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私が授業に戻れたのは、体育の後の数学の時間から。午後は体育の時間は保健室で勉強しているようにと体育の先生が様子を見に来てくれて、体育館までの移動がまた遠いので今日は見学をしないで勉強をすることという事になったのだった。
私はみちからもらった物理のノートのコピーを見ながら今日の授業の分の勉強をしている。そんな私を視界の端に捉えながら、えりか先生は自分の机で作業をしていく。
「ところで佐倉は何の教科の勉強をしているの」
「物理です。化学と物理は苦手なので」
「あら、化学なら私でも教えてあげられるかなって思ったけど物理はちょっとごめんなさいね」
「本当ですか?それなら科学の予習で分からないところがあったので聞きたいんですけど……」「いいわよ。見せてみて」
「ここの所なんだけど」
私は予習ノートを広げてえりか先生に見せる。えりか先生は化学のセンスのない私を相手に根気よく教えてくれる。
「分かった?」
「分かった気がしますけど、まだ復習が必要ですね」
「普通はそこでやめるんじゃない?」
「そうかもしれませんけど、ちゃんと理解しないで後が辛いのは私ですよね。それは嫌です」
「そうね。それじゃあ、もう一度そこのところを説明しましょうか」
えりか先生は、もう一度私に説明してくれた。
「今までのまとめってことで、これは分かるかしら」
そう言ってえりか先生は、ある化学式を書いた。どうやらこれを分解しなさいという事らしい。えっと……これは……。
「えっと……この間誰かに聞いたんだけど……えっと……忘れちゃいました」
「まあいいわ。これを分解するとどうなる?」
「それは確か……えっと……こうでしたっけ?」
「ゆっくり時間をかけたらできるじゃない。化学は分かりやすく言うと計算みたいなものよ」
「計算ですか……」
「そう。その代りに数字じゃなくて元素記号とかだけど」
「そういうことは、やっぱり元素記号とかを覚えていないとダメですよね」
「文系志望なら全部はいらないと思うわよ。他には?」
「うーん、今はこれ以上詰め込んでも忘れちゃいそうです。家に帰るときにはとこに聞くことにします。化学と物理はいつも教えてもらっているので」
「そうそう。はとこ君がね、放課後に佐倉のお迎え係で学校に来てくれるって。良かったわね」
「はい。いっつもよっちゃん……はとこに甘えてばかりで」
「いいじゃない。近くに親戚がいるんだから。まなも私に甘えてくれてもいいんだけど」
「同じ学校だから……先生の望み通りというのは難しいと思います」
「そっか。あの子はね、アトピー性皮膚炎が酷くてプールに入れないの」
確かにアトピー性皮膚炎の人はプールは負担がかかると思う。
「だから中学から?」
「そう。あの子は食べ物はそんなに多くはないからいいんだけど……金属がね……」
「大丈夫です。プラチナがあります」
「そうもいかないでしょ。まだ高校生だし。あなたも詳しいわね」
「幼いはとこがアトピー性皮膚炎と食物アレルギーがあるんですよ。見ているこっちが切ないです」
「身近にいるのね。皆が佐倉みたいに理解があるのならいいんだけど、そうではないのが現実だもの」
「でも後三年たてばもう少し楽になると思います。楽観的な言い方って無責任だと思うけど」
「ところで、佐倉は特待セであることはプレッシャー?」
「当然です。だって私は奨学金がゴールだったんですから。更に1ステージ上がったんですよ」
「奨学金だと返済があるのだから返済が無くなったのだからラッキーって思いなさい」
「そういえばそうですよね。そういうことは今を維持していたらいいってことですか?」
「分かりやすく言えばね。気休めになったかしら」
「ちょっとだけですけど。私が特待であることはまなちゃんにはまだ言わないでください。そのうち自分から言います」
「分かったわ」
学校では、じわじわと誰が特待生であるとか奨学金を貰っているとか……そんな話が噂として広がっている。私自身としては知られたくない。多分、スカートがめくれてパンツが見えた……ラッキースケベみたいなものだと思っているから。
それに私が前半クラスで数学と英語がグループAにいることから、私の冷やかしで覗きに来る人が徐々に増えてきている。大抵の人が私を見て「目立たない、たいしたことない」という評価を下して自分のクラスに戻っていく。ランク付けをするのは個人の自由だが、そこの特待生という新たなステータスが加わったら、今度はやっかみしか生じないと私は思っている。だから成績だけでも皆がある程度納得できるものでないといけないと気負っていて、肩に力が入り過ぎていたのかもしれない。
「さあ、もうすぐ授業も終わるからテーブルの上を片付けて頂戴」
「はい、本当に長い間お世話になりました」
「いいえ。ベッドの上でも勉強をする子なんて初めて見たわ」
「だって……。体調が落ち着いたから。時間は有効に使わないと勿体ないじゃないですか」
「そうだけど、もっと……皆のように今を楽しみなさい」
「前向きに努力します」
「今日はそれで許してあげましょう。口を開けて」
言われるとおりに口を開けると、えりか先生はタブレット錠剤を私の口の中に入れてくれた。ほのかにチョコレートの味がする。
「皆には内緒よ。なにかあったらこっちにいらっしゃい」
「えっ……でも……」
「たまには大人に寄りかかりなさい。じゃあ、こうしましょう。週に一度はここにいらっしゃい。時間はいつでも構わないから」
「はい、ありがとうございます」
「数学の山崎先生と一緒に授業に行きなさい。そろそろいらっしゃる頃だわ」
えりか先生がそんなことを言って暫くしてから、山崎先生が保健室にやってきた。
「佐倉、一日ここにいてもいいぞ?」
「えー、勉強したいから教室に行きたいです」
「そんなにお前は勉強が好きか?」
「好きです。知らないことを覚えることは楽しいです」
「そうか。それなら先生は佐倉の好奇心を満たさないといけないな」
「山崎先生。この子ったら、貧血が落ち着いたからってベッドの上で勉強をするんですよ」
「はあ?それは本当に勉強好きとみた。これはテストの結果が楽しみだな」
「そうやってハードルをあげないでください」
「そうか。そうでもないと思うぞ。今日の補習は家で解くように。昨日の問題も間違いはなかったぞ。この調子だともうすぐで終わると思うぞ。辛くはないか」
「大丈夫です。実は公文式で一度は学習していますから。そういえばそんな問題があったなあって程度しか覚えていないんですけどね」
「ほう。どこまで学習したのかな」
「すべてではないですが、微分積分位です。私自身文系志望なので十分だと思います」
「知識があるのなら、そんなにつらくはないだろうな。でも無理だけはするなよ」
「はい」
私はノートをカバンにしまい始める。そんな私の手から山崎先生はノートを取り上げた。取り上げられたノートは数学だった。
「このノートは?」
「それは予習用のノートです。授業の板書はルーズリーフに書いて、自宅に戻ってからまとめのノート……こっちを作ります」
私は纏めノートを山崎先生に見せた。
「かなり書き込んでいるな。分からないところはいつでも聞くから聞きに来なさい」
「はい」
ゆっくりと丸椅子から立ち上がって保健室の鏡でチェックする。
「大丈夫よ。乱れていないわよ。こうやって見ていると年頃の女の子ね」
「そうですね。いつも落ち着いているから大人っぽく見えるのですが」
「広瀬には、子供扱いを受けていたな。あれはなんだろうな?」
山崎先生は、こないだの放課後の事を言っているのだろう。
「あんなのはいつもの事です。あの手の類には慣れておりますから。後でやってくる世間の視線をやり過ごせばいいんですよ」
「何かあったのか」
「バスケ部の練習にこき使われたんだろ?中井先生から聞いたぞ」
「あらっ?バスケ部に入るの」
「入っていません。パシリをさせられただけです。私には良くあることです」
直君のやることに目くじらを立てるだけ無駄なことを私は十分なほど知っている。
「お前もかなり苦労しているようだな」
「でも。苦労は買ってまでしろっていうでしょ?えりか先生、今日はお世話になりました」
私は鞄に荷物を詰め込むと、山崎先生に「先生行きましょう」と告げてから保健室を後にした。




