[05-3]
再び、特務課第七班のオフィスにかすかな溜息が洩れた。
「はあ……」
執務席のルシエノはデーターベースから意識を浮上させ、ソファに寝そべって息をつく同僚を注意深く見つめた。
フォービドゥンの襲撃はなく、漂着物や管理外技術絡みの事件もない。珍しく平和なのだが、彼女の表情は物憂げだ。
「なんだか気が抜けちゃいますね」
「……まあね。一応、ダアトからは監視を命じられてたわけじゃない? それが研修だなんて――ちゃんとやれてるのかしら。そもそも、シナツに研修なんて必要ないわよ。セフィロト機関は能力主義でしょ、ったく……」
悪戯心でつついてみれば、蜂の巣のように苛立ちが炸裂する。
ルシエノはじっとりと同僚を睨んだ。
「ディゼさん」
「大体、元が兵士のプロトタイプっていうんだから――何?」
「私、出撃命令の話をしたつもりだったんですが」
「…………」
急に口を噤んだディゼは、ルシエノから見えないように顔を背もたれへ向けた。だが、無駄な足掻きである。耳がほんのりと赤みを帯びていた。
「そうね、暇だわ」
「ちなみにシナツさんは任務中みたいです」
「ふうん、あっそ」
興味なさげに答えたディゼは勢いよくソファから立ち上がり、執務席の横に立った。
「ルーシーは何を調べてるの?」
「……漂着物の記録です」
追及の物足りなさを覚えながらも、ルシエノは投影ディスプレイに数多のウィンドウを表示させた。
全て、過去にセフィロト機関によって確認された小型脱出ポッドの確認報告だ。
「シナツが乗っていたのと同型ね」
「ええ、暇つぶしに眺めようかと思いまして」
ルシエノは答えながら、翠玉の瞳でアイコンタクトを図る。
付き合いの長いディゼは眉をひそめる。『ダアトに聞かれたらまずいことを調べています』というメッセージを受け取ったのだ。
「……そう。視力の心配――はルーシーとは無縁だったわね。ま、ほどほどにして脳を休めなさいよ」
「そうします。でも、後もう少しだけ」
微笑んで、再び執務席の背もたれに体重を預けて脱力する。
肩を竦めてソファに戻る同僚を視界の端に、ルシエノは仮想領域へと没入した。
一瞬、足場がふっと消える浮遊感に襲われる。
落とし穴に身を投じ、気がつくと数値の森に囲まれている。見知らぬ場所へ迷い込んだ妖精。そんなおとぎ話の案内人じみた存在が、仮想世界でのルシエノ・アルファだ。
手足の感覚はない。
アバターを持たず、意識のみで森を泳ぐように飛ぶのである。
彼女が薄々と気になっていたのは、シナツの目覚めた生物隔離施設でのことだ。
ルシエノが隔離室の出入り口をロックしようとしたとき、バスケトは主人の意に背いて開放した。
いや、バスケトは疑似人格こそ持てども、意志は持たない。
彼が開放したのではなく、何者かが彼に開放させた、というほうが正確だろう。
そんなことができるのは彼らしかいない。
ダアトだ。
頭に形成されたナノマシン群の補助脳はセフィロト機関研究課の産物だ。バスケトの優先順位は、自分よりも賢者のほうが高く設定されているのである。
とすると――
次々に疑問が思い浮かぶ。
どうしてダアトはシナツが人類の敵ではないと判断したのか。
ラボから上がったポッドの調査報告書には、ルシエノが知る以上の事実は記されていない。亜空間より浮上後、地表に漂着。登録船舶名は未確認船、ザトウ号。
生存者については全く触れていない。
特務課第七班の報告書はダアトによって隠蔽されたのだ。
ならば、改竄だってありえるのではないか。
なんのために?
シナツさんを利用するため? ううん、でも、怪しい動きなんて――
「なんだろう……」
ルシエノの独り言は現実世界で声となる。
一つ一つの木を眺めても、新しい事実は発見できない。
「ならば森を見よ、ね」
今まで参照してきた漂着物データベース、観測所報告、シナツの生体情報など、とにかくありとあらゆるレイヤーを色分けした上で重ね合わせる。
ただでさえ深い森が、カラフルな密林に変貌した。
これが常人なら、膨大な情報量でまともなイメージを構築できない。情報並列処理能力を強化したフェアリアンだからこそ、密林という世界を視ることができた。
そして、上空から森を眺めた彼女は、
「あ」
見つけたのである。
様々な情報が重なり、美しい花を咲かせる一本の木を。
○
繁華街は夜にこそ活気溢れる場所だ。
宇宙船の『夜』は節約の時間だが、地上では発散の時間のようだ。
任務を終えたシナツは、料理や酒、香水の匂いが充満する狭い通りですれ違う人々を観察していた。
これは生まれながらにして成人の知能を持っていたシナツに、ザトウ号の研究員カザネ・ミカナギが提案した情操教育である。
ある程度の喜怒哀楽を獲得したのは模倣の賜物なのだ。
それゆえか、好奇心は旺盛だった。
「ううむ……」
妙に露出の多い服の女性が、スーツの男を店内へと誘う。
あのピンク色の看板を掲げた店は、一体どんなサービスを提供しているのだろう。
立ち止まって様子を窺っていると、だ。
リストデバイスのバイブレータが振動する。
着信だ。
通知はルシエノの名前を表示していた。
通りの端に寄って通話を開始する。
「シナツだ。どうした?」
『警備課の報告書、拝見しました。大活躍だったみたいですね』
「作戦の成果としては微妙なところだ。確保対象を死なせた。……何か変わったことはあったか? 顔を出そうかと思ったんだが、機密の関係で出入りできなくてな」
ルシエノは『んー……』と唸り声を上げた。
『ディゼさんがシナツさんを心配していましたよ』
「……それが変わったことなのか」
『ええ、それはもう』
こちらの反応を窺うようなルシエノの口調だ。
だが、シナツは言葉通りの意味で捉えたのだ。そんなに頼りないだろうか、と肩をしょげる。
何やら寂しそうな青年を目敏く発見した客引きの女性が、大胆に腕と腕を絡ませる。豊満な肉体を密着させれば、純朴な男はたちまち魅了されるはずだった。
「ねえ、お兄さん。今ならすぐ案内できるけど、どう?」
「すまない、結構だ」
笑顔でするりと胸の谷間からすり抜けたシナツは、人気のない路地へと入る。
『……シナツさん、今、どこですか?』
「繁華街だ。現在位置を送る」
『――わ! そ、そこ、未成年は立ち入り禁止ですよ!』
ルシエノの大声が路地によく響いた。
シナツは突然の悲鳴に、片目を細めて驚く。
「市民証には成人年齢で登録されているけどな」
『その付近のお店、どんなところかご存知なんですか!?』
彼女が何を必死になっているのか、シナツには今一つ理解できない。
金銭の無駄遣いをするな、ということか?
と、勝手にルシエノの忠告に感謝するのだった。
「バーじゃないのか」
『それだけではなくて……その……男性と女性が……』
消え入るような声である。もしも映像通話だったなら、十六歳の少女が顔を真っ赤にしてぼそぼそと呟く姿が見れただろう。
『さっきシナツさんがされたようなことをする、と言いますか……』
「性的接触か」
『……せっ、せっ!?』
狼狽のあまり、言葉が出てこないという様子だ。
ルシエノは深く息を吐き出すことで、かろうじて冷静さを取り戻す。
『いいですか、シナツさん。中には違法営業を行うお店もあります。そういうところは警備課がマークしているんですよ』
「それじゃ、迂闊に近づかないほうがいいな」
『お分かりいただけましたか』
言葉に滲み出る安堵は、決して任務に忠実な機関職員の感情だけではない。無論、複雑な私情を推し量れるシナツでもなかった。
ルシエノはもう一度だけ深呼吸を繰り返し、『ところで』と声色を変化させる。
『シナツさんにお話したいことがあるんです』
「急に畏まってどうした。重要な話か?」
『できれば直にお会いできませんか。他の誰にも聞かれたくなくて……』
内容は深刻そうだ。
シナツは一も二もなく「いいぞ」と答えた。
「今からセントラルタワーに戻る」
『あ、いえ、お疲れでしょう? それに……ここだと盗聴されるかもしれませんから』
妙だな、としかめ面を作る。
ルシエノは味方であるはずのセフィロト機関に異様な警戒心を抱いているようだ。
「……分かった。俺のスケジュールを送る。都合のいい日を教えてくれ」
『はい。ありがとうござ――』
彼女の声に、風切り音が混ざる。
気を緩めていたせいで、飛来する物体への反応が遅れた。
それでも、シナツは常人離れした反射神経の持ち主だ。持ち上げた腕で頭部を庇う。
「……ッ!」
制御変異の猶予はなかった。
鋭利な凶器がリストデバイスごと手首を貫く。
激痛に顔を歪めたシナツは、全身の血液が一気に沸騰させる。
鉄串だ。
昼間の標的、ジンプソン・リーの命を奪った、あの鉄串だ!
何者だ。
暗殺者はたった一言を問う暇を与えてくれない。
シナツが一瞬でどうにか認めたのは、女性の肉体、白のマンドリンドレス、栗色の髪から飛び出た狐耳、顔を隠す動物の仮面。
そして、暗闇に翻る両刃の剣だった。
ダウンジャケットの下に外骨格を纏い、腕で刃を受け止めようとする。
だが、寸前で鼓膜をつんと震わせる高音に気づいたシナツは、咄嗟に腕を頭上に掲げ、上半身を後ろに反らした。
上着の人工羽毛が宙に舞う。
体に触れた切っ先は展開された外骨格をも切断し、シナツの胸に浅い傷をつけた。
もう少し決断が遅ければ、斬り落とされた両腕が砂と化していただろう。
後方へ飛び退ったシナツは右手で傷を押さえ、焦りを笑みで誤魔化した。
「用心棒か? 入店を断ったからって、ここまですることはないだろ」
通りを行き交う人々は暗い細道の煌めきを気にもしない。
あるいは、剣が目に入らず、対峙する二人を物陰へ誘う男と娼婦とでも勘違いしたのかもしれなかった。
結社〈シュエロン〉の女暗殺者、ベルタ・メイは剣の構えを解かずに答える。
「その命、貰い受ける!」
ベルタが刺突の構えで最短距離を詰める。
対するシナツは左手首を貫いたままの鉄串を口に咥えて引き抜き、暗殺者にふっと息で吹き飛ばした。
使い慣れない凶器だが、それでも十分な速度はあったはずだ。
にもかかわらず、ベルタは剣の腹で弾いてみせる。
得体の知れない敵、それも肉薄するほどの速度で襲いかかる暗殺者を相手に、正面から戦うほど愚かではない。
さらに得物のリーチ差がある。外骨格をも切断する刃だ。リスクは負えない。
シナツの取った行動は、逃走だ。
背後ではベルタが黒いスパッツに包まれた太腿の脚線美を披露し、膝上に巻いたベルトから鉄串を抜き放つ。
「逃げられるとでも……ッ!」
腕の力だけで弾丸と化した針は、シナツの体に刺さることなく路地へ落ちた。
あの剣だけが特別なのか。
シナツとて、これほど手練れを振り切れるとは考えていなかった。
どこかで迎撃しなければならない。
冷静に思考を働かせながら、路地裏のさらに奥へと駆け抜けるのだった。




