[01-2]
漂着物――破壊された宇宙船、ステーション、人工衛星――の第一波到来、いわゆる『大災厄』は、およそ二百年前の出来事である。
大質量の物体が降り注いだことで、地上の様相は一変した。
難民、食糧と資源の不足、拡大する紛争地域、生態系の異常はさらに激化。
もはや国家の境界は機能せず、人は安住の地を求めて流離った。
そうして身を寄せ合った者たちが築いた新社会は、秩序と混沌を同居させ、急速に成長しつつある。
だが、満天の星空を見上げるたび、彼らは思い出すだろう。
その輝きの一つ一つが、今も漂流する破滅の光だということを。
一方で、ある者たちは災厄を回避する希望の光を見出した。
繁栄の過程で蓄積された知識までは失われていないのだ、と。
十人の賢者によって設立されたセフィロト機関は惑星再建を成すべく、技術の結晶である漂着物の回収、並びに管理を最重要任務としている。
諸刃の剣を利用するか、それとも封印するのか。
決断を下すのは賢者たちの役目である。
旧市街地で保護された青年の処遇を決めたのも、賢者たちだ。
移送先には新都市から遠く離れた生物隔離施設が選ばれた。
二百年も宇宙を漂流していたポッドから現れたのだ。正体が判明するまでは、隔離が安全だと考えたらしい。
青年はなかなか昏睡状態から回復しない。
その間に、ディゼは施設のシャワールームで髪に付着した埃を洗い落としていた。
「カザネって、女の人の名前……よね」
水を吸った長髪を掻き上げ、鏡に映る裸の自分に向かって呟く。
降り注ぐ湯水と立ち昇る湯気に、少女の肌はほんのりと赤みを帯びている。
頭の中は、黒い鎧から現れた青年のことで一杯だった。
倒れる寸前に発した、『カザネ、すまない』という言葉がどうしても忘れられない。
「守るためよ」
ああしなければ、兵士の何人かは命を落としていただろう。
判断は間違っていない。
……本当に?
「『あの時』とは違うわ。そうでしょ、ディゼ」
自分自身に言い聞かせ、シャワーを止める。
鏡の中で揺れる琥珀色の瞳に背を向け、足早に個室を後にした。
特務課第七班は引き続き、青年の調査を命じられていた。
ルシエノなら、施設の検査機器を自分の指のように使いこなせる。仕事上の問題はほとんど起きないはずだ。
それでもディゼは、私服のシャツとスリムパンツに着替えると、ベージュ色のトレンチコートを腕に抱え、急ぎ足で観察室へと戻った。
「お待たせ」
「お帰りなさい、ディゼさん」
コンソール席の少女が安堵の笑みで出迎える。
薄手のカーディガンに丈の短いスカートを着て、ほっそりと伸びる足にはタイツを穿いている。脱いだダッフルコートは背もたれに掛けていた。
やはり、特務職員にはとても見えない、第七班の二人である。
ディゼが交代で席を外している間、この観察室と隔離室がある地下三階にいる職員はルシエノしかいなかったことになる。
隔離室からの脱走は万が一にも不可能だと知っていても、青年が覚醒したらと考えれば不安だったに違いない。
ディゼは空席に腰を下ろし、十数分前から変化のないスクリーンをじっと見つめた。
寝台に横たえられた青年が、胸を静かに上下させている。
東洋系の整った顔立ちである。移送前に投与した補給剤が効いたか、血色は回復したようだ。
身に着けていたのは、インナースーツ以外にブーツ。そして、黒縁眼鏡。詳しくは報告待ちだが、見たところ、特に変わった物ではなかった。
「何故生きていたかは後で考えましょ。彼は人間じゃないの?」
ディゼの問いに、ルシエノは強張った表情で頷く。
「骨格、臓器、筋肉、神経系。生体構造は限りなく人間に近いようですが……全身、ルキフェル因子と酷似したナノマシンです。あの外骨格も、細胞を変異させて形成した物でしょう」
『限りなく近い、酷似』とはつまり『違う』という意味だ。
データベースで類似した標本を参照できない青年の特殊性に、ルシエノの語調が弱々しい。
ルキフェル因子は、突然変異を引き起こすナノマシンだ。
異常な速度で新陳代謝を促し、老廃物から複製した因子で肉体全体を書き換えてしまうのである。
変異が脳に及んだとき、宿主はナノマシン群の指令に従い、他の生物を襲うようになる。
活動エネルギーを蓄えるために喰らうだけではない。
獲物に因子を移植し、さらに変異体の仲間を増やすのだ。
漂着者の青年は星に蔓延るナノマシン体と異なる、というルシエノの報告は先に続いた。
「問題は、細胞の自殺プログラムです」
不穏な単語に、ディゼは眉をひそめる。
「自殺?」
「採血器の針を体から抜いた瞬間、シリンダー内の血液が砂みたいになってしまったんです。彼の外装が砕けた物と同じ、残骸でしょうね」
破壊されたナノマシン群は結合力を失い、まるで脆い石像が風化するように塵となる。
確かに青年の腕は高熱に炙られたが、その部分以外の装甲はなんともなかったはずだ。
意識を失う直前にあえて自ら剥離する、制御された変異ということになる。
「自殺した細胞をモルモットに注入しても、変異は確認できません。彼の体外では増殖しない――アイデンティティを持ったナノマシンということになります」
そこまで喋り終えて、ルシエノは青年を肉体を凝視する。
その表情は、恐怖しているようにも、興奮しているようにも見えた。
ディゼはあくまで一歩引いた位置から尋ねる。
「ロスト・テクノロジーなのね?」
「はい、管理外技術です」
厄介な案件になりそうだ。
もしも賢者たちが青年を危険だと判断した場合――
ディゼが背もたれに寄りかかると、安物のチェアは無礼にも軋みを上げた。
○
生物隔離施設の周囲には荒野が広がっている。
電磁ネットと超音波発生装置が張り巡らされているため、侵入者と野生動物は全くといっていいほどこの地に寄りつかない。
巡回中だったその警備兵は、任務に忠実な男だ。
裾の長い白コートの背にはセフィロト機関が掲げる樹鏃の紋章が入っており、携行したアサルトライフルは実弾を装填していた。
敵が現れても、即座に応戦する心構えはできていたはずだ。
もっとも、男が考える『敵』のイメージは、身の毛もよだつ化け物の姿で凝り固まっていたのだが。
建物の陰――防犯カメラやセンサー類の死角――に回った彼は、背中を向けて蹲る人影を見つけて立ち止まる。
「そこで何をしている」
白衣を着た女性だ。恐らく研究員だろう。
長く伸びた前髪が、振り向いた彼女の顔を隠していた。
「ごめんなさい。髪留めを落としたの」
「……分かった、俺も探してやろう」
「助かるわ」
口元に妖艶な微笑を浮かべた彼女は、足音も立てずに警備兵との距離を詰めた。
「そうね、『まず』はあなたに手伝ってもらうとしましょう」
髪の下から眼光が瞬くと同時に、手のひらが警備兵の口を塞ぐ。
「むごっ!?」
奇行に後ずさろうとした警備兵の背中には、すでにもう片方の手を回されていた。
傍目に見れば抱擁だが、実際はそんな生易しいものではない。背骨がへし折れそうな膂力だ。
助けを呼ぶこともできず、警備兵は白目を剥き――
「じゃあ、お願いね」
その囁きをスイッチに、眼球が前方の空間を睨む。
すでに、周囲には誰もいない。
警備兵は何事もなかったかのように物陰から出て、巡回ルートへと戻った。
仲間を求めて。
○
観察室は、機器の排熱ファンが回転する音で静寂とは程遠かった。
その煩わしさで小型漂着物を思い出したディゼは、唇に当てていた右拳を離す。
「ポッドはどうなってるの?」
「ラボに移されてすぐ、調査報告がいくつか上がっています」
ルシエノの瞳が妖精を追い始めた。
耳飾りは電子の森に通じる鍵でもある。
ガジェットだけあっても、万人には木を見ることすら叶わない。
鬱蒼と生い茂る密林から目的のデータを探すのは、情報並列処理能力に優れた彼女だからこそ可能なのだ。
「過去にも発見例のあるポッドだそうです。民間船に搭載されていた脱出艇の一種で、機能は向きを修正する程度の推進装置と、あの落下傘のみですね。登録船舶名はザトウ号という大型船ですが、こちらの漂着は確認されていません」
そこでルシエノはほっと息をつき、『こちら側』に戻ってきた。
「なので、ポッドの発見が大気圏突入間際だったのは見落としだろう、という技術課の見解です」
「あらら、一悶着あるかしら」
「完璧なシステムはありえないとしても、観測所は人為的過失の排除に努めていますからね」
彼女はそこで一息分の間を置いて、ぽつりと呟いた。
「私も……過失ではない気がするんです」
ディゼが思うに、ルシエノの『気がする』は恐ろしい。
なまじ日常的に分析を行っているだけあって、直感が鋭いのである。
「ポッドに積まれた燃料と非常食、それに酸素は減っていなかったそうです。まるで、船から射出されたばかりのように……」
彼女は擦り合わせた膝の上で、両手の指を絡ませる。
「コールドスリープなら生き延びられるかも、と思いついたんですが――」
肉体を冷凍保存し、老化を防ぐ技術だ。
可能性は大きいと身を乗り出したディゼに対し、ルシエノの顔は浮かない。
「ポッドに装置は搭載されていませんし、その分の燃料がやっぱり必要ですから……」
「じゃあ、こういうのはどう?」
思い詰める同僚に、ディゼは明るい声で切り出した。
「この星のどこかから送り込まれたのよ。衛星軌道を使ってね」
「旧時代の兵器ですね。弾道ミサイルのような」
「そう、それ」
ルシエノは小首を傾げ、虚空に視線を彷徨わせた。
「……海に落ちたら大変じゃないですか?」
「一か八かに賭けなきゃいけない理由があったのかも」
そこで、両手を広げてみせる。
「彼に訊いてみれば全部分かるわ。言葉は通じたみたいだし、起きるのを待ちましょ」
「そう……ですね」
ルシエノが無理に笑みを作る。
「監視されていると、結果を出さなきゃ、と焦っちゃいまして……」
「監視?」
ディゼは左手首に巻いたリスト・デバイスから、特務課第七班のオフィススペースを調べる。
不審なアクセスは検出されていない。
とすると――
「ダアト、かしら」
「ご明察です」
ダアトはセフィロト機関を管理する賢者たちの総称である。
漂着者の存在を知る者はごく僅かしかいない。
特務課第七班、辺境警備隊、そしてダアトだ。
バートランド隊には箝口令が敷かれている上、ディゼたちには補佐役の人員も与えられていない。
機密保守の力の入れ様から察すると、漂着者に強い関心を抱いているらしい。
ルシエノはしゅんと項垂れた。
「不審な外部アクセスを逆探知したら、わざわざ同じ経路で『任務に励め』とメッセージを頂きました」
余計な詮索をするな、という意味だ。
ダアトは古い時代の施政者とは違う。構成員の素性は誰も知らず、権力によって利益を享受してもいない。ただ人類、ひいては地上生物の延命を図る存在である。
それを不用意に探れば、泥沼に身を沈めることとなるだろう。
「……まあ、気楽に考えましょ。いざとなったら賢者に助言を求められるってことよ。私たちの任務は彼から情報を訊き出して、それを報告書にまとめるだけ。いいわね」
念を押すディゼに、ルシエノも素直に頷く。
触らぬ神に祟りなし、であった。
しかし、祟りをもたらす者は神ばかりではない。
施設内に警報がけたたましく鳴り響く。
「どうしたの!?」
反射的にイスから立ち上がったディゼは、真っ先に青年の異常を疑った。
時折苦しげな表情を浮かべてはいるが、バイタルは安定している。
違う、彼じゃない。
「ディゼさん!」
ルシエノが手足だけでなく、唇を震わせて叫ぶ。
「一部の警備兵が暴動を起こしたとの報告が……いえ、違います! 彼らは……フォービドゥンです! 映像、出します!」
彼女のリスト・デバイスからホログラムの画面が投影される。
施設の防犯カメラは、銃火器で同士討ちする警備兵たちの姿を捉えていた。
施設へじりじりと後ずさる警備兵たちは、負傷者を優先して退避させようと戦線を維持している。
しかし、長くは持たないだろう。
もう一方の部隊が人間離れした素早い動きで遮蔽物に迫り、そこに隠れていたかつての仲間に容赦なく銃撃を浴びせる。
対フォービドゥン用の強力な火器に、防弾服はなんの役にも立たない。
硝煙と血煙が立ち込める光景に、ルシエノは口元を押さえ、肩を小刻みに震わせた。
「ひどい……一方的じゃないですか……」
「フォービドゥンの部隊行動なんて、初めて見るわね」
ディゼは呻きながらも、使命感から即断即決を下す。
「あたしが行くわ。警備兵たちは玄関まで撤退させなさい」
ルシエノも、いつまでも打ちのめされているほど人の死に慣れていないわけではない。
すぐにオペレーターとしての顔を取り戻した。
「了解。敵戦力は正面に集結しています。気をつけてくださいね、ディゼさん」
「オーケイ」
ディゼは耳に小型通信装置を着け、戦闘能力を持たない同僚に尋ねる。
「銃は持ってる?」
「は、はい!」
レッグホルスターから、シルバースライドの拳銃を引き抜く。
あくまで護身用であり、フォービドゥン相手には豆鉄砲も同然だろうが、ないよりはましだ。
「じゃ、彼をよろしく」
観察室を勇ましく飛び出したディゼは、階段を駆け上がり、正面玄関へと急ぐ。
避難シェルターとは逆方向へ走る少女を、研究員たちは呼び止めない。
彼女が特務課第七班のディゼ・エンジであることを知っていたのだ。
途中、二人の警備兵とすれ違う。
銃火器を担いでいない。
加えて、仲間が殺されているのに立ち居振る舞いから緊迫感が欠如している。
状況が分からないほど指揮系統が混乱しているのだろうか。
後になって違和感を覚えたディゼは、立ち止まって彼らを振り返った。
やはり急ぐ様子もなく、逆方向へと姿を消す。
「……ルーシー、今の二人を調べて」
『警備課の所属を確認。体温や瞳孔は安定していますけど……彼らがどうかしましたか?』
施設内に銃声が轟いた。
ディゼは「別に、なんでもないの」とかぶりを振った。
交戦中の警備隊が心配だ。
彼女は直感を頭の端に追いやって、再び最前線へと急ぐ。