魔法使いの卵
その昔、このあたりには水がなく、動物も、木も、草も、命あるものは住んでいなかった。そんなわけでこの土地の守り神ファター・ルウは長い間ひとりぼっちだったが、あるとき淋しさのあまり自分が守らなければならない大地をひっかいて傷つけてしまった。地面には爪痕がくっきりとついた。
ファター・ルウはそれを見て嘆き悲しんだ。流した涙は爪痕にそそぎこみ、水を喚んで川になった。川のまわりには草が茂り、木が育ち、動物が住むようになった。人がそこに街を築くと、ファター・ルウは祝福し、守護神になる誓いをたてた。街を流れる川は「ファター・ルウの涙川」と呼ばれるようになった。
フォトンの街は「ファター・ルウの涙川」から流れてくる霧にくるまれて眠り、魔法使い見習いたちの足音で目をさます。
朝霧の中を、王立魔術学院の生徒たちが目をこすりながら歩いていく。街のそこかしこに立てられている真鍮でできた魔法の街灯を消すためだ。ローブをひきずり、サークレットを嵌め、騎竜に乗った少年・少女たちが霧が満ちた路地をぬうようにして行く。騎竜に乗るのは仕事をしやすくするため。騎竜にまたがれば高い街灯にも手が届く。
真鍮の柱のてっぺんにすえつけられている、暖かな黄色の光の粒をばらまく丸い石に少年が手をふれると、石はほんの一瞬強い光をちらしてただの石に戻った。騎竜に軽くむちを入れ、次の街灯へ進む。そんなことを今日まで何回くりかえしてきただろう。そして、明日も明後日もくりかえすことになるのだろうか。
少年はそっとため息をついた。今のままではどうしようもない。とてつもなく宙ぶらりんの自分が、少しでも風が吹いたら飛ばされそうなどっちつかずの気持ちが、嫌になる。
魔法の勉強は楽しい。学院には仲のよい友達もいるし、下宿のおばさんも優しい。けれども、このままではいけない。あと3か月で、ひとつ上のステップに進めなければ、今の生活はおしまいだ。魔法の才能がないと決めつけられて、生まれた村にもどされてしまう。ひとつうえのステップに進めたとしてもフォトンの街をはなれなければならない。
フォトンの魔術学院を卒業し、王都ディラホーンの上級魔術学院にうつって真剣に魔法の勉強をするのだ。それは少年の夢なのだが、今は夢をためらってしまうほどにこの街を好きになっていた。最初は嫌で嫌でしかたがなかった朝と夕方のじめじめした霧も、油っこく濃いめの味の料理も、愛想の悪いルームメイトも、何かというといやみを言う師匠も、それぞれいいところを見つけて失いたくないものになっていた。
ずっとこのままでいられたらいいのに……フォトンの街で、魔法使い見習いのまま。
そんなことを考えながら少年は次々と街灯を消していった。毎日毎日くりかえしてきた仕事だったから、とくに神経を集中させなくてもできる筈だった。筈だったのに。
最初はふつうに、その石に軽くさわった。明りは消えない。石はあいかわらず光っている。2度めは石をつかむようにしてさわった。まだ明りは消えていない。
3度めは、いつもは省いている呪文を唱えた。
「霧はもうじき晴れ朝日が照らすだろう。おまえのかすかな光は日にまぎれて誰にも見えなくなってしまうよ。だからおやすみ。夕霧がおりて人々がおまえの光を欲しがるまで」
呪文自体にはたいした意味はない。師匠から教わった中で、いちばん神経が集中できるものを唱える。ちゃんとした魔法使いなら自分だけの呪文を作れるし、何よりもこんな簡単な魔法なら呪文なしでもできる。
おそるおそる石にさわってみる。やっぱり明りは消えない。
そのとき背中ごしに笑い声がした。ふりかえった少年の目が女の子をとらえる。その子の、体をつつむ赤いマントにうずめかけた小さな唇から、気に障る笑い声がもれている。
少年はぷいっとそっぽを向くと騎竜のこうべをめぐらせ、赤いマントの女の子にはちっとも気づいていないようにとりつくろいながら、その場を通り過ぎていった。
川面から流れた霧がフォトンの街を漂いはじめた。日は沈み、月の光が夕霧を通してぼんやりした白い光を投げかける。
霧の中をかきわけるようにして騎竜に乗った少年少女たちが街灯のかたわらをとおりすぎる。とおったあとの街灯には暖かな魔法の灯がやどる。
次から次へと流れるように光をともしていく一頭の騎竜の足がとまった。
騎竜の上で少年が不満げに口をぎゅっと結んでいた。明りがつかないのだ。少年はあわてて呪文をつぶやきかけ、やめた。ききおぼえのある笑い声がしたからだ。
ふりむくと、そこにはやっぱり、赤いマントで体をくるんだ女の子がいた。少年はまた見て見ないふりをしようと思ったが、今度はうまくいかなかった。
「あなた、魔法学校の人でしょう?」
「魔術学院!」
怒ったように少年は言い返した。魔法学校というのはもうひとつ下のステップがこえられない魔法使い見習いたちが魔法を学ぶところだ。少年はわりとがんばって魔法学校を卒業したので、まちがわれると黙っていられない。
おかしくてしようがないというように、女の子は、くすっと笑う。
「そのわりには魔法、へたくそね」
「そういう君はなんなんだよ」
「あたし?」
女の子はマントの端をちょいともちあげ、小首をかしげる。あたかも貴婦人が舞踊会で自己紹介するように。
「あたしはトーラっていうの」
「そうじゃなくて」
乱暴に言いながら少年は騎竜から降りる。女の子が口をとんがらせた。
「そうじゃないってなによ、レディになのらせておいて自分はなのらないつもり?」
気まずくなって、少年はしぶしぶ口を開く。
「ぼくはアルム」
「ふうーん、アルムっていうの」
何回かアルム、アルムと呪文のように呟き、トーラは言った。
「魔法へたくそね、アルム」
アルムはとっくに言い返す気力を失くしていた。
トーラの言っていることはまぎれもない真実。魔法がへたくそだから王都の上級魔術学院にうつることもできずに、ここにいる。
そんな弱気が表情に出ていたのかもしれない。
「あたし、悪いこと言っちゃった?」
そのトーラの言葉には、わびるような響きがあった。
答えられなくてアルムはだんまりを続ける。かたわらの騎竜は黄色い瞳で心配そうにアルムを見つめていたかと思うと、長い首をすりつけてきた。アルムを気づかってくれているのだ。騎竜は賢い。言葉こそ使えないが、人の言うことを理解できる。
アルムは感謝の気持ちをこめて、騎竜の首をなでてやった。
「ごめんなさい。あたし、アルムを傷つけちゃったのね」
さっきまでとはうってかわって優しい声のトーラだった。それがあんまりしおらしかったので、アルムのほうが悪いことをした気になってしまう。
「ううん、そんなことないよ。だってトーラは本当のことを言ってるもの。本当のことを言われて傷つくのは、傷つくほうが悪いんだから」
「やっぱり傷ついてる! いまアルム、自分で傷ついてるって言った」
「あ……」
アルムはそれ以上、言葉にできなくてただ黙ってうつむいていた。頬がじんじんして頭がぼうっとしてくる。顔はきっと真っ赤なのだろう。そう思うともっと赤くなってしまいそうだった。
トーラが笑うのを、アルムは気配で感じた。
「アルムは優しいね。あのね、本当は、こう言ったらこの人は傷つくって思ったら言ってはいけないの。その方がまわりの人からよく思ってもらえるのよ。けどね、あたしはそうじゃないんだ」
アルムは顔を上げてトーラを見た。トーラは右足を軸にしておどるようにくるりくるりとまわっていた。トーラの動きにあわせて赤いマントがひるがえる。はためく赤いマントが、アルムには炎に見えた。
「あたしはいろいろ知ってるから。たとえば、いまアルムは何がほしいのか、そのためにアルムはどうすればいいのか、とかね」
「本当に?」
アルムがききかえすとトーラはまわるのをやめた。
「あたし、口は悪いけれど嘘は言わないことにしているの。そうじゃないと、みんなあたしの言うことをきいてくれなくなっちゃうから」
「ぼく、魔法使いになりたいんだ。ちゃんとした魔法使いに。魔法使いになって、みんなが幸せになる魔法をつくりたいんだ」
それは、生まれた村でいちばん仲がよかった子が領主におさめる小麦の代わりにつれていかれた日から、アルムがずっと思ってきたことだった。もし、あのとき自分が魔法使いだったら、雲をよんで雨を降らせ、小麦畑を黄金色に輝かせたのに。そうしたら、あの子はずっと村にいられたのに。
「アルムならきっとできるよ。アルムには魔法の才能、あるもの」
トーラに言われると、それはいっときのなぐさめではなく本当のことに思えるような気がする。
「それじゃ、なんで魔法がうまくならないんだろう」
「アルムの、魔法がうまくなりたいっていう気持ちよりも、魔法が下手でもずっとフォトンに、この街にいたいって思う気持ちのほうが強いから。アルムは気づいていないけど、潜在意識で制御しているの。だから魔法力の発動が疎外されている」
最後のほうがよく判らなかったので、アルムは首を傾げた。するとトーラはあわててつけくわえた。
「つまりね、淋しくなんかないってこと」
「えっ?」
さっきの難しいことがそんな簡単なことだったなんてアルムは思っていなかったから、驚いた声を出してしまう。
「フォトンを離れるのが嫌なんでしょう? 知らない街で知らない人たちばっかりの中で淋しい思いをしたくないんでしょう?」
アルムはうなずく。
「その淋しくなりたくないっていう気持ちが魔法がうまくなりたいっていう気持ちより大きいの。アルムは自分で魔法をへたにしちゃってるのよ」
「……淋しくないって思えばいいの」
「そう」
トーラは、うまく魔法ができたアルムをほめるときの師匠みたいな、優しい目をしていた。
「淋しくなんかないのよ。覚えてる? あなたが初めてこの街にきた日のこと。とっても淋しがってた、生まれた村へ帰りたがっていた。しばらくの間、淋しくて泣きながら眠っていたでしょう」
なぜそんなことを知っているの、と訊こうとしたけれど、そんなことはどうでもいいような気がしたので、アルムは黙っていた。
「今は、フォトンが好きで好きで村に帰りたくないぐらいなのにね。大丈夫。新しい土地でもすぐ馴れるよ。
知ってる? 「ファター・ルウの涙川」の話。淋しくて泣いちゃった神さまの話。みっともないよね、神さまのくせに泣いちゃうんだから」
「ぼくはそう思わないよ。神さまだって淋しくなってもいいんじゃない」
トーラは驚いたようにアルムを見た。そして、目だけで笑って言った。
「そうね。だって神さまは万能じゃないもの。それと同じで魔法も万能じゃなくて――
ファター・ルウは300年もひとりぼっちでいたけれど、最後には川をつくってこのあたりを生き物が住める大地にした。それと同じよ。淋しかったら淋しくなくすればいいだけのこと。淋しさをおそれて可能性の芽をつんじゃだめ」
トーラの伝えようとしていることが、アルムはわかったような気がした。なんとなく嬉しくて、頬がゆるんでしまう。顔を鏡で見られたら、きっと笑っているだろうなとアルムは思った。さっきまでの沈んでいた重たい気分が嘘のようだ。今のアルムの心には翼がついていた。どこまでも力の続く限り、飛んでいける。
「忘れてほしくないことが2つあるの。1つはさっきも言ったように魔法は万能じゃないってこと。もう1つは、この街を好きだって思う気持ち」
言いながらトーラは赤いマントを脱ぐと、さっとたたんでアルムにおしつけた。
「フォトンを好きになってくれてありがとう」
アルムの目の前でぱっと光が散った。瞬くと、さっきまで光がともらなくて苦労していた石が、霧のかかった道を明るく照らしていた。
あたりを見まわし、アルムはトーラを捜した。腕には赤いマントが抱えられていた。
霧が深くなってくる。早く明りをともさなければならない。
アルムは騎竜の首をたたくと、次の街灯に向かっていった。その時、アルムは自分が降りたはずの騎竜にまたがっていることに気づいた。
明りをともしながら、アルムの目はトーラを捜していた。なぜだか、もういちど話をしたくてしかたがなかった。
それから街に出るときはいつもアルムはトーラを捜したが、見つけられなかった。
少年がフォトンの魔術学院を卒業して、王都ディラホーンの上級魔術学院にうつったのはそれから3日後のこと。
生涯手放すことのなかったローブの色から「緋色の大魔法使い」と呼ばれるまでには、あと30年かかる。
Fin