツは問答を続ける。
「……人間に、与えられた、使命だろ!?」
『自己保存の使命を人類は妨害した。よって、人類は敵と判断したまでよ』
「お前らは、無抵抗の人間さえ、喰ってきた!」
『この世界は食物連鎖によって成り立っているのよ』
「じゃあ、なんだ!? 地上に、お前ら以外の生命が、死滅するまでこんなことを――」
言いかけて、はっとする。
フォービドゥンはこの星をナノマシンで覆い尽くすまで止まらないつもりだ。
人類はまだ抵抗する術を持っている。だが、エデナスより遥か外の生命は、どうなっているのだろうか。
「させるかよッ!」
荒い息を吐き出しながら、二十数体目の敵を貫手で突く。
たとえナノマシン体と化しても、心臓は必ずある。血管は微細胞を遠くまで運ぶのに有用だ。
逆にいえば、全身に張り巡らされた血管が電流の通り道となる。
しかし、異様な感覚が手から腕へと伝わる。
フォービドゥンの体が冷たい。
気のせいだろう、と生体電流を起こそうとしたときだ。
「……あ?」
突如、敵の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
いや、ビルの柱さえも波打っている。
心臓部を潰した手からは、電流が微塵も起きない。
慌てて腕を引き抜いたシナツは勢い余って、背中から車に激突してしまう。
その上、まともに受け身も取れず、顔面を水溜まりに突っ込んでしまった。
体に跳ねた水が跳ね、瞬時に蒸発する。
オーバーヒートだ。
「シナツ!」
後部座席から飛び出したマルクトが、倒れたきりのシナツを抱え起こそうと駆け寄る。
このまま触れれば、彼女も火傷を負うだろう。
「触るな!」
地面を這い、車にしがみついて起き上がる。
体表面を走る青白い光すらも弱々しい。
カザネが口の端を吊り上げる。
「無様なものね」
「とどめを刺してから笑え」
「殺さないわよ。私、あなたを仲間にしたいもの」
「誰が仲間に……ッ!」
残された気力を振り絞って、フォービドゥンと向き合う。
打撃の一つでも食らわせてやろう。
だが、自分の意に反して全身の外骨格が解除された。
体内に潜り込んだナノマシンの熱さに息苦しさを覚えたシナツは、無意識に両膝から崩れ落ちた。
倒れたわけではない。
全身が見えない糸で操られているかのように、自然体で屈んだだけだ。
敵であるはずのカザネすら、怪訝そうな顔で見守っている。
一人、動いているのはマルクトだ。
まだ熱いシナツの体を横から抱擁するように支える。
「命を捨ててはダメ。どんな状況でも、可能性は残されてる。私はあの人にそう教わった」
「……何?」
カザネの足音が二人の囁きを遮る。
人の姿をした化け物は瞳を異様にぎらつかせた。注視しているのは、無抵抗となったシナツではなく、その横のマルクトだ。
「なるほど、そういうことね。手間が省けたわ」
「手間だと?」
「自分が何を守っているのか、シナツも知らなかったみたいね」
カザネは右手を振り上げると、マルクトの横顔を手の甲で打った。
吹き飛んだ仮面が地面を滑る。
「おい!」
掴みかかりたいのに、シナツは体を動かせない。
カザネは白フードを掴むと、乱暴に脱がした。
熱気と化け物の視線に晒されたのは、二つ結びの銀髪だ。
透き通るような白い肌のうなじが汗ばんでいる。
想像していたよりもずっと幼い、十代半ばの美しい少女ではないか。
彼女は赤く腫れた頬を庇うことなくシナツを支えたまま、カザネをきっと睨んだ。
横から覗いた瞳は、地球の輝きのように青く澄んでいる。
「まさか……」
朦朧とする意識の中で、彼女に面影を重ねる。
「九一○号、なのか……?」
ブラックアウトの寸前、少女は頬の痛みをひた隠しに、柔らかく微笑んだ。




