[05-1]
工事中のビルに逃げ込んだシナツは、外骨格の胸部に当てた手をゆっくりと離す。
傷口はとうに塞がっていた。指の隙間に付着した大量の血液がアイデンティティを失い、砂のような微粒子となって床に落ちる。
斬られた。
あの剣、普通ではない。
いや、使い手も、そうだ。
シナツは事を有利に運べる場所を探して頭上を仰ぐ。
粉塵の飛散を防止する幕と剥き出しの鉄骨からなる吹き抜け。
どこからともなく、こつ、と軽い足音が響き渡った。
セントラルタワーを出て数分の場所にある食堂は、いつだって客で賑わっている。
任務で不規則な職員たちが「食えるときに」と訪れ、たむろい、談話するのだ。
ホールに並ぶ長テーブルの端で、シナツ・ミカナギは訝しげに呟いた。
「……一週間の研修?」
「ええ」
ルシエノ・アルファが小さく頷き、昼食のクリームスープをスプーンでつついた。
「通常の訓練過程を、シナツさんの場合は省略になったじゃないですか」
「問題があるのか」
「私たちとしては全く問題ないんですけど、他の人が……ほら……この前のプラント事件みたいな共同任務もありますから……」
彼女は少し言いにくそうにスープを掻き混ぜる。
セフィロト機関は能力主義である。だからといって、スタンドプレーが認められているわけでもない。
周りの職員からすれば、シナツは類稀なるシンギュラーではあるが信頼できるエージェントではない、という評価らしかった。
ルシエノは周囲を見渡し、声を潜めて囁いた。
「それに、ダアトからもシナツさんを試すように指示が来ているんです」
「ケテルは今さら俺の能力を疑っているのか?」
「もしかしたら、他の賢者が仰ったのかもしれませんよ」
他の――大男の賢者ケテルと華奢なマルクト以外の誰かだ。
そういえば、まだ会ったことがなかったな、とシナツは薄味の粥をスプーンで口に運んだ。
「う……」
ただでさえ仏頂面だったのが、さらなるしかめ面に変わる。
舌に乗った異物が味蕾を蹂躙し、嫌悪感を刺激する。生理的に吐き出したくなるのを無理矢理呑み込むのだ。
食材そのものはザトウ号と地上とで大きな違いはないはずだ。
土、水、品種、その他諸々が異なるだけで、どうしてこうも苦痛になるのか。
全身を硬化させるシナツに、ルシエノが心配そうに囁く。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「……ああ、あまりのうまさに感動しているところだ」
「とてもそういう風には見えないんですけど」
ルシエノは水の入ったグラスを手渡そうとして、躊躇いを見せた。
「水分補給はどうしているんですか?」
「精製水なら割と飲める。消毒剤の濃度が関係しているのかもな。少なくとも、水道水は沸騰させても無理だった」
「そうなんですか……」
と、渋々グラスを下げるルシエノだった。
「食堂やレストランの料理を食べなければならない、という法はエデナスにはありませんよ?」
「いつか俺にも食べさせてくれる。そう言ったんだ」
一瞬、シナツの目つきが険しくなった。
誰が、何を、とは言わない。
映像の奔流をシャットアウトし、青ざめた顔で口の端を吊り上げてみせる。
「悪いな、ルシエノ。誘っておいて」
「……私が同行を申し出たはずですけど」
「そうだったか? まあ、ともかく、研修の話だ。どこに出向すればいい」
「はい。警備課の――」
ルシエノが指令書の詳細を引き出すよりも早く、彼女の後ろを通った何者かが答える。
「クフィルのとこよ」
長髪の少女、ディゼ・エンジである。
テーブルに下ろしたトレイから強烈な匂いが漂って、シナツの嗅覚をつんと刺激した。
パスタ、サラダ、肉のソテー、スープ、デザート……。スレンダーな腹のどこに入るのか、という量である。
「こんなときまで任務の話なんて真面目なんだから――何?」
「それ、全部食うのか」
「しっかりカロリー摂取しとかないと、いざってときに力が使えないじゃない。余ったら余ったで、適当に発散すればいいのよ」
とはいえ、胃にも限界があるだろう。
いつぞやの『理想的な食生活』とはなんなのか、シナツは分からなくなった。
ディゼが楽しげにパスタを巻き始めたので、再び会話の相手をルシエノに定める。
「クフィルが上官か。そいつは楽しみだな」
「し、シナツさん……一応注意しておきますけど、研修ですからね。転属ではないですからね!?」
「分かっているぞ。どうした、急に」
ルシエノは「いえ」と視線を逸らした。
「クフィルさんに気に入られていたじゃないですか」
「ありがたいことだ」
「シナツさんも……そ、その、気に入ったのかなあ、って……そ、それで、そのまま警備課に移ったら寂しいなあ、って」
控えめに問われて、シナツは古いブリキ人形のように首を傾げる。
「ああ、好感は持っている。だが、それを言うならルシエノとディゼにも、そうだぞ」
シナツがとぼけ顔で言い放ったものだから、少女のぎょっとした顔が見る見るうちに赤く染まっていく。
ルシエノだけではない。
ディゼもパスタの塊を口に運ぶ直前で動きを止めた。
青年はそれと知らずに続ける。
「楽しみなのは警備課の任務だ。元々、ああいう部隊に回されるはずだったからな。体験しておいて損はない」
ルシエノは「あは」と笑みを取り繕った。
「『体験』、ですか」
「ああ。それはそれでデータになる。だろ?」
「……はい!」
ルシエノがサイドテールを揺らして頷く。
「心配があるとすれば、そっちだ。大丈夫だろうな」
「何言ってんのよ」
ディゼがサラダにフォークを突き刺し、シナツを軽く睨みつけた。
「シナツがいないときは二人でやってたんだから。万が一、潜伏者絡みで事件が起きたらすぐ呼び戻すわよ。研修だなんて言ってる場合じゃないもの」
「それもそうか」
懸念を晴らしたシナツは肩から力を抜き、粥の残りを片づけることに集中した。
警備課はセントラルタワーの外に敷地を持っている。
シンギュラーでない者で構成された部署の主力は銃火器、兵器だ。そのための格納庫や訓練場が用意されているのである。
統一された白コートの制服兵士がうろつくオフィスを、ダウンジャケット姿で進むシナツは異様に浮いていた。
単に格好の問題ではない。
繁華街の中心部でシフトする漆黒の異形を、大勢の兵士が目撃しているのだ。注目されて当然だった。
「……ここか」
受付コンピュータで指示されたオフィスを訪れたシナツは、出入り口の横に設けられたパネルに手のひらを当てた。
個人識別が認証され、ドアがスライドする。
息を浅く吸い、大股で室内に入った。
特務課よりも、大人数の待機できる広い部屋である。
来訪者が何者かは知らされていただろう。全員が立ち上がってこちらを見ている。
かといって、臆する性格のシナツではない。
むしろ背筋を伸ばして堂々と敬礼する。
「特務課第七班、シナツ・ミカナギ。しばらく、こちらで世話になる」
「来たな」
奥のソファから歩み寄ってきたのは、褐色肌に短い銀髪の女性。若くして警備課の一隊を率いるクフィル・ツヴァイクだ。
「ここでの敬礼はこうだ」
と、胸に右拳を当ててから、にっと笑った。
待機していた多くの兵士たちも同様に敬礼するが、至って和やかなムードだ。
クフィルは兵士たちに振り返って声を張り上げる。
「諸君。シナツは新人ではない。個人の能力は知っているだろう。肝に銘じた者から座ってよし」
彼らは了解、と口々に答えて、オフィスチェアを軋ませた。中には特注の椅子を使う者もいる。
クフィルは「うむ」と頷いた。
「シナツ、きみもだ。身勝手な行動は慎み、あたしの命令に従うように」
「了解した」
「とまあ、形式ばるのはここまでとして――」
クフィルは肩から力を抜いて、手のひらでシナツの背中を軽く叩いた。
「本配属を受けた後で研修に来るとは、きみの経歴は変わっている。特別なのは能力だけではないようだな」
「ああ……」
極力、思案を表面に出さないように、お決まりの答えを返す。
「エデナスに移り住んですぐ、繁華街でフォービドゥンと遭遇して――ああなった。戦えるなら、とダアトの特例措置で特務課に配属されたんだが、それが最近になって問題になったらしい」
ちょっとした歓声が兵士たちの間で起きた。
真っ先に挙手したのはたてがみを後ろで束ねた青年だ。肌は赤く、唇が黒い。
「今までどんなところに住んでいたんだ?」
「古い生物研究所だ」
次にのっそりと手を挙げたのは、巨人の男である。一目では威圧されがちだが、よく見れば温厚そうな顔つきだ。
「何を食って生き延びてきたんだぁ?」
「……冷凍保存されていた栄養パックだ。そう、それで……こっちの食事にはまだ慣れていない」
巨人は気の毒そうに片手で縦長の顔を覆う。
なおもやんややんやと質問を投げる兵士たちに、クフィルが割って入った。
「諸君は編入生に大騒ぎするサークルか? まったく、いい大人が――シナツ、きみの制服を用意してある。更衣室に案内する」
「隊長、シナツが好みだからって着替えを覗き見るつもりですか」
たてがみの青年が笑うや否や、電光石火の張り手が彼の後頭部を襲った。
「何を言っている。きみが案内するんだ、アラン」
アランと呼ばれた青年は痛みをものともせず「あいさ」と立ち上がった。
「こっちだ、シナツ」
アランはシナツを通路に連れ出してから、声を潜めて囁いた。
「これが隊長の命令に従うってことだ」
「よく訓練されているな」
二人はにやりと笑い合う。
「歓迎するよ、シナツ。近々、作戦があるかもしれない、って噂なんだ。もしかしたらダアトはその辺を踏まえて、お前をうちに寄越したのかもな」
それはどうだろうか、と思いながらも、シナツは眉をひそめた。
「作戦?」
「ああ。詳しいことは知らされてない。俺たちの中にスパイが紛れ込んでるかもしれないからな。特務課じゃ、そういう心配はないだろう?」
「ダアトの監視を受けているからな」
アランは大げさに肩を上下に揺らしてみせた。
「窮屈だなあ。あ、でも、お前のとこは若い子ばかりじゃないか。プラントで見たぞ、羨ましいやつめ」
シナツは「そうだな」と頷いた。
確かに彼女たちは若くして、能力に優れている。さすがはあらゆる作戦で優れた成果を上げる特務課の一員だ。
――と、アランとは別の意味で高い評価を抱いているのだ。
「今度紹介してくれよ」
「機会があれば」
もちろん、また共同で作戦に当たる機会、のことである。
シナツは笑みで返しながら、内心、気のいい人間が多いことに安堵を覚えた。
一週間。
短い期間になるだろうな、という予感があった。