[07-2]
培養槽から出たときのことを、彼は覚えていない。
隔離室で目覚めた瞬間から理解していたのは、自分の名前が四七二号だということ。そして、命令に従って敵を殲滅することの二つだけだった。
拘束台に横たえられた自分を、白い気密服姿の女性が無表情で見つめる。
「体調はどう? 四七二号」
「異常なし」
「そう」
冷たく頷いた彼女は、思い出したかのように付け加える。
「私の名前はカザネ・ミカナギよ。あなたの管理を担当するわ」
「了解」
あらかじめ脳に刷り込まれていた返事に、カザネの瞳が一瞬だけ揺れた。しかし、彼女はすぐに背を向け、四七二号の視界外へと姿を消す。
体に異常を感じたら、すぐ報告するように。
そう命じたのは、白人の青年だった。親しげな笑みを浮かべている。
「俺はチャールズ。カザネ主任の助手だ。よろしくな、四七二号」
「了解」
「……おい、そう硬くなるな」
「了解」
チャールズは溜息交じりに両手で『待て』のサインを出した。しかめ面でしばし考えると、疲れ気味にかぶりを振る。
「命令以外は、『了解』じゃなくて『分かった』だ。『よろしくな』も『硬くなるな』も命令じゃない。いいな?」
「……分かった」
「よしよし、それでいいんだよ」
チャールズは上機嫌で頷き、遠隔操作で拘束を全て解除する。それでもまだ台の上で寝たまま微動だにしない四七二号に「二度目だってのに慣れないな、こういうのは」とぼやくのだった。
「起き上がって、体を動かしてみな」
四七二号は冷たい床に素足をつけて立ち上がった。自分の姿は、長身痩躯の黒インナー姿だ。生まれたばかりで、筋肉量はさほどではない。
状態をじっくり観察した後で、チャールズに尋ねた。
「どう、動かせば?」
「ああ……ったく、じゃあ、俺の真似をしてみろ」
チャールズが運動不足を解消するための船員体操を実演してみせる。
それを見た四七二号はミラー・ニューロン――他者の行動を観察する際にも活動する神経細胞――を活発化させ、鏡写しに模倣する。
そのときから、四七二号の基礎人格はチャールズをモデルに成長し始めたのだった。
○
居住空間を兼ねた隔離室に、船員たちの笑い声が響く。
「へっへっへ、上がりだ、四七二号!」
チャールズが二枚の手札をテーブルに放り投げる。
一方、四七二号は「……むう」と唸り、手元に残されたカードを見つめる。ジョーカーが敗者を嘲笑っていた。
「何故、勝てない。いつもこうだ」
ババ抜きに参加していたカザネ班の研究員、黒人男性と東欧人女性が、難しい顔をする四七二号の黒髪をくしゃくしゃと掻き撫でた。
そのくすぐったさに、四七二号は目を細める。
「四七二号は分かりやすいんだ」
「そうそ、ババを睨んでるんだもん」
どうしてそれをもっと早くに言ってくれなかったのだろうか。
四七二号が三人を睨み回すと、彼らは「はいはい」と諦めた表情で席に着いた。
「今の目、カザネ主任にそっくり」
「まったく、『早く仕事に掛かりなさい』と聞こえてきそうだ」
カザネの態度は相変わらず冷たい。
四七二号も、薄々と気づいていた。他の船員たちに与えらえている権限が、自分にはない。彼女が荒んだ目で自分を見るのは、そういう立場の違いなのだろう、と。
その点、チャールズたちは、限られた時間の中だけでも、こうしてゲームに誘ってくれる。おかげで、彼らから思考を学ぶことができるのだ。
配られた手札を広げると、嘲笑を浮かべる道化師と目が合った。
「ははん」
チャールズがにやりと笑みを浮かべる。
「お前、引いたな?」
「……引いていない」
ジョーカーから視線を逸らして、他のカードを見つめる。同じ轍は踏まない。そう決意するのだが、上がり順は先ほどと同じ、東欧人女性、黒人男性、そして――
チャールズが四七二号の手からジョーカーを摘む。
よし!
と、思った矢先だ。
「これがババだな」
「え」
「ぷっ、くく……今度は見ないように意識しすぎなんだよ!」
「あ?」
唖然とする四七二号に対し、チャールズは冷酷だ。ジョーカーを引くと見せかけ、残った一枚をぱっと取ってしまう。
またもや、愉快そうな笑い声が密室にぐわんぐわんと反響する。
「何故だ……何故勝てない……」
四七二号が頭を抱えた、そのときだ。
ドアが横にスライドして、音が外へと逃げていく。
大股に踏み込んできた人物は、硬い表情のカザネだった。
「何をしているの!?」
和やかな場の空気が、彼女の怒声であっさりと崩れる。チャールズは慌ててカードを掻き集めて隠そうとするが、もう遅い。
「実験体との接触は避けなさいと、命じたはずよ!」
「あー、いや、主任」
チャールズがぎこちない笑みに不満を隠して、反論を試みる。
「以前はこうだったじゃないですか」
「前は前よ。いいから、早く外に出て!」
「……了解」
ばつが悪そうに隔離室から退出する間際、チャールズが四七二号に軽く目を瞑ってみせる。
それがどんな意図なのかは分からないが、四七二号も笑みを返す。
「あなた……いつから……」
カザネが掠れ声で呻く。
彼女の恐れるものを誤解した四七二号は、擁護を試みるのだった。
「彼らにゲームを教わっていた。ただそれだけだ。俺は感謝している」
「やめて」
聞きたくない、とばかりに背を向けたカザネは、再び四七二号を孤独の檻へと閉じ込めた。
ロックされたドアを睨みつける目には、確かな敵意が宿っていた。
なんなんだ、あいつは。
チャールズたちも大変だな。
四七二号は子供同然に不貞腐れて、ベッドに身を投げ出す。
○
検査室で定時の体調チェック中、室内の通信システムが呼び出された。
四七二号の心電図を測定していたカザネは、不審顔でメガネのずり落ちを直し、通話口に立つ。
この部屋では、何故か受話器を使う旧型が備えつけられていた。恐らく、被検者に話を聞かれないためだろう。
「はい。……ええ、経過は順調よ。……会議? 今から? 分かったわ、少し待ってもらってちょうだい」
しかし、寝台に横たわる四七二号の耳には、相手の声が聞こえていた。
『四七二号はどうかね。それは何より。ミカナギくん、会議室に来てもらえるかね。軍部のお偉方がいらしている』
カザネが苛立たしげに振り返り、チャールズ、他二人の研究員たちに軽く頭を下げた。
「ごめんなさい。四七二号の検査は続けてちょうだい」
そう言い残して、部屋を足早に出ていく。
微かに全身が強張っているような違和感が、彼女の一挙一動から伺えた。
「なあ、チャールズ」
「あん?」
「カザネ主任とは、どんな人物なんだ?」
質問がそんなに意外だったか、チャールズは一瞬目を細める。が、すぐにいつもの親しげな調子で答えるのだ。
「輝かしい天才、ってやつだ。少なくとも、ザトウ号に来るまではな」
「どういうことだ?」
「二十歳そこらで、生物工学の世界に名前を残している。細胞サイズの機械関連での新進気鋭ってところだった。最近は――行き詰まっているみたいだが」
「細胞サイズの機械を研究しているカザネが、何故、俺の管理を?」
チャールズは今度こそ顔をしかめて黙り込んだ。
素早く代わりを引き継いだのは、東欧人女性だった。
「ホント、主任、気ぃ張っちゃってるよね。ま、色々プレッシャー掛かっちゃって大変だからかな」
「色々……」
四七二号は推測する。たとえば、『軍部のお偉方』とか、か?
それがどんなプレッシャー、圧力になっているのかまでは分からないが、カザネの表情は確かにネガティブなものだった。
「はい、おしまい。お疲れ、四七二号」
胸に張りつけられた電極を、東欧人女性が丁寧に剥がす。
「血圧、脈拍以上なし」
黒人男性がタブレット型端末にデータを入力した後で、膨大な量の調査項目を表示させる。一般的に用いられる心理尺度だ。
「毎度面倒だろうが、頼む」
「了解」
四七二号が画面を軽く叩き始めて、十数分が経っただろうか。
再び通信コールが鳴り響いて、観察報告を作成していたチャールズがイスの上で飛び跳ねた。
黒人男性が目も合わせずに促す。
「早く出ろよ、第一助手」
「ああ、くそッ、お前のほうが近いだろ――もしもし?」
検査台に腰かけていた四七二号は、再び耳を澄ます。
受話器から漏れる声は、カザネのものだった。
『みんなで会議室に来てくれるかしら。ちょっと面倒なことになったわ』
「はあ。了か――っと、四七二号が移っちまった。今すぐに」
『お願い』
通話が一方的に切れる。
チャールズはあからさまに嫌そうな顔で、吐息をついた。
「人使いが荒いんだから、主任は……会議室に呼び出しだ」
「ホントに人使いが荒いのは、もっと上だったりして」
東欧人女性がくすくすと笑う。
研究員三人はぞろぞろ部屋を後にしようとして、最後にチャールズが振り返った。
「四七二号、ちょっと待っていてくれ」
「ああ、分かった」
「悪いな」
彼は軽く右手を振って、先に出た二人の後を追う。
一人残された四七二号は、検査台から立ち上がって部屋を見渡す。
「そういえば……」
彼らは一体、何を検査しているのだろう。訊いたことがなかった。
正確には、訊こうとしたところで誤魔化されるので、今まで知らされずじまいだったのである。
四七二号はほんの好奇心から、機器や端末を見て回る。彼がそんな行動に出ると、研究員たちは思いもしなかったのだろうか。ほとんどの電源は入ったままだ。
そして、こうも思い至らなかったのだろう。
観察対象が、いつからかこちらを観察していた、などと。
四七二号は見様見真似で端末を操作する。体調データの推移がまとめられていて、大きな変化が見て取れない、横ばいのグラフが表示されている。
別のウィンドウには、レポートを格納したデータフォルダが表示されていた。
『四七二号』
その隣に、『四七一号』というフォルダを発見する。
「……一号?」
普通に考えれば、自分よりも先に生まれた実験体の番号だ。しかし、そんな個体とは会ったことも話に聞いたこともない。
一体、どんなやつなんだ?
四七二号は、無邪気に、そのフォルダを開いた。