第五話 一本道の分岐点
「おい暗之介! さっさと出てこい!」
父さんのがなり声に身震いし、即座に扉まで駆けていった。半裸のふんどし姿で板戸の引き戸を開ける。
「―――え、なんで」
知った顔の男が眼前に立っていた。
俺より三寸以上も上背の男が鋭い眼差しを向ける。家中から肌着一枚で現れた人を見ても顔色一つ変えない客人。先ほどのお仕着とは異なり、品質が高そうな着物を着用し、足には下駄を履いている。
恰好は違えど間違えようがない。正しく、薬舗の店主の暴走を止めた人―――醤油屋の店員がここにいる。
「どうしてお前がここにいるんだよ!」
思いも寄らぬ客人に対し、咄嗟の言葉が出た。失礼極まりないと考える間もなく、俺の頭は錯乱していた。約束―――あれはただの命令―――を守らなかったことは申し訳ないが、それでもここまで必要に追い回される筋合いなんてない。そうに決まってる。
「俺は話があると言った。だから来たまでだ」
「話? 俺を付け回してまで大事な話ってなんだよ!」
大事な話とやらのために尾行までするとは何たる度胸だ。俺なんかと話をしたってなんの期待にも応えてあげられないぞ。この男分かっているのか?
「一体何だい、騒がしいね。暗之助、この人はお前の知り合いなのかい?」
母さんが不機嫌そうな顔で扉の近くまで来て、ため息交じりに尋ねた。俺は「知らない人だよ!」と嘘を付く。床座から父さんも顔を出し、訪問客を見定めるような視線を送る。
「取り込み中のところ悪いが、上がらせてもらうぞ」
「は?」
醬油屋の店員が俺を退け、平然極まりない装いで家に入り、床座に上がるために下駄を脱いだ。その下駄を丁寧に揃え、踵面を彼側に向けてから腰を上げた。誰も歓迎してないにも関わらずにだ。
両親が目に角を立てながら俺を見る。それを肌で感じながら頭をより深く下げて床座まで歩く。途中で汚れた着物を手に取り着直した。呑気な客人は囲炉裏を挟んで奥の畳の上で正座をしている。
「あのすぐ帰ってくれ———ください。許可なく人んちに入って何の用ですか」
「あの時素直に待っていたらこんなことにはならなかった。それだけだ」
「それだけだって? 俺にだって色々事情があるんですよ! 大事な時間をあんたのために割く理由はない!」
「一理あるな。じゃあ単刀直入に言わせてもらう。お前―――暗之助と言ったな、日本を平和な国にするための活動に興味はないか?」
如何にも冷静沈着といった様子で突拍子もないことを述べる男。何を言っているのかさっぱり分からない。床座で俺の後ろに腰を下ろした両親もきっと困惑しているに違いない。
「あんた何言ってんの。意味不明なんだけど」
「少し抽象的すぎたか。要は俺とともにこの家を出て、社会のためになることをしようというわけだ」
「何が言いたいの? まさか俺なんかに政治家になれとでも言うつもり?」
「俺についていく意志があればのちに分かることだ」
詳しい話もせずに曖昧な表現で俺を急き立ててくるこの男―――そういえば名も名乗ってないぞ―――に不信感しか募らない。二週間前に初めて会った時から内側の見えない男だと思っていたが、ここまで感情を読めない人に会ったことなどなかった。なにより俺を射貫くような瞳が居心地の悪さを物語っている。
「さっきから聞いてれば、俺の許可なく息子を口説かないでいただきたい」
父さんがついに口を開いた。冷静を装うが隠し切れない苛立ちを空気で感じる。
母さんも「ほんとよ。あなたいい加減にしなさい」と父さんに賛同した。
「だがお前たちは暗之助を大事にしてないじゃないか」
「「はあ?」」
突然核心付いたことを男が言い出した。父さんと母さんが俺を引き留めてくれることにどことない嬉しさが込み上がってきたところに、また思いがけぬ発言が飛んできた。
動揺で手が小刻みに揺れ動く。
「外にいても丸聞こえだったぞ。先ほどの会話内容でお前たち―――特に父親のお前が普段暗之助にしていることは想像に容易い。暴言及び暴行を日常的に振るっている。俺が訪ねた時も丁度暴力に身を任せようとしていた。違うか?」
「……」
後ろを振りかえれない。苦渋にまみれた父さんの言葉にならない声が轟いている。
驚かざるをえなかった。男が扉を叩くまでの間に俺たちの話を聞いていて、そこから造作もなく結論付けてしまったんだから。
「暗之助。俺はお前の意見を尊重する。お前がこの泥家に残るなら俺は止めない。だが、お前には才能がある。その才能を活かさずにこの家で親の皮を被った化け物に殺されるか、俺とともに意義のあることをするか、どちらを選ぶ? 自分の心に聞いてみろ。聞くまでもないと思うがな」
(この人は一体何を言ってるの……? 父さんが親の皮を被った化け物だって? 俺には才能があるって? そんなのあるわけない……でも―――)
今までそんなことを誰一人からも言われてこなかった。他に行く当てがない俺は一生この家で親とともに暮らし、働いて働いて働いて、金も友達も幸せもなく死んでいくんだと思ってた。だって俺にはこの道しかないから。この選択肢以外選べないから。
親切にしてくれる人はいた。それだけで泣きたくなるほど嬉しい。でも俺は……根本から救ってほしかった。もっと世界を知りたい、親に縛られない自由な世界に生きたかった。一つしか道のない俺に分岐点を作ってくれる、そんな人を見つけたかったんだ……。
「いい加減にしろよ。こいつは俺の子だ。他人が何と言おうと俺の許可がなきゃここを出させない」
「生憎お前の許可は不要だ。残るか出るかは暗之助自身が決めることだ」
「……うるっせえな。てめえの戯言に耳傾けてやっただけ感謝しろ。だがもう終いだ。さっさと帰れ、ガキ」
「暗之助の答えを聞くまで帰るつもりはない。そっちこそ黙ったらどうだ」
「てめえ……! さっきから調子に乗りやがって! くそ野郎が!」
俺は短気な父さんを宥める方法を知らないから両手を無意味に動かす程度しかできなかった。そのため父さんの怒りがどんどん高まり、ついに足を出して客人に向かった。力強くこぶしを握り、思い切り腕を後ろに引いた。そして力の限りを振り絞り、それを相手に食らわせようとした。
しかし渾身の一撃をひょいと軽くかわし、目にも止まらぬ速さで懐から何かを取り出し、それを父さんの右頬に直撃させた。
無様に横たわる父さんの周りには、無秩序に広がった札束が視界を埋めていた。




