[08-3]
銃声鳴り響く繁華街の上空を、双回転翼機〈ケストレル〉が横切る。
セフィロト機関の特務課と警備課はビルの周囲に包囲網を敷き、何十という数のフォービドゥンと交戦している。
敵、あるいは寄生先を求めてビル内部に侵入した化け物も含めれば、敵は百を超える勢力となるだろう。
戦況をカメラ越しに捉えたシナツは、苦々しげに呻いた。
「まずいな。下の連中は救助に間に合わない」
ビルに突入したときには、恐らくフォービドゥンの巣と化しているだろう。
現実的な分析に、ディゼが肩をびくりと震わせる。
その様子を横目で認めたシナツは、強い語気で話しかける。
「ディゼ。まだ通話は繋がっているんだろ」
「え、ええ……サバテ、今いる場所を教えて。それから、友達と一緒にいるのね?」
彼女のリストデバイスから、怯えきった少女の声が響く。
『い、今、十五階。私たちは四人――』
突如、男の絶叫と少女たちの押し殺した悲鳴が迸る。
ディゼは卒倒しそうになりながらも、「サバテ?」と呼びかける。
気が遠くなるような静寂の後で、上擦った囁き声が応じた。
『ど、どこかで叫び声が聞こえて……同じ階にいた人が襲われたのかも……』
時間がない。
間に合うかどうか――
ぐっと息を呑み込んだディゼは、それでも毅然とした声で言う。
「今、ビルに突入するわ」
『……うん』
「リストデバイスはルーシーに預けるから。お願い」
端末をしかと受け取ったルシエノが自らの端末と有線で繋ぎ、懸命に平静を装った声で話しかける。
「サバテさん、よく聞いてください。その場から逃げるよりも、じっとしていたほうが安全です。怖いかもしれませんが、どうか、私たちの到着を待ってください」
『は、はい――ルーシーさん』
サバテはルシエノの名前も知らないのだ。だが、姉の同僚であり、穏やかな声のオペレーターに、一定の信頼感を得たようだ。
小さく頷いたルシエノがこちらに振り向き、口を開かずに人工知能〈バスケト〉を介した無線通信を始める。
『〈ケストレル〉、屋上に着陸します』
『いや、その時間も惜しい。可能な限り寄せたら、キャビン・ハッチを開けてくれ。ディゼを抱えて飛び降りる』
『了解しました』
建物の真上にホバリングする輸送機は、風の影響を考慮しながら徐々に高度を下げていく。
シナツは機体の姿勢が安定しないうちから立ち上がり、後部ハッチの前に立つ。
黒いインナーの下から、さらなる漆黒の液状細胞群が滲み出て、シナツの体、手の指先、靴の爪先、そしてカザネのメガネ、頭部を覆う。
目や口のない顔に、二本角や後頭部から生えたケーブル。知らない者が見れば、フォービドゥンと見分けのつかない異形と化す。
ただ、体表面に浮かび上がる青白い光の紋様は、穏やかに明滅を繰り返すのだった。
金具の外れる重々しい音がハッチから響く。ややして、ハッチがゆっくりと倒れ、空から降り注ぐ陽光にキャビン内が明るくなる。
屋上庭園には人工樹と芝生が植えられていて、ベンチから絶景の見晴らしを楽しめる憩いの空間である。
高さは、五メートル以上。
「ディゼ、来い」
手のひらを上にして、彼女に差し伸べる。
揺れる機体におぼつかない足取りのディゼが掴まると、謝って落ちないようにしっかりと体を抱きかかえた。
ディゼが変異状態のシナツに触れたのは初めてだっただろう。目を丸くして、呻く。
外骨格の表面は滑らかで、人間の体温よりやや高い熱を帯びている。ナノマシンが稼働する際に発する、機械熱だ。
「舌を噛まないように気をつけろ」
「オーケイ」
『シナツ・ミカナギ、ディゼ・エンジ。出撃する』
『ご武運を』
ルシエノの返答を受けて、大きく開かれたハッチから宙に身を投じる。
直後、重力の手がシナツたちの肩を掴んで押さえつける。
降下時間はほぼ一瞬だ。
着地の衝撃は芝生でも吸収しきれず、二人分の体重で陥没する。
シナツのほうは下半身をばねにしてものともせず、ディゼを下ろす。
『ルシエノ。階段よりも近い道はあるか?』
『エレベータはずっと下のフロアで破壊されて、動きません。でも、シャフト内は――』
『ワイヤーが垂れている』
『シナツさんなら降りられますよね』
『ああ』
二人がエレベータ・ホールに入ると同時に、ルシエノの遠隔操作でドアが開かれる。中は暗い、奈落の穴だ。その中に、カゴを吊るす太い鋼糸がきりきりと揺れていた。
再び、ディゼが両手を広げてシナツに抱きつく。
「慣れないわね。こういうの」
「降下訓練を受けていないのか?」
「……違うけど、まあ、そうね。落とさないでよ、シナツ」
「もちろんだ」
先ほどと同じように彼女を抱き留め、ワイヤーに跳び移る。数百キロの重さに耐えられる丈夫な材質だ。二人の体重ではびくともしない。
『ルシエノ。念のために――』
『動力は停止させてあります』
『さすが。気が利く』
と、フルフェイスの下で笑ったシナツが、握力を緩めた。
二人は暗闇の奥へと吸い込まれる。
侵入者の気配を察知したフォービドゥンが、ゆっくりと開くドアをこじ開け、シャフトに顔を覗かせる。無造作に増殖したナノマシンは肉体を膨張させ、人間の原型を留めていない。
百八十度に捻じ曲げられた顔が、二つの影を認めて咆哮する。その口腔に、シナツの爪先が突き刺さった。
刹那、フォービドゥンの体がびくんと痙攣し、砂状に崩れながら転落する。
ベンティスとの交戦時に得た反省から、敵の体内だけに高圧電流を流し込む方法を考えたのである。
シナツはワイヤーを蹴って、フロアに滑り込む。
まだ変異していない死体があちらこちらに転がっている。
店舗に飾られた商品はどれも返り血で汚れていた。
徘徊する異形どもが一斉に振り向いて、二人のエージェントに牙やかぎ爪、各々の武器を見せて威嚇する。
床に下りたディゼが素早く周囲に視線を走らせる。
「サバテ! どこ!?」
『ディゼさん!』
答えたのはルシエノだ。
『スポーツ用品店です。右手の、奥! 急いでください!』
「ディゼ、いいな!?」
「あたしは大丈夫よ、行って!」
進路を遮るフォービドゥンの上半身が赤熱を帯びて、爆ぜる。
シナツは勇猛果敢に肉塊の群れへと突っ込む。
その耳に、少女たちの切り裂くような悲鳴が届いた。
「……くそッ!」
間に合わなかったのか?
それでもシナツは全細胞をフル稼働し、前方の障害のことごとくを弾き飛ばす――
レジ台の下に、サバテたち四人の少女は身を寄せて隠れていた。
誰もが歯をかちかちと鳴らして震えている中、サバテだけはきゅっと唇を引き結んでいる。
その横顔を窺った犬耳の少女、アーキタがか細い声で尋ねる。
「こ、怖くないの?」
サバテは強張った頬に無理矢理笑みを作って、答えた。
「怖いよ。でも、お姉ちゃんは来るって言った。だから、待つの」
あのときも、はぐれてしまった姉が駆けつけた。
フォービドゥンの前に立った父親が胸を斬りつけられ、今度は父親が母親を襲った。あるいは、自分を喰うつもりだったのかもしれない。寸前で母親が突き飛ばしたのだ。
だから、どうした。
次は自分の番だ。
絶望に心を支配され、逃げる気力も起きずにへたり込んでしまう。
目の前で怪物に変わった両親が、こちらに手を伸ばす。
その指が突然、紅蓮に染まって飛び散る。
『サバテ!』
その声は紛れもなく、姉、ディゼだったのだ。
自分の間に滑り込んだ姉がさらに眼光を輝かせようとして、両親の面影に怯んだ。
『パパと、ママなの?』
そして化け物は苦しげな声を絞り出す。
『ディゼ――』
それでも姉は、両親を燃やし尽くし、灰の山に変えた。
やると決めたら意志の固い人だ。
必ず来る。
だが、時は非情だ。
『みなさん』
ルシエノの声は緊張で張り詰めていた。しかも、レジ台に隠れている者しか聞こえないほどの音量である。
『絶対に、動かないでください。声も出さないで』
間近で聞いているはずの彼女の声を掻き消すほど、べたんべたんとヒレを叩きつけるような足音がすぐそばでした。
ルシエノの注意があったにもかかわらず、友人たちは嗚咽を洩らす。もうだめだ、と諦めているのかもしれない。
足音がレジ台の前で止まる。
早く通り過ぎて。ここには誰もいないから、早く!
そんなサバテの祈りも通じず、妙に平べったい手が台の縁を掴んで引き倒した。
「いっ……」
照明が縮こまった四人の姿を照らし出す。
鳥のくちばしのような頭に、八つ目のフォービドゥンがそこにいた。
今度こそ耐え切れずに、友人たちは悲鳴を上げる。
このままじゃ、みんな殺されるだけだ。
逃げ場なんてない。周りを見渡しても、化け物ばかり。
サバテの脳裡に、フォービドゥンと対峙する姉の姿がよぎる。そして、自分を守ろうとして犠牲になった、父親と母親の最期も。
跳ねるように立ち上がったサバテは、壁に掛けてあったクロスを手に取って、がむしゃらに振り回した。
「こ、このっ!」
当然、化け物が動じるはずもない。
獲物はこの勇敢な少女からだと見定めたフォービドゥンは口を大きく開け、鋭い牙を柔肌に突き立て――
ることはできなかった。
サバテが風を感じた瞬間、化け物の姿も消えたような錯覚に襲われる。
視界にちらりと映ったのは、黒い塊だ。
人型の異形が、体当たりと同時に化け物を床に押し倒したのである。
馬乗りになった異形は、躊躇いもなく口腔内に片腕を突っ込んだ。と、同時に体表面を走る青白い光が一際強く輝いた。
べたん! と床と叩く化け物の手足が、ぼろぼろと崩れて塵と化す。
何をしたのか、とサバテはクロスを構えたまま瞠目する。
塵の山からゆっくりと立ち上がった異形は、他のフォービドゥンよりもずっと洗練された肉体に思えた。
どうして仲間同士なのに、自分を守ったのだろう。
強い輝きを放った光は静かに落ち着いて、少女たちに敵意を感じさせない。
異形はこちらに振り向いて、首を傾げた。
「全員、怪我はないか?」
この声――
サバテはぐっと心臓を締めつけられる思いだった。
聞き間違えようがない。
あの頼りなさげな青年。
「シナツさん!?」
「もう大丈夫だ。後は俺たちが片づける」
彼が通ってきた道には、体の一部位を分解されたフォービドゥンたちがひしめき合っている。
そんな恐ろしい光景も忘れて、サバテは尋ねた。
「……『たち』?」
その質問に答えるかのごとく、化け物の群れが赤熱に覆われ、ついには限界を迎えて破裂した。
焦げた床から煙が立つ中を、一人の人影がロングコートをはためかせて歩いてくる。
ブルネットの長髪。琥珀の瞳。
自分とよく似ながら、ずっと大人びた少女が微笑を浮かべる。
「間に合ってよかったわ」
「……お姉ちゃん!」
サバテはクロスを放り棄てて、姉の胸に飛び込んだ。
そしてすぐ、今まで邪険にしてきた自分の態度を恥じて離れようとする。
その頭を、ディゼはさして気にした風でもなく優しく撫でた。
「もう少し待っててね、サバテ。そしたら、もう怖くないから」
「あ……う、うん」
ディゼは踵を返し、シナツの隣に立つ。
内緒話のつもりなのだろうが、姉の潤んだ声はサバテにも聞こえた。
「ありがと、シナツ」
「次は連中の殲滅だ。民間人の退路を切り拓く」
「オーケイ。迅速にやりましょ」
頷き合った二人は、臆することなくフォービドゥンへと向かう。
片や、雷光。片や、赤熱。
持たざる者のサバテは、彼らの戦いを、姉が身を置く日常を、初めて目の当たりにしたのだった。