[07-1]
たとえ星から生物が姿を消したとしても、地上は相も変わらず朝を迎えるのだろう。
シナツは上半身を起こし、のっそりとベッドから出る。
黒のインナーに着替えると、寝癖の付いた髪をそのままにベランダへ出る。
明るみ始める空と、まだ半分眠っている街。
排水路の異臭を乗せた朝風がシナツの頬を柔らかく撫でた。
今頃、カザネ・ミカナギも同じ朝を迎えているのだろうか。
いつだったか、彼女はシナツに微笑みかけた。
『日本? いい国よ。ここと違って、四季があって。そうだ、もしシナツが外に出られるようになったら案内してあげるわ』
その言葉を思い出して、シナツも一人、口元を歪める。
「皮肉なもんだな、もうお前の故郷もないってのに、今さら……」
二百年もの悠久の中、地球の荒れ果てた姿を見て、彼女は何を想ったか。
それとも、もはや何も思わないモノへと変わり果てたのか。
「話がしたいな……」
ぽつりと呟いたシナツは、
「相手ならここにいやすぜ、あんさん」
間髪置かずに戻ってきた返事に驚いて肩を跳ね上げる。
気配を感じ取れないほど、思案の淵に落ちていたというのか。
声の主は三毛猫のミケーレだった。いつものように塀からベランダへと跳び移り、自らの小さな体を誇示するように背を伸ばした。
「さあさ、お悩み事ならあっしに話してごらんなすって」
そのフレンドリーな態度に、シナツは思わず苦笑いを漏らしてしまう。
「……お前、そうやって情報を仕入れようって魂胆だろ」
「心外な!」
と、慌てて髭を震わせるミケーレだった。表情に狼狽の色を浮かばせているところを見るに、図星だったらしい。
「あ、あっしとあんさんの仲じゃありやせんか!」
「情報屋と顧客の仲だろ?」
「同じ飯も食いやした!」
「……なら、本音を言え」
シナツの凄みに、ミケーレはしゅんと項垂れる。
「ほら、あんさん、『幽霊』をお探しだったでしょう? 何か進展でもありゃしないかなと思いやして……」
「進展、か」
猫から視線を逸らし、ぼんやりと息を吐く。
そんな物憂げな様子がミケーレには珍しく映ったらしく、首を小さく傾げるのだった。
「『幽霊』は幽霊だった」
「……と仰いますと?」
「言葉通りさ」
そう言って部屋の中に戻ると、ゼリー飲料の段ボール箱に仕舞っておいた小さなケースを取り上げる。その中に納まっているのは、彼女が着けていた眼鏡。
それをダウンジャケットの内ポケットに突っ込み、ベランダできょとんとしているミケーレに振り返る。
「ミケーレ。もしも死人と話せるなら、何を訊く」
「そりゃあ――」
彼の顔が一瞬だけ険しくなってから、すぐにいつものにやついた顔に戻る。
「天国は居心地いいか、気になりますなあ」
「……地獄には落ちないと思っているのか?」
「あっしは善行を積んでいやすんで」
きしし、と笑う猫に、シナツは呆れて肩を竦めた。
「今日は帰らない。遠出するからな」
「外に出かけられるので?」
「まだ手の付けられていない漂着物の調査にな」
「……あんさん」
ミケーレはこちらをじっと見て続ける。
「野良どものことわざでさ。『主人が迎えに現れたら、尻尾を振らずに影を見ろ』。幽霊に影はありゃしませんぜ」
「……覚えておこう」
そう言って、シナツはガラス戸を閉めた。
○
物資輸送船は目的地に品物を届けられず、今は船体の半分が大地に横たわっていた。
まるで蜂の巣のような断面である。人間は、その一つの穴よりも小さい。漂着物全体を確認するには骨の折れる作業だった。
「〈ザトウ〉に似ているな」
外骨格姿に変異したシナツは、双回転翼機〈ケストレル〉で待機するディゼ、ルシエノの両名に報告する。
山間に漂着した輸送船は汚染物質を撒き散らし、一帯を死の土地に作り変えた。木々は枯れてしまい、地面が崩れやすい。生物も寄りつかないため、寄生型ナノマシンであるフォービドゥンも生き延びれない場所だった。
特務課第七班は、セフィロト機関が未だ調査できていない漂着物を確認しに訪れたのだった。
「中に入ってみる」
『シナツさん』
ルシエノの不安そうな声だ。調査用の携帯端末を用いて、シナツの視界を共有する形でのサポートだ。
『本当に大丈夫ですか? その……汚染物質』
「問題ない。安全圏まで戻ったら電気分解後、外骨格を剥離する。で、エネルギーを補給すればいいだけだ。説明しただろ?」
『……いえ、まあ、それは聞きましたが、どうしても不安で……』
「俺も同じだ。理論上可能だと聞かされたが、実践したことはない」
『ちょ、ちょっと! すぐ戻ってください!』
慌てて出される指示に、シナツは「もう遅いさ」と耳を貸さない。
「それより――こいつはなんだ?」
と、シナツに付き従うアンドロイドを睨みつける。
屈強そうな男をモデルにした体型で、背中に刺さったケーブルが汚染土壌調査用に改造された〈ケストレル〉へと向かっている。
『漂着物調査のパートナー、〈ダビデ〉ですよ。通信の中継地点になってくれますし、万が一の場合はケーブルを辿って戻れますから』
シナツは頼りなさそうな〈ダビデ〉の人工眼球を覗き込む。
「自我はあるのか?」
『いえ? 私が動かしていますけど』
「戦闘能力は」
『もちろん備わっています! 内蔵していてですね、かぱっと折れた腕からがばっと銃が飛び出すんですよ! 技術課もいい物作りますよねえ。んふふっ』
ルシエノは自分が作ってもいないのに誇らしげだ。
しかし、それを聞いてもシナツの心を覆う雲は晴れない。
「ところで、射撃の下手なやつがコントロールを握っても的に当たるものなのか?」
『……う』
ルシエノが黙り込む後ろで、ディゼが『あははは! 言うわね、シナツ!』と大笑いである。きっと、オペレーターは顔を真っ赤にして震えているだろう。
シナツは〈ダビデ〉に向かって手招きした。
「行くぞ、ルシエノ。こいつを自分のケーブルに引っかけさせないよう、気をつけろよ」
『もうっ! それは〈ダビデ〉が勝手に避けてくれます!』
「そりゃ、安心」
お喋りはおしまいだ。
シナツは気を引き締めて、『ハチの巣』をよじ登る。
船は分厚い外装甲板に守られているものの、人が滞在するブロックは外側に位置している。
船の頭と尾を軸として、区画全体を微妙に回転させることで遠心重力を得る構造だ。
ゆえに、外から攻撃を受けた際、乗員への被害が甚大となる。
宇宙空間で船体が真っ二つになったとしたら、恐らく乗員のほとんどは外に吸い出されて――
区画通路に侵入したシナツの後ろで、思ったよりも素早く〈ダビデ〉が後を追ってくる。
なら、気を遣う必要もなさそうだ。
視界を暗視に切り替え、二百年もの間、何者も足を踏み入れていない領域へと進む。
「どう思う、ルシエノ」
『この船が〈ザトウ〉号か否か、ですか?』
「ああ。連中にとってもこの環境は過酷だ」
『防護服を着て、外に出たのかもしれません』
シナツは閉じられたドアの前に立ったが、開閉装置が生きているはずもない。仕方なく体当たりを何度か繰り返し、手当たり次第に室内を調べる。
ベッド・カプセルがあることから、恐らくここは居住区だろう。
デスクに何かしらの記録が残っているかもしれないが、それには記憶媒体を取り出して持ち帰らねばならない。〈ケストラル〉では運べない重さになる。
「ここは後続の調査隊に任せる。奥に進むぞ」
『了解です』
内部構造のマップは存在しない。探索は手探りとなるが、シナツは迷わずに船の先頭へと向かう。
しかし、ブロック間の連絡通路には隔壁が下りていて、先に進めない。
『〈ダビデ〉で焼き切ります』
「その必要はないぞ?」
『え、でも――』
挙動不審な〈ダビデ〉を傍目に、壁に取りつけられたパネルを取り外す。その中には手で回せるハンドルが備えられていた。
『……意外と親切なんですね』
「メイン・コンピュータが生きていたらロックされているさ。だが、もしもシステム停止時に乗員が閉じ込められたら大変だろ?」
ハンドルを握ったものの、ちょっとやそっとではびくともしない。
シナツの体表面に青い光がぼんやりと浮かび上がる。
思い切って力を加えると、筋肉がぎしりと軋んだ。
「そのための……手動装置……だッ!」
ごぅん、と鈍い音を立てて、ゆっくりと隔壁が上がっていく。通路側に積もっていた埃が奥へと僅かに流れ込んだ。
「汚染物質の状態はどうだ?」
『濃度は低いですね』
「……もしかしたら」
言いかけて、シナツは首を横に振った。後頭部から生やした太いケーブルを尻尾のように震わせて。
「いや、なんでもない」
『ところで、シナツさん。よく手動装置の仕組みなんて知ってましたね』
「……そりゃ、な」
シナツは背後の〈ダビデ〉に笑みを作ろうとして、自分の顔が外骨格に覆われていることを思い出す。
そして、小さな声で呟くのだった。
「本当の緊急時、まるで役に立たない装置だからだ」
この暗闇にいると、記憶の蓋が緩む。
あの船は光に満ち溢れていたのに。