トリスティンの白珠姫 15
「今日お帰りになられるのでしたね」
「ああ。今夜まで出なくてもいいだろう」
廊下で出くわしたサントリナに、緋天は起きてきたかと問うと、首を振って答えを出したついでに、どことなく残念そうに息を吐いた。パーティーは一夜限りではなく、三日ほど続けられるものであったが、既に緋天の披露は済んでいる。彼女をこれ以上見世物にする気もなく、疲れさせる要因を増やしたくもなかった。
この家の人間達の、緋天への評価は概ね好評で。
素直な反応を見せる緋天に、サントリナも好意を抱いていたからだろう。見送る立場にある彼女にとっては寂しいことなのかもしれない。
「・・・緋天が来たがるなら、また連れてくる」
「あ、はい。楽しみにしております。次は身の回りのお品を揃えておきますので」
もう一度小さな溜息を吐いたメイドに、何となく希望に近いそれを口にした。緋天自身の意見すら聞いてないのに、既にその気になっているサントリナの姿。
緋天がこの家にいることで、随分使用人と言葉を交わすようになった、と気付き、苦笑が浮かんだ。それをすんなりと受け入れている家人を好ましく思う。
「蒼羽様、お食事は、」
廊下を進んで、自分の部屋の扉に手をかけた時。
「蒼羽様?」
体を貫く、違和感。
急いで開けた扉の向こうは、開け放たれた窓と、火のない暖炉。
「緋天・・・!?」
それから、ソファの上で体を丸めた緋天。
「緋天様!? 何故窓を・・・」
薄い寝間着を身につけただけの緋天の指先は冷え切っていた。暖炉だけが温度調節の術ではないとはいえ、窓を開ければ当然、真冬の空気が部屋に入り込んでくる。
眠りに落ちたその体はぬくもりを残してはいたが、冷たい事に変わりはない。抱き寄せると、無意識に頬を寄せてくる。
「緋天、どうした? なんでここで寝てる?」
「・・・蒼、羽さん・・・?」
ゆっくりと目を開けた彼女が発した不思議そうな声音。後ろでサントリナが慌しく窓を閉め、暖炉の火を熾しなおしている。
「緋天が窓を開けたのか?」
「ううん。お掃除終わった?」
瞬きを繰り返す緋天に畳み掛けるように答えを求めると、この異常な状況を何とも思わないのか、小さく首を振って問いを返す。
「掃除など誰が、・・・」
困惑顔で緋天を見るサントリナが口を噤む。物音と、話し声が寝室から聞こえたからだ。
若い女のはしゃぐ声。
「誰だ」
許していない。寝室に立ち入ることを、誰かに許した覚えはない。
緋天に掃除だと思わせ、あえてそこに入るとするならば、使用人なのだろう。メイド長を務めるサントリナの与り知らない行為を仕出かす、この家にはふさわしくない人間。
覚えはあるかというつもりで問いかけたのだが、何かを察したサントリナは、厳しい横顔を見せて寝室への扉を開けた。
「何をしているの?」
緋天がいるからだろうか、感情を抑えて室内の人間へと問いただす彼女。そんな配慮もあまり効果はなく、腕の中の緋天は既に身を竦ませていた。何か悪いことでも口にしたのかと不安そうな視線をこちらに向けている。
「・・・緋天」
抱き上げた体は大人しく、そのまま浴室へと連れて行く。体の奥底で渦巻く怒り。本当は今すぐ自室にいる誰かを追い出したかった。追い出すついでに、制裁を。
ただ、顔を見てしまえば、緋天をも怖がらせることになるだろうと。後ろ手に扉を閉め、浴槽に湯を落とした。勢いよく流れ落ちるそれを見届けて、その音が寝室で行われている問答をかき消していると確信を得る。
「蒼羽さん・・・?」
白い頬に掌をあてると、そこはまだ冷たく。
ちくりと何かが胸の奥を刺す。夜明けに見た微かな笑みが欲しかった。
「冷えるから入ってろ」
白い湯気の上がるバスタブに、彼女の好みそうな入浴剤を入れてやる。寝間着の小さなボタンを外していくと、ようやく反応を見せた彼女がそれを拒んだ。
「・・・お部屋にいる?」
半歩引いて作った隙間。それに目線を落としてから、ふいに自分を見る双眸。
「いる」
自分を落ち着かせたいのか、それとも緋天を安心させたいのか。よく分からないまま冷たい唇に口付けた。啄んで、熱を移して、もう一度ボタンを外しにかかり、緋天の肌に指を這わせる。
「ん、っ」
今度は緋天から身を引いて、それを合図にようやく手を離した。恥ずかしそうに頬を染めた彼女を見て安堵し、湯気の立ち込めるそこから退出した。
まただ、と思う。
生きた心地がしなかった、とメースがぼやいていたのは、一昨日の昼だ。それを笑いまじりで聞いていた罰が当たったのだろうか。行方の分からなくなった緋天を一度見つけたにも関わらず、彼女を置いて蒼羽を呼びにいったことでその姿を見失い、主の機嫌は悪くなった。
自分の監督下にあるメイドが仕出かしたのは、そんなメースの咎などどうでもいいように思えるくらい、ひどいものだった。
蒼羽を怒らせるその原因を、また、使用人が作り出した。
「何をしているかを聞いているの」
メイドの一人が手にしていたのは、主の大事な恋人の為に、と自分が用意したガウン。
手触りは極上で、保温性も高いその布地は、高級品だ。
ナイトテーブルの傍にいたメイドは、アクセサリーケースを開けているところだった。目に入ったのは、昨夜、緋天の首元を飾っていた白珠のネックレス。それを指先にかけて持ち上げようと。
「それに触れていいと、どなたの許しを得ましたか?」
こんなにも冷えた声が自分から出るとは思わなかった。
震えそうになるそれを必死で抑えようとしたら、怖ろしく冷酷な音が出てきたのだ。ああ、どうかこの声が蒼羽の愛する彼女に届いていませんように、とそれだけを願う。
「何を軽んじているの? どうしてあなた達にはわからないの?」
心底。
ようやく異常に気付いた彼女達が、呆然とした顔を見せたのを。
心底、哀れに思った。
「今すぐここから出て行きなさい。ご両親に家が潰れることを覚悟するようお伝えなさい」
ひゅ、と息を飲み込む音が耳に入って。
勝手なことを口にした自分を、少し悔いた。ただ、緋天に見えないところで、早く彼女達を追い出したかったのだ。青ざめた顔をしたまま、一言も発せずに、お互いがお互いを前に出すようにして、二人が脇を通り過ぎていく。
全て、蒼羽のものだ。
緋天の身につけるもの、この家での居場所、穏やかな睡眠時間。
彼女に捧げられるものは全て蒼羽のものであると。蒼羽が望んでいることだと。蒼羽の為であることだと。
どうして、あの二人には分からないのだろうか。




