[09-2]
エレベータのドアが開いた先は、オレンジ色の明かりが点々と灯る長いトンネルが続いている。
出口の見えない空間に、マルクトは胸を締めつけられた。
静寂が小柄な彼女を押し潰すようだ。
視線を走らせると、黒塗りの乗用車が待機していた。両脇には体格の良い白装束二人が控え、護衛対象のために後部座席のドアを開けている。
マルクトは彼らに声をかけることなく乗用車に乗り込んだ。
防弾、耐衝撃、耐熱の特別性だ。漂着物から回収した資材でラボが組み立てた、いわば地上の脱出ポッドなのである。
前部座席に白装束が乗り込むと、モーターエンジンが起動する。電力を主燃料としているので、音は静かだ。
セントラル・タワーから離れる車の中で、マルクトは地上の戦闘員たちに後ろめたさを覚え、せめて彼らの無事を祈るのだった。
いつかはフォービドゥンの侵略が起きると予測していた。
だが、その前に彼が亜空間から現れるなんて――
ひとたび閉じた亜空間の出口を内側からこじ開ける技術など、二百年前の最盛期といえども確立されていない。
全くの偶然が、マルクトにとっては避けるべき現状を招いている。
仮面の奥で小さな溜息がこもる。
『何ゆえ、汝はあの者と関わるとなると、視野が狭まる』
それは父も同じだ。
自分を守らせるために彼をそばに置くだなんて、許されるのか。
〈ダアト〉の賢者たちは多様性を保つからこそ、導き出される結論から私情を排除できるのだ。
それをケテルとマルクトの判断でシナツを振り回そうとすれば、たちまち〈ダアト〉として相応しくない判断が下されることとなる。
本当に人類全体を憂慮した決断なのか。
シナツを〈セフィロト機関〉の一員として扱い、戦闘に向かわせるのが正しいのではないか。
それすらもマルクトの私情ならば――
車の前方に飛び出した影が彼女の思考を分断する。
バンパーに激突した何者かはボンネットに乗り、フロントガラスに掴まった。
人間サイズのもぐらに似たフォービドゥンだ。
五本指の鋭い爪は、ナノマシンが微細運動を行うことで高い貫通力を発揮する、単分子ドリルになっている。
フォービドゥンは丈夫なフロントガラスをひび割れさせることなく穴を開け、スピードを緩めない車にしがみついたのだ。
運転手はハンドルから片手を放し、果敢にもフォービドゥンの爪に手のひらを向ける。かちん、という硬い音がすると同時に、青白い雷光が放たれ、フォービドゥンを感電させた。
ガラスに突き立てた手が塵と化し、車の屋根を転がって後方へと落ちる。
しかし、通り過ぎた柱の陰から飛び出した新手がホイールを狙ってダイブ。ライフル弾をも弾くタイヤを破裂させる。
バランスを崩してぐらつく車に、さらなる一体が衝突してきた。
徹底的に妨害されては姿勢を安定させられず、激しくスピンしてしまう。
摩擦の甲高い音をトンネルに反響させ、車は壁に激突する寸前で停止する。
迷いなく飛び出した従者たちはマルクトの安全を守るべく、取りついたフォービドゥンに放電を浴びせた。
こうなってはもう逃げられまい。
マルクトは落ち着き払った態度で車から降りた。
「カザネ・ミカナギ。そこにいるの?」
返事はすぐにあった。しかも、あちらこちらから、一音ずつ、言葉は紡がれる。
「私はどこにでもいるわ。今、あなたが轢いた『私たち』の中にも」
最後の『も』は、よろよろと立ち上がるもぐら型のフォービドゥンからだ。獣の形貌が見る見る人に近づき、最終的に女性の姿へと変わる。
間違いない。カザネだ。
マルクトは車を背に、両脇を二人の従者で固める。
素早く周囲の気を探るが、フォービドゥン同士で交わす信号のようなものは感じられない。
事前に命令を共有した後は、独自の判断で動いているのだ。
「そんなの、違う。カザネはあくまで一人の人間。遍在はしない」
「頭が硬いわね、人類。私たちは進化したのよ。お名前を教えてもらえるかしら、お嬢さん」
「……マルクト」
短く答えてから、思案を巡らせる。
自分を狙って待ち伏せしたのではない。セントラル・タワー内部の人間を袋の鼠にすべく、退路を断ったに過ぎない。
かといって、そこに付け入る隙などあろうか。
隠れていたフォービドゥンが続々と現れ、マルクトたちを包囲する。
従者の二人は対フォービドゥン戦闘能力を有している。じりじりと距離を詰めるのは、一気に雪崩れ込んでくるつもりなのだろう。
その注意を引くためか、カザネが優しく微笑む。
「安心しなさい。今すぐには取って喰ったりしないわ。もしかしたら、利用価値があるかもしれないもの」
表情とは正反対な冷たい声に、マルクトはぞっとして立ち竦む。
明らかな怯みを隙と見たか、フォービドゥンたちが行動を起こした。
猛攻に反応した従者たちはマルクトを守るように背を向け合い、化け物たちに両手を突き出す。
いかにフォービドゥンが高圧電流を苦手としようとも、二本の腕では限界がある。
無駄な抵抗を嘲って哄笑する化け物たちには『死』の概念が欠けている。
突撃に躊躇いはない。
だとしても、従者たちが武器を隠し持っているとは推測しようがなかった。
マルクトがフードの上から自分の両耳を押さえた。
背後の彼女がそうしたのを背中の目で見たかのようにタイミングを計り、従者たちは逆襲を始める。
断続的な轟音と共に、暗闇を何条もの閃光が切り裂いた。
彼らの腕から放たれたのは機関銃の弾だ。
袖からぼろぼろと空薬莢がこぼれ落ち、『銃身』の熱で白装束に火がつく。
それでも従者たちは動じず、掃射を続けた。
彼らは人間ではない。
燃え広がるローブの中から現れたのは、黒光りする鋼の体だった。
一対の要人警護用自動人形、〈アウン〉である。
このときの〈アウン〉は本来よりも機敏に敵性存在の動きを追いかけていた。
だが、銃弾は対フォービドゥン用の特殊焼夷弾ではない。地下、ほぼ密室での戦闘を考慮して、通常弾が装填されている。
相手が銃火器を持っていると分かれば、フォービドゥンたちも前もって回避できる。加えて、残弾には限りがあった。
壁や柱に弾痕が穿たれ、粉塵が舞う中、フォービドゥンは散開して一対の〈アウン〉を挟み撃ちにする。
生物と同じで、動力部や演算装置を破壊してしまえば、それ以上の活動は不可能だ。
一体が背中から胸にかけて腕をうずめたのに乗じて、次々と殺到する。
〈アウン〉はもう持たない。
そう判断したマルクトは車の後部座席に体を滑り込ませてドアを閉める。
小柄な体を丸め、胸や頭部を分解される〈アウン〉から目を背けるように頭を抱えた。
次の瞬間、二体の人形内部に搭載された自爆装置が起動する。
猛火に呑み込まれた化け物たちは消し炭と化し、余裕たっぷりに微笑んでいたカザネもすぐに見えなくなった。
車両は性能通り、至近距離の爆発にも耐えてみせた。
フロントガラスの穴から侵入する熱気が、マルクトを蒸し焼きにする。
スプリンクラーが作動したが、〈アウン〉がばら撒いた燃料を舐める炎はなかなか消えない。なおも黒煙が天井を覆っていた。
マルクトは恐る恐る外の様子を窺い、車から出る。
「けほっ……」
酸素が薄い。
これで突破口が作れたか。
マルクトは現在地を示す壁のアルファベットと数字を確認し、近くの出口まで走って逃げようと考えた。
その行く手から、称賛の声が投げかけられる。
「なかなかの勇断ね。もっとも、火力が足りなかったみたいだけど――」
炎を避けるように、カザネが立っている。
フォービドゥンの群れも健在だ。仲間を盾にして、熱波を防いだのだ。
周囲に群れを従える姿は、まるで獣の女王である。
マルクトは息苦しさに仮面を押さえながら、じりじりと後ずさった。
その分だけ、カザネが優雅に歩いて距離を保つ。
「分かったでしょ? 大人しくしなさい。痛くしないわ、マルクトお嬢さん」
そう、打つ手なしだ。
マルクトは声を張り上げて訴える。
「フォービドゥン! カザネ・ミカナギの姿で欺くのはやめて! あの人を傷つけるのは許さない!」
「あの人?」
カザネは首を傾げるも、すぐにはたと思い立って手を打った。
「ああ! シナツのことね」
そして、目を細めて口元に拳を寄せる。
「ふふっ、彼が傷つく? まるで実験体四七二号が人間みたいな口振りね」
「あの人は紛れもなく人間」
マルクトは煙を払うように手を振って応じる。
「それを、カザネ・ミカナギの記憶は覚えているはず」
「確かに、私たちは覚えているわ」
カザネはあっさりと頷いた。
「四七二号はたまたまセルを制御できたかもしれない。だけど、見なさい。私たちだって人の姿くらいは維持できる。制御というのは人間レベルに合わせてあげているだけの能力だわ」
彼女は顔を歪めて、さらに続けた。
「私たちはすでに成功していたのよ。それを人間は判断できなかった。自分たちがコントロールできないから、失敗作呼ばわりしただけ。身勝手にも程度があるわ」
「くっ……」
「さあ、くだらない問答は終わりよ、マルクトお嬢さん」
カザネがマルクトの肩を掴もうと歩み寄る。
その背中に、「はん」と鼻で笑う声が届いた。
「人間レベルに合わせてあげているとは、元人間がよく言う」
「来たわね――」
カザネは振り向きざまにその名を吠える。
「シナツ!」
炎に照らされて、漆黒の外骨格にオレンジ色が差している。
変異者は助走をつけて跳躍する。フォービドゥンたちの頭上を横切り、マルクトの傍らに降り立って彼女を庇う。
「護衛につくぜ、マルクト」
こちらに振り向いた彼の顔は外骨格の仮面に隠れている。
しかし、声は確かに、強がって笑っていると分かるのだった。




