第九話 小さな会話
男達の悲痛な呻き声が響き渡る。傷を負って血を流す彼らの声は苦しみながらも生にしがみついていたいと訴えるようだ。
そして、重傷を負った彼も血を流して喉から声にならない呻き声を吐いていた。口を大きく開く度に血が喉へ零れ落ちて咳ばんで吐き出す。数人の男が彼のジタバタと暴れる手足と頭を力付くで押さえ込み動けないようにする。
頭を押さえている男の両手は血で真っ赤になっていた。そして、別の男が糸を通した針で彼の裂けた頬を縫い付ける。縫い針が皮膚を貫き焼けるような猛烈な激痛が傷口から身体全体へ伝わる。目を見開く度に包帯を巻かれた右目部分から血が湧き出た。
彼は自分が何故このような目に会っているのかが理解できなかった。生まれてずっとこの生き地獄を味わって生きて来ている様な錯覚をするほどである。呼吸する度、脈が動く度に激痛が全身を走る。頭の思考は完全に麻痺して本能のままに痛さから逃れようと身体を力の限り動かす。
だが、抑えられている手足が動かなければ激痛は止む事も無い。左頬を向けていた顔を不意に逆向きに変えさせられた。そして、右目に巻かれていた布も解かれた。垂れ出て来た血が見開いていた左目に入ってきた。唯一光が見えていた目も見えなくなってしまった。焼かれているような猛烈な激痛が再び襲ってきた。
*****
カランカランと鐘が鳴る。目が覚める視界は薄暗い。頭を毛布の中に入れており、微量の日光が目に入る。
「う…ん?」
毛布から右腕を出して辺りを手さぐりに動かす。指に紐の先端部が当たった。それを引っ張って毛布の中に持っていく。紐の中央部は黒い丸く窪みがかった物がついていた。全部を毛布の中に入れてゴソゴソする。
北兵衛信三郎は上着を脱いだ軍服のままで毛布にくるまって寝ていた。
テーブルに置かれたグラスに瓶に入った水を注ぎ、口に流し込んで喉の乾きを潤す。
そして皿にあるパンを一つつまんで食べる。食べたら二つ目もほおばった。
食べ終わり、扉を開けて洗面台に行く。踏み台が置いてあり、それに上がって鏡を見て歯に塩を塗って磨き、眼帯を外して顔を洗う。
それから上着を着てベルトを締めて軍刀を吊す。最後に軍帽を被る。
準備は整った。所要時間は十分もかからなかった。
最後に松葉杖を持って行くかどうかを考えた。足はまだ痛む。しかし、我慢できなくはない。松葉杖に頼れば片手が使えなくなる。杖を持って行くのを止める事にした。
「おっと、いけね」
ドアノブに手を着けた信三郎は忘れ物の準備をする。私物の入った箱を開けて、昨日手を着けた徳利と漏斗を取り出し別の箱から水筒を取り出した。
漏斗を水筒の飲み口に差して徳利の酒を注ぐ。トクトクと酒が出てくる光景と音と香りが五感を刺激する。水筒に酒が溜まり徳利の口を上にする。すると徳利の口から酒の一滴が瓶の下の方に伝っていく。
信三郎はそれを人差し指ですくい口に運んだ。舌に酒の味が薄く広がる。
*****
部屋を出て鍵を閉める。同じ階の通路には目覚めて程ない学生たちがいた。
オハヨウゴサイマス。と、信三郎は出くわす学生に挨拶を掛けていった。軍隊にいた時の習慣である。
外は陽は出ているが夜で冷えた春の空気は肌に堪える。
昨日の昼間、学生たちがいた校庭の道には今のところ信三郎一人しかいない。朝の鐘が鳴ってから時間は十分しか過ぎていない。誰もいないのは当たり前だ。
「いつぶりだ?こんげ静かな朝は」
と、信三郎は呟いた。聞き慣れた銃声や爆発の音が聞こえない。耳に入ってくるのは鳥の囀りと風で木の枝が揺れる自然の音だけだ。
ふと、靴の紐が解けている事に気づいて紐を結び直す。士官になる以前の履物は草鞋だった。雨が降った地面を歩くと足に履いてある足袋が濡れて気分を損ねたが、足を硬い革に密閉された靴はそうではない。しかし、足を密閉された感覚は履き慣れた草鞋と違って違和感がある。
何気なく横の茂みに視線を向けるが何もいない。戦争中は敵が潜んでいた茂みの中から現れて襲撃してくる事も多々あったのだが。
「夷竜洲国じゃ、今でもどっがで戦しとるんろな」
夷竜洲国の戦いは終わっていない。北朝が国の実権を掌握したが、南朝は滅んでおらず海を隔てた島に遷都したに過ぎない。そして国内には南朝勢力の残党が活動している。まだ、国家統一に向けた最後の戦いが残っているのだ。
信三郎は軍隊で培った勘から天下の情勢が北朝の揺るぎのないものになってはいるが、北朝軍が国家統一に向けた軍事行動を起こすのは先だと推測した。
荒廃した国内の復興と西域技術の導入による新国家体制の確立、国力の増強によって東域における西域諸国の台等の抑止を優先課題とした。
この事情を見越して信三郎は西域留学を了承したが、西域の平和な国に暮らす事になると今までの生活が恋しくなる。平穏無事に慣れるには暫く時間が掛かりそうだ。
*****
騎士学校の校舎内にもまだ学生の姿は無い。広い校舎だが、自分の教室の場所は覚えいる。通路に信三郎の歩く足音しか響かない。
教室の扉を開けて中に入るが、ここにも誰もいない。
「早く来すぎたようだな」
信三郎は、外国での一人暮らしに不敏のないように早めの行動を心掛けたのが裏目に出た事に苦笑した。
とりあえず、やる事が無いわけでなかった。自分の席に座り、風呂敷を広げて本を取り出した。教本の他に昨日、図書館から借りた本も数冊あった。西域の文明や知識を吸収するのが留学生の任務だ。
上着の懐から懐中時計を取り出して時間を見る。授業が始まるまで時間は沢山ある。本を開いて読む。
「ん?」
廊下から足音が聞こえてきた。音の軽さからして女性のものだと分かった。
しかし、気にかけずノートに本の内容を鉛筆で書き写す。
足音が近づいてきた。そして、教室の扉が開く。信三郎は反射的に顔を向けて誰が入ってきた確認した。
目が合った。昨日と似て非なるふうにして、リジュア・オスプレアの容姿端麗が視界に入った。そして、信三郎は咄嗟に彼女から目を逸らした。
(やいや参ったぞ。偶然たぁ、おっがねえもんだうぇ)
昨日と似た状態で今度は彼女の注意を逸らす人もいない。気まずく感じながらも信三郎は勉強を続ける。一分一秒が長く感じる時があるが、まさにその心境だ。
「おいっ」
「!」
声に気づいて信三郎は顔を上げた。すると、すぐそばにリジュアていた。
「………」
信三郎は喋ろうにも話す言葉を見つけられず、口をへの字に閉じたままだ。美女を前にすると調子が狂ってしまう。
「ミカドから聞いたが、お前は実戦の経験があるのか?」
「…エ?」
「どうなんだ」
彼女の問いに信三郎はとにかく応えようとした。しかし、何を話したらいいのか思いつかない。そこで、シャツの袖ボタンを外して袖丈を捲り大小の刀傷や刺し傷などが幾つも残る腕を見せる事た。
「…戦イ続ケレバ、コウナリマス」
と、固まった頭からやっと絞り出して出てきた言葉を口にした。
「そうか」
リジュアは暫し信三郎の見せる腕を見た。そして一瞬だけ彼女の視線が少し下に逸れ、机に上がる本やノートを見た。西域の文字文字や夷竜洲国の文字がノートの所々に書き尽くされている。
「勉強熱心だな」
「勉強ガ僕ノ娯楽ト仕事デスカラ…」
いよいよ信三郎の顔が赤く染まってきた。帽子を深く被って目を隠したい気分であったが、机の脇に帽子を掛けてある。彼女の表情を伺いながら次の返事を待つだけだった。
「………」
しかし、リジュアは話し掛けてこない。彼女の頬が少し赤くなっているのに気付いた。
「?」
話す事が無くなったのだろうかと信三郎は考えた。すると、廊下から再び誰かの足音が聞こえてきた。
「すまない。勉強の邪魔をして」
「エッ、…アノ?」
と、返事より速くリジュアは早足で教室から出て行ってしまった。足音が廊下の奥の方まで行って聞こえなくなった。
「…あっという間だったうぇ、おい」
後に残った信三郎は呆然とした。緊張の余韻がまだ残っている。