[08-2]
オフィスでは、暇を持て余したディゼがソファで雑誌を読んでいた。
すらっとした足を組んで、無意識ながらにモデルのようなポージングを取っているのだった。
シナツが後頭部に手を当てていると、視線に気づいた彼女が顔を上げた。
「おかえり」
「……今、戻った」
サバテと会ったことは伏せておこう、と決める。
密約を交わしたわけではない。しかし、自分が口を出すのはお門違いに思えたし、何より彼女自身に算段があるようだ。先の会話は胸にしまっておくべきだった。
とはいえ、長く見つめすぎた。
ディゼは「ん?」と小さく首を傾げた。
無表情を装って首を振り、彼女の追及を避ける。
「しばらく、待機だと命令が届いたぞ」
「みたいね。ルーシー、どうなってるの?」
やや後ろに傾けた執務席で眠っているかのようだったルシエノが、ぱちりとまぶたを開けた。
シートをゆっくりと起こした彼女は、二人の同僚を交互に見比べて答える。
「先日の漂着物調査任務から帰還して、体調をチェックしたいそうです」
「それなら、『問題なし』と出たはずだろう。わざわざ隔離施設に出向いたじゃないか」
シナツは乱暴にダウンジャケットをハンガーに掛けた。
その後で、憤慨しても仕方ないと思い直し、奥で自分用のカップに紅茶を注ぐ。
第七班に常備してある茶葉は、ルシエノが専門店に発注している品だ。オフィスでの頭脳労働が多い彼女にとって、休息の必需品なのである。
その香りを嗅いだシナツは「うむ」と頷いて、ワークデスクに着いた。茶葉の種類によっては新鮮な刺激に驚くこともあるが、地上を訪れたばかりのように吐き気を覚えはしない。長居をすれば、順応するものである。
さりげなく一挙一動を見守っていたディゼが、横に雑誌を置いて尋ねる。
「シナツの検査って大変じゃないの?」
彼女の頭には、かつてシナツを隔離した際に行った調査が思い浮かんでいただろう。
シナツの体を構築する細胞にはアイデンティティが刻まれていて、シナツの体から切り離されると同時に自殺プログラムが働いて機能を停止させるのだ。
それは、他の実験体やフォービドゥンとは異なる、シナツの特質である。
「〈ザトウ〉式を教えた。元々あそこでは注射器で血を採取して、針を抜いたら、シリンダーをそのまま検査にかけるそうだ。俺の場合は針を刺したままにしておけばいい。こうすれば血液に信号が伝わる」
耳を傾けるディゼは『針を刺したまま』の部分で「う」と小さく呻いた。涼しげに話すシナツが信じられない、という表情だ。
「でも、それならもっと変ね。シナツのことは〈ダアト〉に筒抜けでしょ?」
「鬱陶しい連中だ」
後ろめたさなど微塵もない物言いに、ルシエノはぎょっと身を竦めた。
素知らぬ顔のシナツは紅茶を一口飲み、その味わいに目を細める。
「フォービドゥンの巣、〈ザトウ号〉を探すのが第七班の任務だったはずだ」
ルシエノが「むぅ」と口を尖らせて唸った。
「エデナスにいるはずの〈潜伏者〉を警戒するためでもなさそうですし」
「ああ……そうだな」
思わずコップを握る手が強張る。
〈潜伏者〉――カザネ・ミカナギ。次に対峙したときは、〈セフィロト機関〉の一員として彼女を始末しなければならない。
だが、何故、始末する。
フォービドゥンだから。人間とは違うからか。
カザネは、シナツを異質という理由で処分しようとはしなかった。ナノマシンの抑えがきかず、人の形を失いつつあったときも、彼女はそこにいたのだ。
それに、彼女はナノマシン群の獣ではない。知性を有している。コミュニケーションを図ることができる。
だからといって、見過ごせるか?
彼女が動くたび、人が死ぬ。それは間違いない。
「せめて、あいつの顔じゃなけりゃいいのにな」
小さく呟いたつもりが、思ったよりも大きくオフィスに響いた。
はっとなって周りを見渡すと、ディゼとルシエノが、それぞれ複雑な表情でシナツを見つめていた。
シナツは慌てて両手を上げて弁解しようとした拍子に、マグカップから紅茶をデニムジーンズにこぼしてしまう。
「あつっ」
浮かしかけた腰を椅子に戻して、情けない笑みを浮かべる。
「フォービドゥンは、〈セフィロト機関〉の――人類の敵だ。俺があの日受けた命令も実験体の殲滅。だったら、すべきことは一つだろ?」
「すべきことだと分かっていても――」
ディゼがにこりともせずに言う。
「いざってときには、迷うわ。それを、ずっと引きずっている人だっている」
彼女こそがその人である。
知っているからこそ、シナツは後ろめたく思うのだった。
罪悪感から視線を外す直前、ディゼが表情を和らげる。
「あの人と会ったら、メガネ、返すつもりなんでしょ?」
「あ、ああ」
普段、メガネはケースにしまって、ジャケットの内ポケットに入れている。
ディゼはソファの背もたれに、ぽす、と体を預けた。
「なら、そのときに見極めればいいだけだわ。あなたの目でね」
彼女の言う通りだ、とシナツは頷く。
今、ああだこうだと悩んだところで、自分の迷いは晴らせやしない。
そういう意味では、この待機命令にじれったさを覚える。早く任務に出て、再びカザネと対峙しなければならないのに。
ほう、と天井に向かって息をついたシナツは、話を変えようとサバテの言葉を思い出す。
「ところで――来週って、何かあるのか?」
ディゼがびくりと肩を跳ね上げて、すぐに答えた。
「何も、ないわ」
「何もないなんてこと、ないでしょう」
横からにこにこ笑顔のルシエノが口を挟む。
「シナツさん、私たちのプロフィールに目を通していないんですか?」
「軽く目を通しただけだ。そんなに詳しく知る必要、ない……だろう?」
語気が弱まったのは、ルシエノの笑みが見る見る消えていったからだ。
強く執務机を叩いて立ち上がった彼女は、激しく主張するのだ。
「必要あります! チームですよ、私たち!」
「その人間を知るには観察が一番だと教わった。不十分なのか?」
「不十分です!」
ルシエノはすかさず反論するのだった。
「だってだって、来週はディゼさんの誕生日なのに!」
「あん?」
シナツは当のディゼ・エンジに振り返った。
彼女は気恥ずかしげに腕を組んで、そっぽを向いている。
「まあ……別に……誕生日だからどうってことないけど」
「確かに、不十分だったな」
シナツが大真面目に提案する。
「パーティーを開こう」
その唐突ぶりに、ディゼは「ぅえっ?」と奇妙な声を上げた。ルシエノですら、目をぱちぱちと瞬かせている。
「〈ザトウ号〉では、船員の誕生日をみんなで祝う慣習があったんだ。もしかして地上ではないのか?」
「あ、あるわよ。いや、あたしが驚いてるのはそこじゃなくて――」
ディゼは前髪を掻き上げようとしたその手で、何故か自分の膝を叩くのだった。
「……どこで『来週』なんて話、聞いてきたの?」
「クフィル」
咄嗟に嘘をつける辺り、シナツも進歩したものだ。だが、いかんせん、目はかすかに泳いでしまう。後で彼女と口裏を合わせてもらうよう、頼まねばならない。
ディゼは疑わしげに「ふうん……」とソファから身を乗り出して、顔を覗き込もうとする。
「クフィルなら漂着物の調査班警護に付き添って、ここにはいないけど」
「……つ、通話したんだよ」
「おかしいわね。あなたのことをよく訊かれるわ。連絡先を知ってるなら、あたしに訊くことないのに。それに、どうして誕生日の話をしなかったのかしら」
さすが特務課のエージェント。その推理力に、シナツは内心冷や汗を流す。
だが、彼が理由もなく嘘をつく青年ではないことを、ディゼもよく分かっていた。
「いいわ。シナツの言うことに、しておきましょ」
頬を赤らめたまま、にっこりと微笑む。
彼女に肩を竦めてみせたシナツは、ふと考えるのだ。九一○号を守れず、カザネのいない地上を訪れ、絶望していたときもあった。今だって、迷いが胸の奥底で渦巻いている。
それでも、気の安らぐひと時が、ここにはある。
そして同時に知ってもいたのだ。
ひと時は永遠ではないことを。
シナツが紅茶をもう一杯飲もうと立ち上がると同時に、セントラル・タワー内に警報が鳴り響く。正確には、特務課と警備課のフロアに。
敏感なルシエノは泡を食って、警報の内容を大型ディスプレイに表示する。
「市内にフォービドゥンが確認されたそ――う!?」
喉を潰したような悲鳴の理由は、すぐにディスプレイに表示された。
フォービドゥンの位置を示す赤点が、繁華街の一画を塗り潰している。
大量の変異体が突如として街の中心に現れたのだ。
「ちょ、ちょっとまずい状況じゃない!」
「場所は、イェルカ・ビル・センターです。あそこには人も大勢集まっているのに……」
シナツは〈ザトウ号〉の惨劇を思い浮かべて、『くそッ』が喉まで這い上がる。だが、悪態は口をついて出ることはない。
執務机に駆け寄って、ルシエノの両肩を掴む。
「今、なんて言った!?」
鬼気迫る形相に、ルシエノは怯えながらも繰り返した。
「え、えっと、人も大勢集まって――」
「違う、場所だ!」
「イェルカ・ビル・センター。最近できた、商業施設です」
シナツはオフィスを歩き回りながら、ぶつぶつと地名を呟く。
どこかで聞いた名前だった。
どこで?
つい最近だ。
それも時間が経っていない。
商業施設だって?
今度こそ、シナツは叫んだ。
「ああ、くそッ!」
『球技ということは……これから試合か、練習か?』
『練習が終わったところです。一度寮に帰ってから、みんなで遊びに出かけようって』
『イェルカに新しいお店ができたって話だから』
『……ふうん?』
咄嗟にリストデバイスを通知機能を開く。出撃命令は出ていない。焦りが限界に達し、思わずロッカーを叩いてしまうシナツだった。
「そこに、サバテがいる! 友人と一緒だ!」
さっと顔から血の気を失ったディゼが、それでも冷静に携帯端末を操作し、サバテとの通話を試みる。
幸い、通話はすぐに繋がったようだ。
「サバテ! 今、どこにいるの? ……違う、そうじゃなくて――落ち着いて、あたしの話を聞きなさい」
彼女が確認を取っている間、シナツはルシエノに小声で囁く。
「どうして俺たちに出撃命令が出ない」
「分かりません。〈ダアト〉は別の班と警備課を向かわせるみたいで――あっ」
「なんだ?」
「今、命令が下りました。マルクト様、直々に」
「〈ケストレル〉で向かおう。俺たちは空からビルに侵入し、要救助者を確保する」
二人は互いに頷き合い、行動を開始する。
シナツはダウンジャケットからメガネを取り出し、インナーの襟に弦を挟んだ。
ディゼが手招きをする。『コートを取って』のジェスチャーだ。
「安心して、サバテ。今すぐお姉ちゃんが行くから――通話はこのままにして。いいわね?」
警報が止まって静まり返ったオフィスに、サバテの怯えきった声が響いた。
『……うん、分かった。待ってる』
喉をぐっと震わせたディゼは、足元に視線を落とすこと数秒。
すぐ同僚たちに目配せをして、オフィスを飛び出した。




