第五章 ひっくり返った世界
最高位の存在が、最下位の新人になる。
床を磨きながら、王はそれを「転落」と呼んだ。命令ではなく、命令される側へ。
働き始めて数日が過ぎた。
黒木玄の日々は、覇王の人生を丸ごと裏返したものだった。
あちらの世界で、彼はすべての頂点にいた。誰もが彼を見上げ、彼の言葉を待ち、彼の機嫌を窺った。だがこの店で、玄は最下層にいた。新人。それも何ひとつまともにできない新人だ。彼は指示を待つ側になり、教わる側になり、叱られる側になった。
とりわけ彼を打ちのめしたのは、清掃だった。
「玄さん、次、トイレ掃除お願いできます?」
ひかりが屈託なくそう言ったとき、玄は一瞬、自分の耳を疑った。
便所。客が用を足す、あの場所。それをこの俺が磨く。覇王がひざまずいて、便器を。
彼の中の何かが、激しく抵抗した。だが彼は何も言えなかった。ここではそれが彼の仕事だった。彼は黙って、洗剤の入った容器と、青いブラシを受け取った。
狭い清掃用の小部屋には、薬品の匂いが満ちていた。鼻を刺す、刺激的な匂い。彼はその匂いを吸い込みながら、便所へ向かった。
床に膝をつき、便器に向き合う。手の中のブラシが、ひどく重く感じられた。山を砕いてきたこの手で、便器を磨く。屈辱という言葉では、足りなかった。それはもう、彼という存在の根幹を、揺さぶる行為だった。
手が止まった。
できない。やはり、できない。誇りが最後の一線で、彼の腕を縛りつけた。
そのときだった。
隣の手洗い場で、人の気配がした。見ると、店長の真壁がしゃがみ込んでいた。鏡の水滴を布で拭き上げている。それが終わると、彼女は床にこぼれた水を、雑巾で丁寧に拭き取った。誰に命じられたわけでもない。汚れているから拭く。ただそれだけの理由で、店長自らが床を拭いていた。
玄はその背中をただ見つめた。
あちらの世界の王は、決して床を拭かなかった。それは下々の仕事だった。王が手を汚すなど、あってはならないことだった。だがこの女は――この店で最も上に立つはずの者が――誰よりも先に、最も汚れた場所へ手を伸ばしていた。
「店長」玄は思わず声をかけた。「なぜ、あなたがそれを」
真壁は手を止めずに答えた。
「なぜって、汚れてるからよ」
「だがあなたはここの長だろう。命じればいい。下の者に」
真壁はようやく手を止め、玄を振り返った。その顔に、咎める色はなかった。ただ、少し可笑しそうで、どこか真剣な色があった。
「長だからこそ、よ」と彼女は言った。「上に立つ人がいちばん楽してたら、下の人はついてこない。私が便所を磨くのを見てるから、ひかりちゃんもミンくんも、嫌な仕事から逃げない。率いるってのはね、いちばん前で、いちばん汚れることなのよ」
玄は雷に打たれたように、動けなかった。
率いるとはいちばん前で、いちばん汚れること。
その言葉は彼が四十年近く信じてきたすべてを、根こそぎ覆すものだった。彼にとって率いるとは、いちばん高い場所から遠くを見下ろすことだった。いちばん安全な場所で、いちばん多くを得ることだった。誰かのために汚れるなど、考えたこともなかった。
真壁はそれ以上は何も言わず、また鏡を磨き始めた。
玄はゆっくりと、便器に向き直った。
ブラシを握る手から、力みがすっと抜けた。彼は磨き始めた。ぎこちなく、しかし、一心に。便器の縁、底、見えない裏側まで。汚れが落ち、白い陶器が現れていく。それを見たとき、玄の胸に、覚えのない感覚が灯った。
何かをきれいにした。
それは何かを壊すのとは、正反対の感覚だった。彼はこれまで、壊すことしか知らなかった。城を軍を国を。だが汚れたものを磨き、もとの清らかさを取り戻す。その小さな行為に、彼は奇妙な満足を覚えた。誰かがここを使う。その誰かが少しでも気持ちよく使えるように。そんな思いが初めて、彼の手を動かしていた。
掃除を終え、彼は手を洗った。真壁はもういなかった。
その日、玄はもうひとり、奇妙な同僚と出会った。
バックヤードと呼ばれる、店の裏の作業場でのことだ。納品されたばかりの飲料を、棚へ補充していると、隣で同じ作業をしている若い男がいた。浅黒い肌に、人懐っこい目をしている。胸の名札には「ミン」とあった。
「コレ、フルイのをマエに。アタラシイのを、ウシロに。です」
ミンはたどたどしい言葉で、玄に教えてくれた。古い商品を手前に、新しい商品を奥に並べる。先入れ先出しというやり方だ。先に入れたものから先に売る。そうしないと、奥の古い品が売れ残り、期限を過ぎて捨てることになる。食べ物を扱う店の、鉄則なのだとミンは言った。
「ミンはどこから来た」玄は尋ねた。
「トオい、トオい、ウミのムコウ。ベンキョウ、しに、来ました」ミンは笑った。「ニホンゴ、ムズカシイ。デモ、ミセのヒト、ヤサシイ。ココ、スき、です」
遠い海の向こうから、たったひとり、言葉も通じぬ国へ来た男。玄はミンの横顔を思わず見つめた。
俺と、似ている。
ミンもまた、よそ者だった。生まれ育った場所を遠く離れ、見知らぬ世界の片隅で、ぎこちなく手を動かしている。だがミンは笑っていた。ここが好きだと言った。同じよそ者でありながら、ミンはもう、この小さな城に居場所を見つけているらしかった。
玄は自分の手元の缶を見下ろした。古いものを手前に。新しいものを奥に。そんな単純な作法ひとつにも、客への気遣いが込められている。客がうっかり古い品を買って、嫌な思いをしないように。誰も見ていない裏の作業に、人を思う心が静かに織り込まれていた。
彼はふと、棚の最前列に並ぶ商品の、正面がきれいに揃っていることに気づいた。ミンがそれを直していた。
「コレ、カオダシ。です」とミンは言った。「マエに、ヒく。カオをソトに。オキャクさん、トりやすい」
顔出し。前出し。商品の正面を客のほうへ向け、最前列まで引き出しておく作業。そうすると棚はいつも満たされて見え、商品の顔が客に微笑みかけているように並ぶ。空いた隙間は売れ残りの匂いを生む。だから、人の手が絶えず棚を整え続ける。
玄は見よう見まねで、商品の正面を揃えてみた。乱れていた棚が、すっと整っていく。たったそれだけのことで、棚が生き返ったように見えた。彼の胸に、また、あの小さな満足が灯った。
その夜、休憩室で目を閉じたとき、玄は胸の奥の異変に気づいた。
力の核が脈打っていた。
倒れた夜には消えかけの火種のようだった、あの熱。それがわずかに、しかし確かに濃くなっている。体がこの世界に馴染み始めたのだ。力がゆっくりと、戻り始めている。
玄は暗闇の中で、胸に手を当てた。
これだ。これが満ちれば、俺は帰れる。あちらの世界へ。失った玉座へ。力で、すべてを取り戻せる。それこそが俺の望みだったはずだ。彼はそう自分に確認した。
だが不思議だった。
待ち望んでいたはずの報せだった。なのに彼の胸は、躍らなかった。むしろ、便器を磨いたときに灯った満足の熱のほうが、ずっと生々しく彼の中に残っていた。
なぜだ、と玄は思った。
答えはまだ、闇の中だった。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。この店に来てから、彼はもう何度も、自分でも理解できない感覚に出会っている。握り飯の塩の味。ありがとうという言葉。便器を磨いた後の、清々しさ。それらはどれも、彼の知る支配と服従の物差しでは、まるで測れないものだった。
玄は目を閉じた。
明日も彼は青と白の制服を着る。明日も床を磨き、棚を整え、頭を下げる練習をする。覇王にとって、それは転落だった。だがその転落の底で、彼はこれまで一度も触れたことのない何かに、少しずつ手を伸ばし始めていた。




