僕の知らない親父の背中
「旭工務店さん!」
新宿駅で、JRから京王線に乗り換える為に地下通路を歩いていた時だった。
突然、背後から声を掛けられた。
普段なら部外者の僕は、親父のやっている住宅リフォーム会社の名前で呼び掛けられても反応などしない。
ただ、ついさっき病院の待合室で同じように呼ばれたものだから、無意識の内に声のした方に振り向いて「はい」と答えていた。
京王線、小田急線、JR、3路線の乗り換えで混雑する雑踏の中で、声の主を特定するのは容易ではなかった。
包帯を巻かれた親父の姿が頭から離れない。ぼんやりしていたから、呼ばれたような気がしただけだったのだろうか・・そう思った瞬間だった。
声の印象よりも年配のご婦人が僕の腕をポンと軽くはたいた。
「お宅の事務所・・たしか南烏山だったわよね?」
彼女の探るような聞き方に、文句を言われるのでは・・と思わず身構える。
「そうですけど・・」
住宅のリフォームの場合、大抵の人が予算以上の要望を持っているものだ。
そして完成した後で、ああすれば良かったとか、こうすれば良かったと、後悔する人も少なくない。
客から出される無理難題に、電話口だというのにペコペコと頭を下げていた親父の姿が思い出された。
「社長さんの名前・・たしか、緒方さんだったわよねぇ?」
彼女は確かめるように言う。
嫌な予感がして、鳩尾の辺りにシクシクと締め付けられるような痛みを感じる。
「えぇ」
両手が塞がっているから、額の汗を拭うことが出来ない。
「よかったぁ。去年、2世帯住宅にしてもらったのよね。お陰ですごく暮らしやすくなったの。秋には家族も増える事になって・・・違うわよ!・・私じゃなくて息子の嫁」
そう言うと、彼女は僕の視線を遮るように薄手のカーディガンの前を掻き合わせて、お腹を隠すような仕草をして笑った。
「社長さんのアドバイスに従ってキッチンを別々にしたら、お互い気を遣わなくても良くなったのよねぇ。お礼に伺いたいくらいよ」
「はぁ・・」
緊張の糸が切れて、肩の力がスーッと抜けた。
僕が腑抜けに見えたのだろうか・・後ろを通った会社員が、これ見よがしにカバンをぶつけて行った。
「あら、ごめんなさいね。こんな処で呼び止めちゃって・・私、祖師谷大蔵の佐伯です。社長さんによろしくお伝え下さいな」
申し訳なさそうに会釈して、立ち去ろうと彼女は向きを変えた。
その時、彼女が何故、僕を旭工務店の人間だと断定したのかが気になった。
一流企業のエリート・・という訳にはいかないが、僕は営業部でトップセールスを誇っている。
何時何処で誰に会う事になるか分からない。
急な呼び出しにも対応出来るようにと、普段から身なりには気を配っているつもりだった。
「あの、どうして?・・」
行きかけていた彼女が足を止めて振り向く。
「えっ?・・あぁ、そのヘルメット・・社長さんも被っていたから・・」
彼女は、僕の右手を顎でしゃくった。
僕は親父の荷物を持っていた事を、すっかり忘れていた。
病院からずっと、大きく旭工務店という文字が書かれた親父のヘルメットをぶら下げて歩いていたのだ。
「旭工務店という名前は、息子さんの名前から取ったんですってね。社長さん・・嬉しそうに話していたわ」
家路を急ぐ人の波は、僕を避けて右へ左へとものすごい早さで流れていく。
親父は僕が幼稚園に上がった年に、親方の元から独立して会社を作った。
息子の成長が仕事の励みになるから・・と、僕の名を会社名にしたのだ。
小田急線の改札の方へ押し流されていく彼女の背中に向かって「親父は・・僕の親父は、崩れてきた足場の下敷きになったんです」と叫びそうになった。
もしかしたら、もう、このヘルメットを被る事は出来ないかもしれない・・そんな弱気な考えが頭をかすめる。
このヘルメットを被り、埃や木くずにまみれながら、職人達の先頭に立って汗水たらして働いていた親父の姿を思い浮かべて、嫌な思いを振り払う。
もう見えなくなってしまった彼女の背中に向かって「ありがとうございました」と呟いたら涙が溢れてきた。
気がついたら新宿駅の・・それも地下通路の真ん中で、親父のヘルメットを胸に抱きかかえて子供のように泣きじゃくっていた。
おわり




