魔女の杯
男が二人、膝まで雪に埋もれながら森の中を急ぎ足で歩いています。どちらもよく似た体格で中肉中背、さらにフードをかぶっているので遠目にはどちらがどちらか見分けがつきません。片方の男がおもむろに足を止め、フードをはねのけて耳を澄ませました。もう一方の男も立ち止まり、彼を振り向きます。
「駄目だ。近付いてきている」と先に立ち止まった男、バジルが言いました。
「とにかく、進むしかない」ともう一人の男、グルム。
狼の低い唸りのような遠吠えが聞こえます。獣達はもうすぐそこまで来ているのです。それなのに二人は辿り着く当てさえなく逃亡するしか術がありません。ここがどの辺りなのか、人の地からどのくらい離れているのかも分からないままに。
こんな絶望的な事態に追い込まれてしまうような冒険行に出たことを二人は悔やんでいました。真冬の狩りも面白かろうなどと思ったことが間違いだったのです。いつの間にやら道に迷い、矢の数も残り少なく、さらに少なからずの狼の気配を左右後ろに感じながら今しも二度目の夜が来ようとしています。
「ほかのことはさておき」とバジル、「ともかく君がいてくれて良かったよ」
「何故だ?」
「一人じゃなくて良かったってことさ」
「それはお互い様だ」とグルムは言い、彼もフードをはらいました。
気温は手がかじかむほど寒いというのに額には汗が浮いています。グルムは笑みを浮かべようとした風でしたが、それは単に顔の皮をひきつらせただけでした。
二人とも寒気に頭をさらけ出してみると、さきほどよりも二人の違いが見て取れます。どちらかといえばバジルの方が美男子です。グルムの方は荒削りな感じでバジルよりも少し背が高いようです。
やがて雲のたれ込めた空からの光がさらに弱まり、辺りが薄暗くなってきました。狼の姿が木々の間にちらちらと見えかくれするようになっています。二人は自然と駆け足ほどまでに歩調が速まりましたが、なにぶん雪が深いものですから思うようには進めず、片方が転びそうになると片方が何とか支えてやるといった具合でした。
息が切れ、足も重くなり、薄闇の中に狼の赤く光る目が目立ち始めます。彼らはついに大きな木の根元に座り込んでしまいました。するとひときわ大きな遠吠えが暗い空に響きました。狼達は疲れ切った獲物に襲いかかる相談でもしているのでしょう。二人は顔を見合わせ、絶望の溜息をもらしました。話す言葉など一言たりとも出てきません。どう考えたって生き延びる見込みなどないのです。獣達の爛々と光る目は増える一方なのですから。
「駄目だ駄目だ!」とのしかかる空気をはねのけるようにグルムが立ち上がりました。
そして木の幹に手をこすりつけ、とっかかりを探します。
「せめてこの上に登ろう」
グルムのしっかりとした言葉にバジルは彼を見上げ、頷きました。
その大木は天に向かってそそり立ち、いっぱいに枝を広げ、針と雪とで天を覆っていました。太さは大人が十人で囲んでもまわりきれるかどうかというほどです。けれど身の軽いバジルでさえ登るのに役立つようなくぼみも出っ張りもあるようには思えません。グルムは目を皿のようにして裏側の方へと廻りながら幹を調べていきます。バジルは辺りは見回しました。狼の包囲網は確実にせばまっています。他のもっと登りやすそうな木へと走っていけるだろうか、それとも残った少ない矢で威嚇しながら網の薄いところを突破できるのではないだろうか、俺の足ならどうにか‥‥、と彼は考えました。それは一か八かの賭けです。しかし、もし彼にできたとしてもグルムはついてこれるでしょうか。いえ、グルムはそんなに素早くはありません。自分一人でさえ危ないというのに、彼を助けながらなど無理に決まっています。
「バジル、バジル! 早く来い!」
グルムの怒鳴り声が聞こえます。バジルは急いで木の裏側へと廻りました。裏側は小高い崖になって落ち込んでおり、木の根が逞しく下の方へと伸びています。そしてその上に乗っているグルムの指し示す先にはぽっかりと空いた木のうろがありました。
バジルの胸の中に希望が湧きました。しかしそれも束の間のこと。木のうろはたいして大きくなく、二人も入るのはとても無理だと気付いたのです。
ほんの一瞬の間、嫌な空気が流れました。けれどすぐに、
「早く入れ」とグルムが言いました。「ここで篭城するしかなかろう」
バジルはうろの傍らにひざを突き、ざっと中を調べました。崖の際にあるおかげで雪には埋もれておらず、少々吹き込んではいますが後は湿った木の葉や枯れ枝ばかりです。それらをかき出せばあるいは二人とも入れるかもしれませんが、今はそんな時間はありません。
「早く入れ!」と再びグルムが言いました。
「君こそ入らなければならない。君が見つけたんだ」とバジル。
「嬉しいが、バジル、討論する時間はないんだ」
「だったらさっさと入るんだ。君は生きなければいけない人だ」
「お前を見捨てろと言うのか? 俺に卑怯者になれと? そんなことができるか!」
「君の帰りを待っている人がいるじゃないか。それに誰が家督を継ぐんだ。俺とは立場が違うだろう」
二人とも息を呑み、にらみ合いました。次に口を開いたのはバジルです。
「合理的に考えよう。俺と君と、どちらが外に残って生き残る確率が高い? 俺は自信がある。走りにかけては君に負けたことはないだろう?」
「しかし力は俺の方がある」とグルム。
「沢山の狼を前にして人一人の力がなんになる? 今必要なのは腕ではなく足だ」
「狼の足に人の足がかなうものか」
「直線を走るわけじゃない。俺は逃げるのは得意なんだ。頼むから君が入ってくれ。でなければ俺一人で帰っても御曹司を殺した罪を着せられるだけだ」
それでようやくグルムは心を決めました。
「分かった。恩に着る。そのかわり絶対に逃げ切ってくれ」
バジルは頷きます。グルムはさらに近付く狼達に目をやり、
「俺が弓で援護する。その間に逃げろ」と言うなり、狼達に向かって矢を放ちました。
バジルはすかさず飛び出し、飛んでくる矢尻に怯んで壊れた狼の輪を突っ切って走っていきました。
去って行く友の姿が消えるのを確かめる余裕さえなく、グルムは急いで木のうろに体を押し込みました。そして持っていた荷物や太い木の枝で狭い出入り穴をふさぎます。何匹かの狼がやってきて木や革袋に牙を立て引っ張るのをなんとか奪われないよう押さえ続けました。一匹だけ、もう少しで穴の中へ入ってきそうになった奴を思いきり木の枝で殴りつけると、そいつはずるずると崖下の方へとずり落ちていきました。やがて外は静かになり、狼達はバジルを追いかけていったのか、遠吠えはどんどんと遠ざかっていったのでした。
すっかり日が落ちると、空の雲はずいぶんと減ってしまったようで月の光が射してきました。ぼんやりと明るくはありますが、グルムは外をのぞくことさえ恐ろしく、ただただ朝が来るまで寒さにがたがたと震えながらうろの中で縮こまっていました。彼は一睡もできず、暖かいはずの故郷の暖炉や家族や恋人のことを考えます。
「帰らなければならん。生きなければならん」
彼は自分でも意識せずにそんなことを口走ります。そして、バジルのことに思いを巡らしてこう呟きました。
「俺は‥‥、結局は彼がこうすることを初めから分かっていたんだ。初めから、分かっていたんだ‥‥」
朝が来ました。グルムはおそるおそる穴から顔を出します。狼の気配など微塵もなく、危険はないようです。空の様子も雲は多けれど明るく、当分雪が降る心配はしなくとも良さそうです。彼は木のうろから這い出ると地面を見回しました。狼の足跡が一面に散らばっています。
彼は途方に暮れました。一夜を生き延びたとはいえ、未だ行くべき方向も分からず空腹に腹が鳴り、しかも唯一の連れであったバジルももういません。彼の無事を祈るばかりでした。けれどもここに立ち止まっているだけでは何も起こらないので、とにかくバジルの後を追おうと彼は決めました。バジルはきっと狼達を振り切れたに違いない。そして、もしかしたら何か困難な危機に陥っていて、俺の助けを必要としているかもしれないではないか、と彼は考えたのでした。
バジルの足跡は初めはまっすぐ、しばらくするとジグザグに木の間を縫いながら続いていました。狼の足跡は数え切れません。いつ真っ赤な血が白い雪を染めているのが目に入るかと思うと息が詰まりました。けれどバジルは上手くあしらったようで足跡は長く長く続いており、バジルの身の軽さに改めてグルムは感心しました。もしグルムであったら少なくともこんなに遠くまでは逃げられなかったでしょうから。
高い崖の頂に辿り着きました。そこでバジルの足跡はぷつりと途切れています。崖下をのぞき込むと、途中に木が生えていたり岩肌が突き出ていたりで底の方が良く見えません。どう考えてもここで追いつめられ足を滑らせたとしか思えません。グルムは悲しくなって頭を垂れました。しばらくそうやってそこに座り込んでいましたが、彼は再び立ち上がりました。
『いや、まだだ』と彼は考えます。『まだ死んだと決まったわけじゃない。諦めるものか』
彼は崖下へと降りる道を探しました。けれど途中まで降りては険しすぎてそれ以上降りられずにまた登り、また降りられる所を探しては黙々と歩き続けました。結局バジルの足跡が途切れた所の真下と思われる場所に辿り着いたのは日も落ちようとしている頃でした。
グルムはバジルの手がかりはないかと必死に探しました。足跡はないか、木に何かひっかかってはいないか、助けを呼ぶ声が聞こえはしないか‥‥。そして彼はやっと見つけました。それはすでに冷たくなって雪に埋まっていたバジルの体です。
彼は涙を流しました。バジルは俺を助けて死んだのだと思うと、とても悲しかったのです。グルムは友の体を掘り起こし、雪の上に横たわらせました。バジルの体には大きな傷はないようです。おそらく崖から落ちた時には下にあった柔らかな雪に受けとめられたのでしょう。さすがに狼も追いかけては来れなかったとみえます。けれど、雪の中での寒い夜は彼の体を冷やしつくし、命を奪ってしまったのです。
決定的な絶望感がグルムを襲いました。これから一人っきりでどうしたらよいというのでしょうか。バジルの顔をじっと見つめます。バジルの言葉を思い出します。
「そうだ」とグルム。「俺は生きなきゃならん」
冷たい体を背負います。バジルをどこへ連れて行くかなど分かろうはずがありません。とにかく置いては行けなかったのです。日は沈み、また凍える夜がやってきました。明日の朝にはもう自分もバジルと同じく冷たくなって倒れているかもしれません。このまま雪の中にいればそれは疑う余地もないことです。
いくらも歩かないうちにグルムは森の奥の方に光るものがあることに気付きました。どうやら家の灯のようです。グルムはそれを見て急ぎました。もしかしたら助かるかもしれない。そんな思いを胸にバジルを引きずりながら。
それは確かに家でした。小さくはあっても石造りの丈夫そうな、しかし枯れた蔦の絡まる不気味な雰囲気を持った建物でした。遠くからも見えた窓からの光は踊るように揺らめいており、時折赤い閃光が走ります。煙突からは月の光に照らされて、淡く紫がかった煙がもくもくと空へ立ち昇っていました。
グルムは背筋に鳥肌の立つような悪寒が走りましたが、それを押し殺して扉の前に立ち、強く戸を叩きます。けれど返事はありません。彼はもう一度叩きました。
「誰かおらんか。道に迷って困っておるのだ。一晩の宿と少しの食べ物を恵んでくださらんか」
彼は叩き続けました。
「そんなに叩くんじゃない、戸が壊れるわ」と中から女のしゃがれ声がしました。
扉が少し開いて若い女性がこちらをのぞきます。その目には疑わしそうな色がありましたが、グルムをじろりとねめつけるとゆっくりと戸を開きました。
動かない死体を担いで歩み入る男を見ながら、
「どうやらあんたが殺したんじゃなさそうだね」と彼女は薄笑いを浮かべます。
グルムの体にぞくりとまた悪寒が走りました。彼女の姿は愛らしく年端もゆかぬ子供のようですが、しわがれた声だけが実に大人びて物腰は妖艶な雰囲気さえ漂わせます。部屋の中はごく普通の民家のものと同じ、質素な家具と暖炉があるだけでした。
「彼をどこかに寝かせたいのだが、ベッドは‥‥」
「お断りだね」と少女、「あたしの寝床に死人なんか寝かせられるかい」
彼女は検分でもするかのようにグルムを、そしてバジルをじろじろと見て、
「しかたないね。そうやってずっと担いでるわけにもいかんだろう。こっちへおいで」
扉を開け隣の部屋へ行くと、彼女は石の床を手に持った杖で何度か叩きました。するとどうでしょう。堅いはずの床石は消え、地下への階段が現れたのです。少女はさっさと降りて行き、振り返ってグルムに手招きをします。
「怖けりゃ無理に来いとは言わんよ。そこにずっと突っ立ってるんだね」
彼女は無垢な笑みを浮かべて暗闇に消えていきました。
少女の持つ妖気にすっかり気圧されていたグルムは、震え始める手足に力を込めて階段へと踏み出しました。ひんやりとした風を感じます。暗いと思っていた地下室の中にも蝋燭の火は燃えており、鍋のかかったかまどの火が赤や緑に揺らめき、立ち昇った煙は天井の穴へと吸い込まれています。目が慣れるともっと不気味なものが見えてきました。ひからびたトカゲや蛙の死骸、ビンいっぱいにつまった蜂と蜂蜜、垂れ下がる長い髪の毛と皮のようなもの、血の色をした液体の入った瓶、本物の人間を縮ませたような皺くちゃの人形、そして時折かすかな悲鳴をあげる見たこともないような奇妙な植物。つんと鼻をつく匂いにごくりとつばを飲み込みます。
「君は‥‥、もしや‥‥」
「そうさ、魔女だよ」
そう言って少女は忍び笑いをもらしました。それはグルムの癪に障りました。彼は大股に歩み、少女のそばに立ちます。
「そこの台に寝かしておくれ」と彼女は黒曜石の大きな台を指しました。
それはまるで生け贄を捧げるどこかの邪教の祭壇のように見えます。グルムはここにバジルを置いてしまったら、彼の体が何か忌まわしい企みに利用されてしまうのではないかと恐れました。けれど彼はそこにバジルを横たわらせました。とにかくここは彼女に従うしかないと思えたのです。
少女はバジルの顔をじっとのぞき込みました。そして溜息をつきます。それから戸棚を開け小さな瓶から得体の知れぬ粉をつまみ、バジルの乗っている台の四隅に手を這わせると小さく素早い仕草をして、粉をバジルの体に振りかけたのでした。
「何をした?」とグルム。
「腐らないようにしただけだよ。しばらくの間ね」
彼女はまたバジルをじっと見つめます。グルムには死体を値踏みしているように思えました。
「俺の名前はグルム。お嬢さん、君の名は?」
「あんた、魔女に名前を聞く気かい? 名前ってのはね、力を持つ言葉なんだよ。そう簡単には教えられんね。‥‥けれど、呼び名くらいはいいだろう。ベアトリスと呼んでおくれ」
彼女はまた薄笑いを浮かべました。
「お嬢さんかい。嬉しいねえ。あたしはあんたなんかよりもずっと歳をとっているんだ。もっとも今は身も心もこの通り若いがね。あんまり齢を重ねちまうと体は動かなくなるし、わくわくするようなことも好奇心も失せちまうからつまらないんだよ」
「すると、若返ったということか?」とグルムは息を呑みます。
ベアトリスは声を立ててけたたましく笑いました。
「あんたのその顔! この世のものでない魔物でも見たように青ざめているよ! おかしくってしょうがないさね」
「馬鹿にするな! 俺は冗談につきあう気分じゃないんだ」とグルムは怒鳴りました。
「おやおや、お気を悪くなされたようだね。ずいぶん誇り高いお方と見える。そんなに怒らないでおくれ、あたしはこういう質でね」
少女はかまどの前に行き鍋をのぞき込むと、近くにあった乾かした植物の根を粉々にして鍋の中に放りました。一瞬赤い光が強く部屋を照らします。グルムは呼吸を整え、ベアトリスに歩み寄りました。
「もし君が本当に若返ることが出来たのなら、命を甦らす術も知っているのではないか? 知っているのなら、どうかお願いだ、彼を、バジルを甦らせてやってはくれないか。頼む、そのためには俺はなんでもする。どんな苦労も犠牲も厭いはしない」
ベアトリスは振り返りました。真剣な表情です。グルムをじっと見つめ、そして言いました。
「疲れただろう。とりあえず上に行って何か食べたらいい。話も聞こう。全てはそれからだよ」
彼女の答えをじれったく感じながらも、グルムは相当にお腹が空いていましたので、申し出に従い上の部屋へと戻ることにしたのでした。
食事は質素なものではありましたが量は十分でした。もっとも、中には何の材料で作られたのかよく分からない不気味な料理もあったのですが。グルムは生き返った心地がしました。もしかしたらこの魔女もあながち悪い女ではないのかもしれないとまで思えたのです。彼は家を出た時から、狼に追われバジルが命を落としたこと、そしてこの家へ辿り着いたことまで彼女に話して聞かせました。
「なるほどね」とベアトリス、「大体は分かったわ」
グルムは椅子に座ったままテーブルに肘を突いてうなだれています。
「あんたは友達より自分を選んだんだね」と彼女は言いました。
「仕方がなかったんだ」とグルム。
愛らしい魔女の瞳は軽蔑の色を浮かべて彼を見おろしました。グルム自身も、いくら弁明してもそれが言い訳であることは分かっていました。
「まあ、いいよ。とにかく、あんたは彼を生き返らせたいんだね?」
グルムは頷きました。
「そのためにはどんな犠牲も厭わないと言った。それは間違いじゃないね?」
グルムは強く頷きました。
「報酬はいつか払ってもらうよ。あんたからか、あんたの友達からか。あんまり安いとは思わないでおくれね」
ベアトリスは少々考え込みました。そしてまた口を開きます。
「復活は若返りとはわけが違うんだよ。若返りは命を叩き直すことだけど、復活ってのは命がなくなったところへまた作り直さなきゃならないってことだからね。
簡潔に言えば、いったん消えてしまった命を取り戻すことは出来ない。新しい命をあんたの友達の中に作ることもできないのさ。別な意味の新しい命ならあたしとあんたで作ることはできるけどね」
少女は妖艶に笑いました。グルムはいらだって言いました。
「ではやはりバジルを甦らせることはできないのか?」
「できないでもない」
「どうやって?」
「それは、彼の体の中に命を吹き込んでやればいい。つまり、そこにある命をね」と言ってベアトリスはグルムの胸を指さしたのでした。
息が詰まります。グルムは自分の胸に手を当てました。まるで魔女に命を掴み出されるのを恐れるように。
「俺の命‥‥」
「そう、あんたの命。友達を生き返らせるには人間の命が一つ要るんだよ」
「そうすると、俺はどうなる?」
「馬鹿だね、身代わりになって死んじまうに決まってるじゃないか」
グルムは黙りこくってしまいました。
「やりたくなきゃそれだって構わないんだよ。あたしには関係ないからね。でもさ、あんたの友達はあんたのために命を捨てることができたんだ。あんたは彼のために同じことができないっていうことにはなるね。しばらく考えるがいいさ。準備ができるまで少し時間がかかるから」
そう言ってベアトリスは地下へと降りていき、部屋にはグルム一人が取り残されたのでした。
魔女が彼を呼ぶまで、一日の時間がかかりました。グルムは疲れた体をベッドに横たえて休ませましたが、どうもうとうととするだけで寝付けません。やっと寝入ったかと思うと狼と魔女とバジルの姿が交錯する悪い夢を見て目が覚めてしまうのです。彼は何度も地下へ降りて行こうと思いました。そして、俺の命を使ってくれ、と宣言したいと思いました。あるいは、俺には帰るべき家があるのだ、と理解を求めようと思いました。けれど結局、どちらの決心も付かずじまいだったのです。
やがてベアトリスが戸口に現れ、青白い顔にかすかな笑みを浮かべながら彼を差し招きました。グルムは言われるままに従い地下へと降りて行きます。そこには甘酸っぱい匂いが立ちこめていました。横たわるバジルの遺体の前に立ち、それを見おろします。血の気のない肌はすでに堅く、人形のようです。
二つの杯が彼の前に差し出されました。ベアトリスはそれを彼の前に置き、そして無表情に抑揚のない声でこう言いました。
「一応、二つの薬を用意したよ。この右のはあんたの友達、バジルの髪の毛を一本ちょうだいして煮込んだもの、命を移し換える薬。これをあんたが飲めばあんたの命は体から離れてあっちへ入り、バジルはたちまち生き返る。左の杯に入っているのは空を飛べるようになる薬だよ。ものすごい速さで自由自在にね。つまりこれを飲めば、あっと言う間に家へと帰れるってわけさ。
さあ、どちらを飲むんだね」
グルムは迷いました。そして、右の杯に手を伸ばします。けれど彼はそれを持ったまま、ぴくりとも動かなくなってしまいました。額には冷や汗が浮かびます。
「どうしたの、早く飲んだら?」とベアトリスが静かに言いました。
グルムはバジルの躯に目をやりました。それは彼が杯に口をつけるのを今か今かと待っているように見えます。再び杯に目を戻し、息を飲みました。彼はゆっくりとそれをテーブルの上に戻します。
「俺には‥‥、俺には責任があるんだ。家族に対しても、他の何人もの人に対してもだ」
「あたしに言い訳をする必要はないよ」とベアトリス。
グルムは小さく頷き、今度は左の杯に手を伸ばしました。深呼吸をしながらそれを唇へと運びます。
「それは空を飛ぶ薬だよ。バジルは生き返らないがそれでいいかい?」
魔女の言葉にグルムは目を閉じ、
「分かっている。バジルはもう死んだんだ。彼は過去の人になったんだ」
そして、一気に中の液体を飲み干しました。
すぐには効果は現れませんでした。薬が失敗作だったのではないかと疑ったくらいです。けれど、一時の間をおいた後、彼の心臓が激しく脈打ち始めました。グルムは息苦しさに胸を押さえ、その場に倒れ込んでしまいます。ベアトリスはそんな彼を無表情に見おろして言いました。
「あんたの飲んだのは命の薬。良かったね、これでバジルは生き返れるよ」
グルムは床の上で悶え苦しみ、そしてついに白目をむいて全く動かなくなってしまいました。黒曜石の台の上に乗ったバジルの体にはほんのりと赤みが差し、やがて確かな鼓動が彼の全身に血液を送り込み始めます。胸は上下にゆっくりと動き、寝息を立て始めたのでした。
長い眠りから覚め、最初に目に入ったものは美しいけれども見知らぬ女性の顔でした。体中に感じるだるさに顔をしかめ、ベッドの上でバジルは起きあがります。
「ここは‥‥?」
「あたしの家に決まってるじゃないか。他のどこだって言うんだい」と少女が答えます。
「君が俺を助けてくれたのか。俺はもう死ぬものと思っていたのだが」
「ま、そういうことになるさね。あたしはベアトリス、魔女だよ。魔女はこんな辺鄙な所に住むものと相場が決まっているもんでね」
「俺は‥‥」
「バジルだろ」とベアトリスが遮りました。「あんたの友達から聞いてるよ」
バジルは驚き、ベッドの上から飛び出そうとしました。けれどなかなか体が思うように動きません。
「グルムがいるのか? そうか、彼も助かったのか。どこにいるんだ?」
「動くんじゃないよ」と言って少女はバジルの頭を叱りつけるように叩きました。「体がまだ慣れてない。ほら、これをお飲み」
細く白い手で差し出されたどろっとしたスープの入ったグラスを受け取り、バジルは一口すすります。
ベアトリスは今までのいきさつを語り始めました。グルムがバジルを探し、そしてこの家まで辿り着いたこと、バジルを生き返らせてくれと頼まれたこと、そしてグルムに選択を迫ったこと。
「彼はね、結局自分が無事に家に帰る方を選んだんだよ。あんたを捨ててね。けれどあたしは杯の中の薬を逆にしてやったのさ。だから彼は空を飛ぶ薬の代わりにあんたを生き返らす命の薬を飲んじまったというわけ」
「何てことを!」とバジルは叫びました。「グルムはどこだ。俺をグルムの所に連れていってくれ。お願いだ、連れていってくれ!」
ベアトリスは頷き、バジルに手を貸して立たせると地下室へと連れていきました。
薄暗い地下室の様子に戸惑いながら、バジルは部屋の奥の台の上に、前にはバジルが横たわっていた黒曜石の台の上に、今はグルムが音もなく眠っているのを見ました。
「何てことをしてくれたんだ、君は。何てことを‥‥」
彼はそこにくずおれ、涙を流しました。
「どうしてグルムを家へ帰らせてくれなかった? どうして俺を助けたりなんかしたんだ?」
「それは、あんたの方が価値があると思ったからだよ」とベアトリス。「なんだかんだと言い訳を作りながら、結局は自分の利益を優先してしまうような男より、本当に友達のために命を賭けられるあんたが生きていた方がいいと思ったのさ。
あたしだってグルムがそれなりの男だったならこんなことせずに家へ帰らせたさ。もし彼があんたのために命を捨てる覚悟で薬を飲んだのなら、今頃はこんな冷たい石の上じゃなく家の自分のベッドの上でいびきをかいていただろうに」
バジルは立ち上がり、魔女に向かいました。拳は堅く握られ、瞳は激しくいきり立っています。
「君は彼を勘違いしている。それは、彼の強さなんだ。彼は諦めない、生きようとする。それが彼の強さなんだよ」
「はっ、友達を犠牲にしてかい? そんな強さが何になるね。だったら強い奴なんていない方がいいさね」
ベアトリスは鼻で笑います。
「彼には俺達の領地の未来がかかっていた。彼には可愛い恋人だっていた。俺が帰ったとしても大したことはできないが、彼は帰ってそこを治めなければならなかったんだ」
「そんなことを言うんじゃないよ、バジル。あんただって何でもできるさ。何かのために命を捨てようと思える者には何にも怖いものなんてない。それがあんたの強さなんじゃないのかい?」
バジルは台に腰掛け、うなだれました。
「そんなこと、俺には分からん。しかし俺は狼に追われて崖から落ちたとき、もう駄目だと思った。体のあちこちは痛かったが、きっと動けないことはなかった。けれども、もう動こうとする気力がなかったんだ。俺の中にあるのは絶望ばかりで、もうどうせ助かりっこないのだから動くだけ無駄だと思ってしまったんだ。そして俺は眠った。冷たい雪の中で‥‥。もう少し頑張ればこの小屋に辿り着けたのかもしれないのに。そうすればグルムだってこんなことにはならずに済んだろうに」
ベアトリスは彼のそばに近寄り、優しく肩を抱きました。
「そんな風に考えることないよ。さっきも言ったろう。あたしはあんたの方がよほど価値のある人間だと思うよ」
それを聞いたバジルは彼女の手を払いのけます。まるで汚いものをはねのけるように。
「俺はグルムが価値のある人間だと思う。彼が俺のために死のうとしなかったからと言って俺のことを思いやってくれていないということではないんだ。むしろ、俺のことを思ってくれたからこそ、彼は生きようとしたんだ。君はどうして分かってくれなかった? どうして彼を死なせてしまった?
俺は、たとえ彼が俺の犠牲になってくれなくても、俺は彼が好きだった」
ベアトリスは、非常に珍しいことなのですが、胸を締め付けられる思いがしました。
「でも、もうしてしまったことじゃないか」と呟きます。
溜息をついたバジルはしばし黙り込んでいました。やがてまた魔女に面と向かうとこう言いました。
「頼む、グルムに飲ませた薬を俺にくれ。何も礼をすることはできん。頼むしかない。だが、お願いだ」
ベアトリスはかまどへ行き、火をつけました。赤い光が部屋中を照らします。
「馬鹿言うんじゃないよ。あれはそう簡単にできる薬じゃないんだよ。材料が足りないんだから」
「どんな材料だ? 俺が手に入れられる物ならどうにかして手に入れるから」
少女は鍋に水とオイルを注ぎ、かき混ぜ始めました。きゃしゃな後ろ姿は頼りなく見えます。
「マンドラゴラの根だよ。これはそういつもいつも手に入る物じゃない」
「どうすれば手に入る?」
「満月の夜なら。あと十日もしないとね」
「そのくらい待てる」
彼女は鍋に蓋をして振り返りました。不機嫌そうに眉根を寄せています。立ち昇り始めた煙が中を漂いながら天井穴から逃げて行きました。バジルは彼女をじっと見つめ、真剣な面持ちです。
「で、できた後はあんたが飲むのかい? それでまたあんたは死んで、グルムが生き返るのかい? それじゃ、あたしのしたことは何だったんだよ。馬鹿みたいじゃないか」
「だから、そこをこうやって頼んでいるのじゃないか。俺はグルムを無事に家へ帰らせなけりゃ、みんなに合わす顔がない」
「そんなこと、わたしの知ったことではないよ。勝手にするんだね」
そう言うとベアトリスは早足で階段を上り、部屋を出ていってしまいました。
彼女は寝室に戻り、ベッドに身を投げ出していました。寝ていたわけではありません。かつてないほどにうずき始めた胸に戸惑い、窓の外で荒れる吹雪の灰色のうねりを見つめていたのです。
「若返りなんかしなければ良かった」と彼女は呟きました。
その時です。地下室からガラスの割れる音が聞こえました。ベアトリスは飛び起き、急いで階段を下りました。バジルが戸棚を開け、そこにあった多くのビンの一つを掴んでいます。床にはすでにガラスの破片が飛び散り、白く煙る液体で濡れていました。
「何やってるの!」とベアトリスは叫びます。
バジルは振り向き、手に持ったビンを頭上にかかげました。
「やめとくれ! あんたには分からんかもしれんが、そこにあるのはどれも貴重な物ばかりなんだよ。お願いだからやめとくれよ」
「頼む、薬を作ってくれ」とバジル。
「あんた、正気かい? せっかく生き返れたというのに‥‥」
「いいんだ、作るのか、作らないのか、どっちなんだ」
彼はビンを投げました。ビンは床に落ちて割れ、茶色の粉末が床に散らばります。ベアトリスは悲鳴をあげました。粉末は床に流れだした液体と混じり合い、ひどい匂いのする緑色の煙を発し始めます。
バジルはまた一本ビンを取り出しました。
「分かった! 分かった、作る」とベアトリス。
「本当か、嘘じゃないな」とバジル。
「本当さ。我が闇の主の名にかけて誓っても良い。薬を作ってやるから、もうこれ以上壊さないでおくれ」
バジルは頷き、ビンを元に戻しました。そして周りを気遣わしげに見回した後、階段へと歩きます。魔女のそばで立ち止まり、
「済まない」と言うとすぐにまた歩き出し、上へと上がっていきました。
ベアトリスは床の後始末を始め、いつしか自分の頬を涙が伝っていることに気付くのでした。
それから十日の間、彼女にとってもバジルにとっても予想もしなかったほどの辛い日々が続きました。バジルは小部屋に閉じこもりがちでほとんど何も食べず、次第にやつれていくのがベアトリスには分かりました。彼は時折嗚咽をあげるように呟くのです。父や母や故郷の人々の名を、そして楽しかった過去の思い出を。けれど、未来の話は少しも口にしようとはしないのでした。ベアトリスはそんな彼の呟きを耳にする度に心を痛めるのでした。そして彼にこう言うのです。
「そんなにしてまで、どうしてあんたは死ななきゃならないんだい? 何にも得なことはないじゃないか。やめちまいなよ。薬のことなんか忘れちまって、ここであたしと一緒にずっと暮らそう。あたしがあんたを幸せにしてあげる。永遠におもしろおかしくのんびりと暮らそう。あんたがそう望みさえすればあたしはそうするよ」
バジルは姿を見られたくないのか、扉を堅く閉めて戸の向こうから答えるのでした。
「やめてくれ、ベアトリス。ただでさえ、グルムを放って置いて自分だけ生きながらえたいと思ってしまうんだ。俺は、弱い人間なんだよ。そんな誘惑に負けてしまっても弱い人間になってしまうし、自分を殺すような道しか選べない今のままでも十分弱いことなんだ。やはり、生き物は生きなけりゃならん。生きることこそ、強いことなのだから。それでも俺は俺よりもグルムに生きて欲しいんだ。それは君と出会うずっと以前から決まっていたことなんだ」
この人は本気なのだ、とベアトリスは考えます。この人の強い意志は変えようがない。もうてこでも動かない。もう、薬を作って彼が再び、今度は永遠の眠りにつくのを見届けるしか術がない、と。バジルがこの世から消えてしまう、こんなに生きたがっているバジルが自分の望みを捨ててまでグルムを助けようとしている。ベアトリスはまるで自分のことのように彼の苦しみが分かるのでした。
「それならば、あたしは薬を作ろう。命を移す秘薬を。そしてそれを有効に使うんだ。それが彼のためになるのだから」
彼女はそう決心したのでした。
満月の夜、ベアトリスは森へ行き、月光に照らされて花を咲かせたマンドラゴラを抜いてきました。そしてすぐに地下室へ行き、薬の調合を済ませました。
黒曜石の台の上にはグルムの体が横たわっています。腐敗防止の処置を施していたため死んだときのまま何も変わっていません。バジルは冷たい友の体をじっと見おろしていました。
「それじゃ、準備はいいかい?」
ベアトリスは振り向き、彼に二つの杯を差し出しました。
「何のまねだ?」とバジル。
ベアトリスは問いには答えず、説明を始めます。
「この右のが命の薬。これを飲めばあんたの命は体から離れ、グルムの中に入って彼は生き返る。左のやつは空を飛ぶ薬だ。あっと言う間にあんたは家へ帰れるだろう。さあ、どちらを飲む?」
バジルは少女の顔を疑わしげにのぞきます。ベアトリスはじっと彼を見上げました。まるでそうすれば心が伝わるとでもいうように。けれどやがて、
「君を信用するしかなさそうだ」と言い、彼は迷わず右の杯を取ったのでした。
それを口に近付けます。
「本当にそれでいいのかい?」と魔女が言いました。
バジルは少し動きを止め、下唇を噛みました。そしてちらりとベアトリスを見たあと、思い切って薬を飲み下したのでした。
彼は気怠さが体を覆ってゆくのを感じました。そしてがくりとひざを突き、それから床に倒れ、襲ってくる闇に身をゆだねました。背中に柔らかな少女の手の感触を感じながら。
ベアトリスはバジルの体を仰向けにひっくり返し、つくづくと顔を眺めます。
「あんたって本当に馬鹿な男だね」
そう言って彼女は意識のないバジルの唇に自分の唇を重ねました。そのとき彼女はその白い頬にバジルのゆっくりとした、けれども確かな息づかいを感じ、身を震わせたのでした。
それから残ったもう一つの杯の中身を捨て、戸棚から丸めた羊皮紙と一本のビンを出します。その羊皮紙を力無いバジルの手の中にしっかりと握らせました。彼女はビンを持ってグルムの傍らに立ち、そして震える手で蓋を開けました。
「グルム、あんたいい友達を持ったと思うよ、本当に」
目を強く閉じて、彼女はビンの中の液体を飲み干します。そして強く脈打ち出した胸を押さえ、その場にくずおれたと思うと、やがて動かなくなってしまいました。そして、ずっと冷たいままだったグルムの頬には次第に赤みがさしてきたのです。
朝、バジルとグルムは今はもう主のいなくなった魔女の館の扉をくぐり抜け、暗い森の中へと入っていきました。バジルの手にした羊皮紙の地図には方位を示す魔法の矢印がはっきりと浮かび上がり、彼らが歩み進むにつれ刻々と進むべき方向を教えてくれます。その裏にはびっしりと魔法のルーン文字が刻まれ、隅に一文だけ彼らにも解読できる文字で「この地図、獣よけの代用につき身から離さぬこと」と書かれていました。
ぽっかりと開けた雪原にある見晴らしの良い丘にさしかかり、ふと立ち止まったバジルはその赤く泣きはらした目で来た方向を振り返りました。
「どうした、バジル。急がないと夜になるぞ」
グルムも歩みを止め、バジルと同じように振り返ります。
「神は俺達を許してくださるだろうか」とバジルは呟きます。
「さあな」
グルムはむっつりと答えます。足下の雪をざくざくと踏み固めながら。
「ベアトリスのしたことには何かもっと意味があるはずだ。俺達にできる何かが」
「さあな、俺にはわからん。でもな、彼女は自分で選んだんだ。それが良いことだろうが悪いことだろうが、死んじまったら話にならん。俺達にはどうしようもないだろう。自らの身を死に追い込むなど愚かな行為だ。神の御心にかなうものじゃない。もっとも、もともと彼女は神になど仕えてはおるまいが」
バジルは鋭くグルムをにらみつけました。
「彼女が悪魔に仕えていたとは俺には思えない」
グルムは肩をすくめます。バジルは再び振り返り、森に覆われていて見えるはずのない魔女の小屋を探しました。そして、
「全く、君のその強さがうらやましいよ」ともらします。
「バジル、俺は‥‥」とグルムは言いかけてやめました。
やがてバジルは雪を踏みしめて早足で歩き出し、グルムを追い越して進みました。冷たい風が頬を撫で、まつげを凍りつかせようとします。
「分かってる。俺にできることは、帰って暖かい布団で眠ることだって。これからもそうやって暮らしていくことだって」彼は涙声でそう言いました。「そうさ、彼女は、彼女は結局弱かったんだ」
「バジル」とグルムが叫びました。バジルは足を止めます。グルムはうつむき、けれども少しも揺るがぬ声で言いました。
「でも、うまく言えんが、俺はそんな弱さが好きだ」
バジルはグルムの頬の肉が堅く堅く張りつめているのに気づきました。そしてそれが寒さのせいだけではないことも。
「ああ」と彼はグルムの肩を叩き、「俺もだよ」と言ったのでした。