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魔王が現代転生してコンビニに就職した ―― 恐怖で世界を統べた覇王が、深夜のレジで"本当の強さ"を知るまで  作者: もしものべりすと


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第七章 客層キーと、顔のない民

会計のたびに、ボタンを押す。男か女か。若いか、年寄りか。


 客は数字になった。最初はそれでよかった。



 レジにはもうひとつ、玄の知らない仕組みがあった。


 客層キー、というものだ。


 会計を終えるたび、店員は客のおおよその年齢と性別を、ボタンで入力する。若い男。年配の女。そうやって押された記録が、本部に集まる。どんな客がいつ、何を買うのか。その情報が品揃えや発注に活かされるのだと、ひかりが教えてくれた。


「最初はちょっと失礼な気もするんですけどね」とひかりは言った。「お客さんを勝手に若いとか年寄りとか、決めちゃうわけだから。でもこれがないと、誰がうちを使ってくれてるのかわからないんです」


 玄はその仕組みをすぐに気に入った。


 会計のたびに、彼は客を素早く値踏みし、迷いなくボタンを押した。男。女。若い。年寄り。客は彼の中で、きれいに分類されていった。それは軍を兵種ごとに分けるのに、よく似ていた。歩兵。騎兵。弓兵。一人ひとりの顔など、覚える必要はない。数として、束として、把握すればいい。


 覇王にとって、それは慣れた作業だった。


 民とは数だった。あちらの世界で、彼は民を収穫高で測った。何人の兵を出せるか。どれだけの税を納めるか。一人ひとりに名があり、暮らしがあることを、彼は気に留めなかった。気に留める必要が、なかった。


 だがある夜、その分類がほころびた。


 深夜、ひとりの客が来た。くたびれた背広の、中年の男だった。男は酒の缶をいくつも籠に入れ、それから惣菜の棚の前で、長いこと迷っていた。玄はレジでその様子を、ぼんやりと見ていた。


 男は結局、いちばん安い握り飯をひとつだけ取ってレジに来た。


 会計をしながら、玄は男の手元を見た。指が震えていた。目が赤かった。男からはすでに酒の匂いがした。これから家で、ひとりで飲むのだろう。その背広は肩のあたりがくたびれて型崩れしていた。


 玄の指が客層キーの上で、止まった。


 中年の男。それだけのはずだった。だがその瞬間、玄の頭に、押すべきボタンとは別のものが浮かんでしまった。この男は何に疲れているのか。なぜ、こんな時刻に、ひとりで酒を買うのか。誰かが家で待っているのか。それとも誰も。


 考えても答えの出ない問いだった。


 なのに、いったん浮かんだその問いは、消えなかった。男はありがとうとも言わずに、缶の詰まった袋を提げて夜の中へ消えていった。その背中を玄は目で追っていた。数字ではなく、ひとりの男として。


 なんだ、これは。


 玄は自分の胸の内の、奇妙なざわめきに戸惑った。彼はこれまで、何万という民を、数として処理してきた。一人ひとりの事情になど、心を動かしたことは、一度もなかった。なのに、見ず知らずの中年の男の震える指が、彼の胸に妙に残っている。


 それからの玄は、客層キーを押すたびに、奇妙な迷いを覚えるようになった。


 この若い女はなぜ毎晩同じ時刻に、同じ栄養補助の食品を買うのか。きっと、忙しいのだ。この老人はなぜ新聞と、小さな菓子をひとつだけ買うのか。誰かに、土産にするのか。ボタンはただ若い女、年配の男としか記録しない。だがその奥にひとつひとつ、語られない暮らしがあった。


 数字の裏に、顔があった。


 彼は生まれて初めて、民の顔を見ようとし始めていた。


 その夜、休憩室で、玄はミンと二人になった。


 ミンは賄いの握り飯を手に、窓の外を見ていた。深夜の窓には何も映らない。ただ、自分の顔と店の灯りが、黒い硝子にぼんやりと浮かぶだけだ。ミンの目はその向こうの、もっと遠くを見ているようだった。


「ミン。どうした」


「……ンー」ミンは力なく笑った。「コンバン、ツキ、キレイ。クニの、ツキと、オナジ」


 月。海の向こうの故郷でも、同じ月が出ている。ミンはそれを見上げていた。たどたどしい言葉の奥に、深い寂しさが滲んでいた。


「クニに、ハハ、イマス。ボク、シンパイ、カケテル」ミンは握り飯を握ったまま言った。「デモ、カエレナイ。オカネ、ナイ。ベンキョウ、オワルまで」


 玄は黙って、その横顔を見た。


 帰れない。故郷へ。玄もまた、同じだった。失った世界。あの玉座。それを取り戻すために、彼はこの世界にいる。だがいまの玄には、ミンの寂しさが、かつてないほど近く感じられた。彼もまた、よそ者だった。帰る場所を失った者の心細さを、玄はようやく、わが事として知り始めていた。


「ミン」玄はぼそりと言った。「お前はひとりではない」


 言ってから、玄は自分の言葉に驚いた。誰かを慰める言葉など、彼の語彙にはなかったはずだ。命じる言葉。罰する言葉。だがいま口をついて出たのは、そのどちらでもなかった。


 ミンは玄の顔を見て、ぱっと子どものように笑った。


「ゲンさん、ヤサシイ」


「……世迷い言を」


 玄はぶっきらぼうに顔をそむけた。だがそむけたその頬が、ほんの少し熱かった。優しい。生まれて初めて、誰かに、そう言われた。覇王の人生で、ただの一度も向けられたことのない言葉だった。


 胸の奥の凍った場所が、また、かすかに軋んだ。


 そんなある夜、玄はふと、あることに気づいた。


 佐々木さんが来ない。


 いつも夜中に、あの茶色い煮物を買いに来る老人。真壁がたったひとりのために棚に残している、あの煮物。その客がここ数日、姿を見せていなかった。


「ミン。佐々木という老人を、見たか」玄は尋ねた。


「ササキさん? ンー……サイキン、見テナイ、です」ミンは首をかしげた。「マエはマイバン、来テタ。デモ、コノゴロ、来ナイ」


 玄は煮物の棚を見た。


 いつもなら、ひとつ減っているはずのその棚に、煮物が手つかずで残っていた。賞味の期限が近づいていた。このままでは廃棄になる。


 以前の玄なら、何とも思わなかっただろう。死に筋がひとつ、捨てられるだけのこと。だがいまの玄の胸には、あの言葉が棘のように刺さっていた。売れるのと、喜ばれるのは違う。


 あの老人はどうしたのだろう。


 病に倒れたのか。それとも何か、もっと悪いことが。ひとり暮らしの老人が、ふいに姿を消す。それが何を意味するか、玄にも薄々わかった。深夜のこの店は、そういう人々の最後の灯りでもある。玄はそう気づき始めていた。


 彼はレジ脇の煮物を、そっと手に取った。


 茶色い、地味なパック。なんの変哲もない、惣菜のひとつ。だがそれはひとりの老人が毎晩この店に足を運ぶ、たったひとつの理由だった。その理由がいま、途切れている。


「真壁さん」玄は店長を呼んだ。「佐々木という老人は、どこに住んでいる」


 真壁は玄の顔を見て、少し驚いたようだった。それから、ふっと、優しい顔になった。


「あんた、気にしてるの。佐々木さんのこと」


「……ただ、煮物が余っているだけだ」


 嘘だった。煮物のことなど、本当はどうでもよかった。気がかりだったのは、あの背中だ。毎晩、判で押したように同じ品を買い、ひとことも喋らず帰っていく。あの小さな背中だ。その背中がいま、どこにあるのか。彼はそれを知りたかった。だがなぜ知りたいのか、自分でもうまく言葉にできなかった。その問いだけが、胸の奥で、静かにくすぶり続けていた。一度知ってしまえば、もう、知らなかった頃には戻れない。覇王はその不可逆の重みを、まだ知らずにいた。


 玄はぶっきらぼうに答えた。だがその声には彼自身も気づかない響きが混じっていた。


 真壁はそれ以上は何も言わず、ただ小さく頷いた。


 その夜、玄は知ってしまっていた。押すべきボタンの数字の向こうに、ひとりひとりの顔が確かにあることを。一度知ってしまえば、もう、知らなかった頃には戻れなかった。

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