トリスティンの白珠姫 16
目に入ったのは、人工的に作られた薄闇だった。
今が、朝でも、ましてや夜でもないことを知っている。眠りに落ちる前に、時間を確認したからだ。髪を撫でる蒼羽の、時折頬に触れては離れるその指の延長線上、腕に着けられた時計をぼんやり眺めて。
「・・・」
何となく、起きたら蒼羽が傍にいてくれると思っていた。
体を動かしてベッドの上を見わたしたのに、どこにもその影はない。静かで薄暗い空間が怖くて、急いでベッドから降りる。ぴたりと閉じられたカーテンを開く元気もなく、何かに追われるように部屋を飛び出した。
「っ蒼、羽、さん・・・」
ぱっと開いたドアの向こうは明るい。
目に入ったのは、部屋の中央のソファに座った蒼羽。と、彼だけではなく、ベリルとアルジェ。それから、手にお茶のポットを持ったサントリナが、その傍に立っていた。
「おはよう、お寝坊さん」
驚いた様子で全員が自分に視線を向ける中、一番に口を開いたのはベリルだった。くすり、と笑われて、ようやく自分が、随分と恥ずかしい事をしていると気付いた。
パジャマのままで、裸足で。
ほぼ毎日顔を合わせているとは言え、こんな姿を見せていいわけがない。行儀がいいとはとても言えない行動だった。しかも、招かれている立場で。
「っ、っ、ぅ、あ」
あまりの恥ずかしさに体が動かず。ベリルの言葉に微笑むアルジェや、サントリナの視線が痛い。
「緋天」
立ちすくんでいる内に、蒼羽が笑いながら目の前に来て、ふわりと体が浮き上がる。そのままソファまで連れて行かれて、気付けば蒼羽の膝の上。
「こちらを」
「ん」
「あの、着替えて、」
ポットをワゴンの上に置いたサントリナが、一度寝室に消えて、戻ったその手にはガウン。それを着せられてようやく、自分が今しなければいけない事を口にする。もぞもぞと彼の腕の中で動くと、やんわりとそれを制されて。
「どうした?」
頬にあてられた掌と、覗きこんできた優しい目に何も言えず。ただ、にこにことした視線を他の三人に向けられて、蒼羽の首元に顔を隠した。
「緋天ちゃんごめんね」
蒼羽の手が髪を梳くのを黙って受け入れていたら、横からかかる声。何に対して謝られているかわからず、熱をもった頬のまま、ベリルを見ると。
「あ」
アルジェと、眉根を寄せて困ったような顔をするベリルの距離が。
いつもより近い。
「今年中で辞めてもらう予定だったみたいなんだ。でも今の時期はどうしても手が足りないから、仕方なくこっちの棟に置いていたらしいんだけど・・・」
サントリナが丁寧に頭を下げる。彼らにそうされる原因が、朝見かけた二人のメイドだと分かってはいるのだが、大した問題でもないのに。だいたい、それが良くないことだったのだと、蒼羽とサントリナの様子で気付いたくらいだ。
「私の指示が行き届いておらず・・・本当に申し訳ありません」
蒼羽に言われるままに入浴した後、既に彼女は同じように頭を下げている。どうして、と蒼羽に問うと、彼は当然のことだと言うばかり。
「気にして、ない、のに・・・」
「いいの。謝らせてあげて」
いつもは自分の味方をしてくれるベリルも、今日は違っていた。自分でも、頬がふくらんでいくのが分かる。何故、こんな小さなことを、大事のように扱うのか。
「・・・サー・クロム。もうよろしいでしょう? 緋天さんが困っています」
「そういう問題じゃ、って蒼羽、なにその変わり身」
黙っていた蒼羽の唇が頬に触れて、毒気が抜かれてしまった。思わず緩んだ口元に、紅茶の入ったカップがあてられ、大人しくそれを飲む。
「・・・お腹、すいた」
胃に落ちた暖かい液体が、朝から何も口にしていないことを思い出させて。
アルジェの助けを合図に、もうこの話は終わりにして欲しいと、蒼羽に訴える。
「もう・・・緋天ちゃんは・・・。あー、お昼用意してくれる?」
「はい、かしこまりました」
「ふふ」
こぼれた笑みは、蒼羽の口元も緩ませてくれた。最後は好きなようにさせてくれたベリルは、アルジェの同じような微笑みを見て諦めたようで。
サー・クロム、という呼びかけが、いつもと違う響きをもっていたと思う。二人の距離が近いのは、きっと気のせいじゃない。
「っ・・・、着替えてきます」
蒼羽の唇が耳の上を掠めたので。腰に回っていた彼の腕を持ち上げると、意外にもあっさりと放してくれる。
寝室に戻って、今度はその暗さを追い払うようにカーテンを開けて。
「緋天様」
暖かなガウンに手をかけていると、ベッドの向こう側にサントリナの姿。
その顔には、微かな笑みと。
「ありがとうございます」
また、頭を下げられる。慇懃無礼、というわけではなく、ただ、彼女がどうあってもそうしてしまう、というような、心のこもったそれだった。
「なにも」
「いえ。本当は、私はお叱りを受けるはずでした。緋天様は、このような生活に慣れていらっしゃらない、という事もあるでしょうが・・・それでも、お怒りになって当然のことでございます」
何もしていない、と言おうとすれば、それを遮るように彼女が先を続けた。
「蒼羽様の、はじめてのご命令でした。蒼羽様がご自分の為に、私共に、はじめて指示されたのです・・・とても嬉しく思いました。ですから、絶対にお二人に気持ちよく過ごして頂こう、と」
彼女の声音は、穏やかで。
その、命令、というものが、どんなものかは分からない。けれど、自分の存在が要因になって発せられたものだということだけは分かる。
「それを自分の手で壊してしまいました。蒼羽様は大変ご立腹のようでしたので、自分の処遇も含めて、どういたしますか、とお尋ね申し上げたのです」
どくん、と。
心臓が音をたてる。ソファの上で目覚めた時、蒼羽は確かに慌てていた。寝室から話し声がした時に、その目に鋭い光が浮かんだのも事実だ。それから、サントリナが厳しい声を出したのも。
自分のせいで、誰かが害を被ってしまう。
「・・・緋天様が悲しむので、何もするな、と。いつも通りに仕事をしろ、と」
柔らかな笑みと一緒に発せられたその言葉は、安堵以外にも、なにか、温かな気持ちが込められている。
「そんな風に仰るとは、思いもよりませんでした。緋天様がいらっしゃると、蒼羽様の表情はよく変わります。この三日程で、お笑いになられているのを何度も目に致しました」
す、と伸ばされていた彼女の背が、もう一度折られ、そして、膝が床につく。
「白珠様に、忠誠をお誓い申し上げます」
きれいに結い上げられた後頭部が、完全に自分の目線の先に露出していた。そんな余計なことを思うほど、異様な光景だった。何故、自分よりも年上の彼女に、こうして跪かれるのか。
「あの、」
「旧い慣習でございます。どうぞお気になさらず」
一瞬の沈黙を挟んで、彼女はにこりと笑って立ち上がる。何か、口出しできない雰囲気でもあった。サントリナのとった行動に対して、撤回や疑問を持ち出すことは出来ないのだと。
「緋天」
中途半端にめくってあったベッドの周りの薄布を、彼女がきちんと留め始める。そうやって空気が動いたところで、蒼羽がドアを開けて入ってきた。
「何が食べたい?・・・どうした? 服は?」
彼女とのやり取りがなければ、とっくに着替え終えているはずで。それを不審に思ったのか、蒼羽は訝しげな顔を見せて腕を伸ばす。
「蒼羽様、私がお手をとめてしまったので」
「ん。いい」
サントリナに片手を上げた彼の唇が、何かを食べるように開いて落ちてくる。
「・・・手伝ってやろう」
キスをしながら、笑い含みの声が囁く。そのまま胸元のボタンを外されて。何だか今朝のバスルームと同じような状況。
背中を滑る蒼羽の掌は暖かいのに、安心とは別の感覚を生み出した。
「んっ、自分でする・・・っ」
蒼羽との間に何とか空間を作ろうとするのだが、腰に回った右手が放してくれない。目の端に、サントリナが一礼して退出していくのが映った。二人だけにされた部屋の中で、彼がキスを落とす音と、布が滑り落ちていく音。
「あの、っ蒼羽さん・・・っ」
「わかってる。しばらく触れないから」
キャミソール一枚になったところで、蒼羽が自分を持ち上げベッドに腰掛けるものだから。まさか、と焦ると、彼は鎖骨の上で溜息を落として、肌を吸い上げた。
傍に置いてあったワンピースを子供のように万歳をしながら上から被せられ。今度はくるりと向きを変えて背中を見せる。全て、蒼羽の好きなように動かされ、恥ずかしくて仕方ない。
ファスナーをゆっくりと上げる間に、またも蒼羽のキスマークが新しくつけられてしまう。
もう少しだけ、と呟く彼が、最後に耳の裏に口付けて、手を休ませた。
この続きはきっと年明けになるのだろうな、と予想する自分に呆れて窓の外に目をやる。
一昨日作った雪だるまが、にっこりと笑っているのが見えた。
着替えを手伝ったのか邪魔したのか、完全に後者である、と自覚しながら。ようやく服を着せた緋天を連れてソファに戻り、食事の支度が進んでいる傍で。
用事を終えたはずのベリルとアルジェが、まだそこに座っていた。
「あ、ごめん。もうひとつ言う事があったんだけど」
しつこくキスを繰り返したせいで、乱してしまった緋天の髪を撫でてやる。
「えーと、緋天ちゃん、聞きたくなかったらすぐに言ってね?」
「・・・?」
何を言い出すつもりなのか、ベリルの視線は緋天に向いた。正確には、細い首の辺りへと。
大人しく自分の掌を受け入れていた彼女が顔を上げたのを合図に、もう一度、ベリルの口が開いた。
「その首の傷・・・消せるかもしれない」
びくん、と。
できるだけ穏やかに話そうと努めていたベリルの声に、緋天の体は震える。それでも、彼が悪意をもってそれを言い出しているわけではないと、自分には判別がついたし、緋天もそれを分かっていた。加えて、ベリルの口にした言葉は、自分にとっては先を促さざるをえないもの。
「蒼羽、確かめる気、ない?」
「何をすればいい」
初夏に刻みつけられた、ひとすじの傷跡。
癒えてはいるのに、薄赤いその痕が、消えることなく緋天の肌に居座り、存在を主張し続けている。視界にそれが入れば、忘れることすらできずに、ただ悪戯に緋天を怯えさせるだけ。
「先に言っとくけど、話半分、というか、私も詳しくは分からない。ただ、傷が治る温泉があると聞いただけだから」
はっきりしない。
そうやって、不明確なことを言い出すベリルは珍しい。しかもそれを、自分達に確認させたがっている。
「緋天ちゃん、お願い。ほら、年明けにどこか行く予定なんだよね、行き先、そこにしない?」
「・・・蒼羽さん・・・?」
いきなり話を振られ、その勢いに戸惑った緋天が自分を見る。
「傷、治ったよ、っていう証明が欲しい」
「っ、サー・クロム」
真剣だということは確かなのだが、彼自身がそれほど強く求める意味がわからなかった。ずっと黙っていたアルジェが咎めるように声を上げて、そこでようやく、彼女にも何か関係することなのだ、と気付く。
「私は緋天さんを実験台にしてまで、治したいとは思っていません!」
焦りを含んだその言葉に、緋天は完全に目を丸くしてアルジェと自分の間で視線を動かしている。
「変な言い方しないでくれるかな」
「だって、そうでしょう? 貴方はこの話の確証を得てないから、緋天さんに行ってもらおうとしているのでしょう?」
語気を荒げるアルジェと。
それに対して譲れないとでもいうように首を振るベリル。
「っ、そうだけど・・・なんかニュアンスが、」
「ニュアンスも何もありません」
不穏な空気に更に戸惑う緋天を引き寄せて、二人の、自分にとってはどうでもいい会話を打ち切るタイミングをはかった。
シャツを握る緋天の指先。
そこを見下ろして、昨晩のウェーブが残る髪を眺める。
「緋天・・・?」
「・・・ん、・・・行く」
右手にその髪をとったのと同時に、彼女が自分に顔を寄せて。何かを言いたそうにするそれを促すと、小さな声がふわりと耳に届いた。
手を完全に止めて、言い合いを続けるベリルとアルジェを窺っていたサントリナが、その呟きをとらえてこちらを向く。指の間を滑る髪束も、緋天の答えも。心地が良くて、頬が緩んでしまう。
「っもう、何が駄目なわけ?」
「全部です!何故こんな風に切り出すのですか!?」
「緑樹様、・・・緑樹様」
「え?」
いつまでも終わりそうにない、二人のやり取り。
意外にも、アルジェが強い口調でベリルに迫り、それを受ける彼の方はいつもの調子で論争の相手をやりこめる手管が出ないようだった。向き合う相手が、アルジェだからだろうか。
間に割り込むようにかけられたサントリナの声に、ようやく空気が動く。
「緋天様が。その、どちらになるか分かりませんが、おいでになると」
「えっ、いいの?」
「噂でも確かめる価値はある」
頷く緋天の代わりに口を開く。例え緋天が乗り気でなかったとしても、きっと自分は何かと理由をつけて、彼女を連れ出していただろう。そう思うほど、魅力的な話だった。
緋天は緋天で、本人がそれを消したいと思う以上に、自分が気にしていることを知っているから。だから、行ってもいいと言い出したのだ。それに加えて、アルジェが関わる話だということも、緋天の中でひとつの要因になっている。
「・・・緋天ちゃん?」
黙ったままの緋天に確認を得ようとするベリルと、それを取り消そうとするアルジェの。二人の視線が腕の中の緋天にささる。ふい、とその顔をこちらへと向ける彼女を見て、ようやく自分達が何をしたのか気付いたようだ。
「・・・あの、勘違いじゃないよね・・・?」
「ああ。・・・これは、痴話喧嘩、とかいうやつだ」
こそりと耳元で問われたそれは、不安そうな緋天の声でも、充分に甘かった。そのまま頬に唇を落として、頭の中の辞書から的確な言葉を見つけて口にする。
「なんでケンカになるのかな???」
「さあな。俺たちには全く理解できない意地の張り合いだ」
「うー、せっかく両思いになったのに・・・ひどい」
「ちょっと蒼羽、っていうか、緋天ちゃん!・・・ケンカしてたんじゃないよ?」
「そうよ、ただの議論です」
小さな緋天の訴えを聞きとがめたベリルとアルジェが揃って声をあげた途端。
緋天の頬に笑みが浮かぶ。
「とにかく行く。別にお前達がどうこうという訳じゃない」
二人が揃って口をつぐんだところで、それだけを言って次の行動を促した。
もういい加減、邪魔をするなと言いたいが、ベリルの方でも同じような事を思っているのだろう。
「・・・あー、うん、じゃあそういうことで。よろしく」
「ちょ、待っ、サー・クロム!」
ようやく本来のペースを取り戻したのか、素早く立ち上がってベリルがアルジェをソファから立ち上がらせて。
「蒼羽と緋天ちゃんの前では、それ、やめてもいいんじゃない?」
それ、と指し示されたのは、その呼び方であると。
悟ってしまった自分を、何だか随分不思議に思う。
「緋天ちゃん、今まで協力してもらった分、いつか返すよ」
全開の笑顔が緋天に向けられ、その言葉の意味がわからず首をかしげる彼女の目の前で。
「わっ」
軽い音を立てて、ベリルがアルジェに口付ける。
瞬時に真っ赤になる緋天に片目を瞑り、慌てふためくアルジェの腰を抱いて背中を見せたベリル。最後に扉の閉まる音。
「緋天」
「・・・見せつけられちゃった」
耳まで朱に染まった緋天を抱き寄せると。
恥ずかしそうに笑う、その唇に。
「っっ、ん!」
触発、というものかもしれない、と。
気付いたのは、ベリルと同じ行動をとったその後のこと。
何にせよ、アルジェがベリルの相手として公認される事実は、自分にとって都合が良い事この上ない。
サンスパングルもトリスティンも。
緋天の為の、後ろ盾。
捨てきれない環境は、むしろ大いに利用すべきだと、いつの間にかそんな考えに至って。甘い吐息を漏らす緋天と一緒に、それを歓迎した。




