[03-1]
シナツ・ミカナギの初任務は、繁華街で交戦したフォービドゥンがどこで宿主に寄生したのかを調べることだった。
宿主の身元は防犯カメラに映った顔からすぐに判明した。
ルキフェル因子とは無縁の製薬会社に勤める会社員である。
同僚たちによれば、勤務態度はいつもと変わらず、その日は定時に退社したという。
それからすぐ、フォービドゥンに襲われたと見るべきだろう。
「カメラがあると言っても、死角ばかりだな」
午後のビル街。
シナツは一人で、街路灯に併設された防犯カメラを見上げながら歩いていた。
ファーフードつきのダウンジャケットを纏った姿がカメラレンズに映る。
公的施設や公道の映像はリアルタイムで警備課に送信されている。
一方で、個人所有のビルに設けられたセキュリティは警備会社のシステムだ。
『それでいいんですよ、シナツさん』
右耳に装着した通信機から、ルシエノ・アルファの声が発せられる。
特務課第七班のオフィスにある彼女専用のデスクからナビゲートしているのだ。
ナノマシンが形成した通信機能――科学によって再現された超感覚的知覚――のチャンネルを機関の使用している周波数に合わせてもいいのだが、再びフォービドゥンからの接触がないとは言い切れない。
ディゼとルシエノに相談した結果、むしろ望むところだ、ということでわざわざ通信機を使っているのだった。
『市民の一挙一動を見張るのが監視カメラの設置目的ではありません。あくまで犯罪抑止のためです。これ以上は、監視社会になってしまいます』
「……何か問題でもあるのか?」
『道を歩くだけでも窮屈じゃないですか』
「何を今さら。街のシステムはダアトに管理されているんだろ。もう窮屈な社会になっているじゃないか」
『はっきり監視されていると感じたら、どうしても意識してしまうでしょう?』
なるほどと納得させる主張に、シナツは「ふうん」と小さく唸る。
「そんなものか――犠牲者が何かに気づいたのは、ここだな」
『はい』
シナツはビルとビルの谷間、車も通れないほど細い路地に入っていった。
エデナスは計画的な発展を遂げなかったようだ。
漂着物や汚染物質、フォービドゥンなどの被害が少ない土地は限られていることもあって、区画内の建物は密集している。
これは警備もしやすくするためだろう。
しかし、路地に入れば同じ街と思えないほど寂れている。
防犯カメラはおろか、街路灯でさえ設置されていない。
これでは人が消えても分からないな、とシナツは頭上を仰いだ。
「どうやってフォービドゥンの存在を感知したんだ?」
『ナノマシンは異常活動時に高熱を発しますから、赤外線センサーが有効なんです。リストデバイスにも機能は搭載されているんですよ。精度はそれなりですけど』
暗がりの奥を睨むようにして記憶を引きずり出す。
月の光も届かぬ路地裏で、シナツを嘲笑うかのように口を歪めていた男。
「……遭遇したときにはまだ、警報は鳴っていなかった。因子を感染させたのは本当にフォービドゥンだったのか? 人間やアンドロイドじゃないと断言できるのか」
『まさか! その可能性は――ないわけでは、ありませんが』
彼女は誰かに盗聴されているわけでもないのに、わざわざ声を潜めた。
『ナノマシンの活動を抑えることで、センサーに感知されずに動き回っているという可能性も考えられます。生物隔離施設の襲撃で、初めてその手を使われました』
「ああ……」
ルシエノたちと初めて会った場所を思い出して、足を止める。
隔離室は施設でも最深部のエリアにあった。その割に、ディゼと警備兵は慌てて駆けつけてきたのだった。
『あの事件でも感染源となったフォービドゥンは見つからずじまいなんです。厳重に管理されているはずのルキフェル因子が漏洩したのではないか、ということで監査が入っていますが……』
「ディゼの用事はその立ち会いか」
『あの場に居合わせましたからね。でも、空気感染は例がありません。唾液か血液感染だけなんですよ』
ルシエノ・アルファという少女はデータベースに判断の重きを置いている。
既知の問題についてはいかんなく手腕を発揮するが、未知の事態には余裕を失う。
ただし、ほとんどの事象は突然変異的に起きるものではないので、欠点が表出することは滅多にないだろう。
それだけ生物隔離施設での事件は、彼女をムキにさせる何かがあるのだろう、とシナツは自分がどう見られているかを棚に上げて考える。
「なら、外を警備する人間から変異していくのはおかしいな」
『そういうことです』
「憂鬱になる話だ」
シナツは胸の奥の淀んだ息を盛大に吐き出してぼやいた。
「ザトウ号の事故を繰り返そうとしているやつか、それとも俺のようにナノマシンを制御するやつか。どっちにしても頭が痛い」
『後者については違いますよ、シナツさん』
ルシエノは精一杯先輩ぶったような声で指摘するのだった。
『ナノマシンが制御を学んだだけで、犠牲者はプログラムに操られているんです。シナツさんは自らの意志で体をコントロールしているという点で、全く別でしょう』
「まあ、意志だなんてものは、実際のところどうだか分からないけどな――しかし、どうだ、ルシエノ。不審な物はないか?」
特殊コンタクトレンズ型ディスプレイ、CLDの機能である視界共有で、本部のルシエノに路地の映像を送信する。
その映像は彼女のサポートAI、バスケトが精密に分析するだろう。
『んん……複数の足跡が残っていますが――』
足跡? と、シナツは道の脇に寄って視線を落とす。
劣化したアスファルトの小石が散乱する地面に、明るい光で足跡が示される。
中にはシナツ自身の物も混ざっていた。
『防犯カメラから犠牲者の靴を割り出しました。これですね』
透明人間が歩いてくるかのように輝く足取りがシナツの視界に浮かび上がった。
犠牲者はある程度まで進むと、突然引き返して雑踏へと戻っていったのだ。
「……立ち止まったところにもう一人、誰かの足跡があるな」
『形状から推測するに、女性の靴ですね。あれ、でも、カタログにない……』
「感染源かもしれないな。追跡する」
路地からビルとビルの隙間へと曲がる足跡を辿ろうとしたシナツは、しかし、すぐに断念した。
「おい、消えたぞ。変異して逃げたか」
『センサーの有効範囲です』
「なら、どうやって――」
徒労感に壁に手をつけたシナツは、はっとして頭上を仰いだ。
隙間はあまりにも狭く、広げようとした腕は中途半端に折り曲げなければならない。
そんな空間でおもむろに、左右の壁を押し返しながら足を持ち上げてみる。
『……何をやっているんですか?』
「ちょっとな」
宙に浮いた状態を長く保つのは容易かった。
これで足もうまく使えば、ビルの屋上までよじ登れるだろうという確信を持つ。
「屋上のセキュリティはどうだ」
『登るつもりですか?』
「検証だ」
きっぱりと言い張ったシナツは右足を壁にかけ、次に左足をより高い位置へと運んだ。
ナノマシン体といえど、適度なトレーニングは必要だ。
日常的に刺激を与えられた細胞は活性化の効率が遥かに向上する。
逆に弛んだ細胞は、再スタートに時間がかかるのだ。
その点、シナツはザトウ号での計測がてらに体を鍛えていた。
身体能力を強化していたのは初めだけで、ひとたびコツを掴んだ彼は自身の力であっという間に登っていく。
「このくらいの高さならいけるな」
『重力にはもう慣れた感じですね』
「いや、まだ頭を押さえつけられているみたいだ」
『……あ、そうですか』
ルシエノの呆れ声だった。
顔色一つ変えずに屋上に到達したシナツは落下防止策を乗り越え、額に浮かんだ汗をダウンジャケットで拭った。
ビル風の上空を吹き抜ける風が肌寒い。
シナツは周囲を見渡し、そのまま呼吸を忘れた。
付近のビルの高さは、一階か二階の違い程度しかない。
まるでコンクリートの平野だ。やけに直線的な亀裂の走る干ばつ地帯である。
自分よりも上にあるものは色の薄い青空のみ。
「地球の空は、何故青く見えるんだ。宇宙は暗闇なんだろ?」
「そうねえ」
研究員用のフィットスーツに身を包んだカザネ・ミカナギは眼鏡の奥で穏やかな輝きを灯す。
身体検査の間、寝台に横たわるシナツの眼前にホログラム映像を投影させているのだ。
その日は様々な形の雲を浮かばせる空のスライドショーである。
正直、雲が変化する理由もシナツは知らないのだが、色のほうがずっと疑問だった。
カザネはタッチパッドの端末にペンを走らせながらさぞかし愉快そうに微笑む。
「あなたと話していると、一児の母になった気分になる」
「……俺の遺伝子提供者はカザネじゃないんだろ?」
不機嫌に問うシナツに、カザネは「その辺の情報は守秘義務があるってことで」とはぐらかした。
「光が散乱しているからよ」
「散乱? 地球じゃガラスの粉塵か何かでも散布しているのか?」
「そうじゃないわ。大気の作用ね」
シナツは手を握り締め、腕に突き刺さる何本ものチューブを揺らす。
「こんなもので、か?」
「そうよ。空気って、そこにあるだけじゃないの――」
たっぷり数秒、溜めに溜めた息を吐き出す。
今にして思えば、やけにロマンチストな科学者だった、とシナツは不思議がる。
どうして急に思い出したのだろうか。
残響を払おうとかぶりを振る。
「ルシエノ。ここからルートを作ってくれるか?」
『シナツさんがクライミングを楽しんでいる間にやっておきました』
間もなくCLDへデータを送信するルシエノに、シナツはむっと眉を顰めた。
「楽しんではいない」
『本当ですか?』
「ああ」
『声紋分析にかけたところ、シナツさんは高揚していて――』
「分かった、認めるよ!」
他者の状態を完璧に把握するオペレーターに、泥で固めた仮面は通用しないらしい。
シナツは目の前に通話相手がいないにもかかわらず、つい、右手を振ることで『降参』の意を示してしまう。
ザトウ号の船員がカザネに追及されるときの仕草を、無意識に模倣したのだった。
「なんだろうな、この気分。悪くない」
『なんとなく察しがつきますけど、教えてあげませんよ』
「別にいいさ。それより、もう少し高くても大丈夫そうだ。自分の能力を試してみたいんだが、適当な場所をピックアップしてくれないか」
『もうっ、すっかりアドレナリン中毒者じゃないですかあ!』
シナツの意識を任務に戻そうと、視界に映し出した光の道が眩しいくらいに明滅する。
ザトウ号で受けたナビゲートと同じだ。
ルシエノが導き出した、『人間』の限界で可能とする逃走ルートである。
あまりに実効的な抗議に、シナツは慌てて「了解」と答えた。
「感染源の足取りを追う」
『あ、待ってください。……七時の方向を見てもらえますか?』
指示に従うと、空には小型無人機が浮かんでいた。
大きさはカメラを搭載できる程度で、小回りの利く回転翼を用いて飛行している。
『警備課の自動巡回機、ハニービーです。既にこちらを補足しているみたいですね』
「上は上で、あれから隠れながら進まないといけないのか」
シナツはリストデバイスから樹鏃の紋章を投影し、ハニービーに提示した。
身分証と顔を照合し終えたか、無人機は不審者に対する興味を失って去っていく。
「索敵範囲は結構あるな」
『ええ。私もよく目を盗ませてもらっています』
しれっと恐ろしいことを言うルシエノだった。
『警備課には任務中であることを連絡しました。もう行って大丈夫ですよ』
「分かった」
シナツは柵を乗り越え、ビルからビルへと跳び移る。
足元を風が吹き抜ける。
転落すれば即死間違いなしの跳躍だ。
漠然と考えていた『人間によるルキフェル因子の悪用』という推測に、シナツは疑念を抱きつつあった。
セキュリティ網の綻びを抜けるのに、こうも労力をかける者がいるだろうか。
いるとしたら、精神から何かが欠如しているに違いない。
俺のように、とシナツは虚空に浮かび上がる光の道を進む。
『でも、シナツさん。このルートには限界があります。どうしても追いきれませんでしたよ』
「行くだけ行ってみるさ。目で確かめれば、何か気づくこともあるかもしれない」
『そう、ですね……』
沈んだ声のルシエノがはっとして顔を上げるような、そんな気配が通信機から伝わる。
『私も分析ツールを総動員します。じっくり行きましょう』
そうだ、一人じゃない。
同僚の存在に頼もしさを覚え、口元に笑みを浮かべる。
しかし、時間は過ぎ去るばかりで、感染源の痕跡は一つも発見できない。
エデナスの監視網が、却ってシナツを迷宮へと誘うのだった。