後編
ギィ、と音を立てて扉が開いた。冷たい空気が流れ込み、思わず肩が震える。
そこに立っていたのは、アレクシス殿下。その姿を目にした瞬間、胸がぎゅっと縮んだ。
整った顔立ち、揺るぎない瞳。いつもと同じ、冷静で堂々とした佇まい。
――いや、いつもと違う。ほんの少しだけ眉が寄っているように見えた。僕は、その表情の意味がまるで掴めない。
「リオネル、どうして逃げる?」
静かに問う声。責めている調子ではない。けれど落ち着いた物言いほど、僕の心を掻き乱した。
「に、逃げてなんか……!」
喉がひっくり返るような情けない声を出してしまう。必死に平静を取り繕おうとしても、呼吸が乱れる。
殿下は部屋にゆっくりと足を踏み入れた。背筋に冷たい汗がにじむ。僕は逃げ場を失った小動物みたいな気持ちになって、後ずさりした。
「荷物をまとめていると聞いた。どこへ行くつもりなんだ」
殿下の視線が、ぐしゃぐしゃに詰め込んだ服の方に向く。
「っ……それは……」
声が震えて言葉にならない。
(どうしてそんな普通の顔で聞けるんだ。僕がどんな気持ちで……)
「俺は許さないぞ、リオネル」
短く放たれた言葉に、胸が締め付けられる。
「ゆ、許さないって……何をですか……?僕が殿下を失望させたこと、ですか……?」
震える声が勝手に漏れる。必死に抑え込んでも、言葉の端が嗚咽ににじんだ。
(そうだ、きっと僕は迷惑をかけたんだ。殿下の足を引っ張ってばかりで――)
ところが、殿下は驚いたように目を瞬いた。そして、まるで理解できないというように首を傾げる。
「……失望?何の話だ」
「え……?」
心臓がひっくり返るような感覚。
(この状況で分からないなんて、そんなはず……)
「婚約は今日で終わりにすると、そう言ったじゃないですか……!」
思わず叫んでいた。唇が震え、涙がこぼれそうになるのを噛みしめてこらえる。
殿下は黙り込んだまま、僕の顔をじっと見つめた。
そして、ゆっくり口を開く。
「ああ……そう言ったが?」
「っ、じゃあ、どうして……っ!」
頭の中で何かが弾け飛んだようだった。問いをぶつける僕とは対照的に、殿下はなぜか静かに頷き、落ち着いた声で言う。
「婚約は終わりだ。お前との――結婚の準備に移る」
「…………はい???」
脳内でプツンと糸が切れたような音がした。
思考が一瞬で吹き飛び、視界が真っ白になる。
「け、けっ……結婚……?」
情けなく裏返った声が、自分の口から勝手に出た。
(ちょっと待って、何言ってるのこの人……!?)
頭がぐるぐる回って息がうまく吸えない。そんな僕の混乱など意にも介さない様子で、アレクシス殿下は淡々と告げた。
「式場の設営はほぼ完了している。あとはお前の衣装を決めるだけだ」
「衣装!?ちょっ、まっ――!?」
思考が回らないし、口も回らない。
「なんで衣装!?ていうか式場!?いつの間に!?僕、聞いてません!!」
殿下は僅かに眉を寄せた。その表情は苛立ちというより、純粋に疑問を持っただけに近い。
「言ったつもりだが……」
「絶対言われてません!だって僕――婚約破棄されると思って荷物まとめてたんですよ!」
叫ぶように吐き出した瞬間、殿下はきょとんと目を瞬かせ――次の瞬間、静かにため息を落とした。
「なるほど。……そう解釈していたのか」
「そう、じゃないんですか!?」
胸が苦しくて、声が震える。
「婚約は今日で終わりにすると言われたら、普通そう思うでしょう!?僕、いらないんだって――」
「いらないどころか、お前以外あり得ない」
「え……?」
殿下が一歩、すっと距離を詰めてきた。その動きだけで心臓が跳ね上がる。
逃げようと半歩下がろうとしたけれど、背後はベッドで、もうこれ以上下がれない。
「誤解させたのは俺の落ち度だ。婚約では不十分だと思った。だから終わらせると言った」
「どこをどう解釈したら、それが結婚の意味に……!」
「当然だろう。婚約と結婚は別物だ。婚約は途中段階にすぎない」
「いや、そういうことじゃなくて……っ!」
殿下はさらに距離を詰め、僕の手元の荷袋にちらりと視線を落とした。その眼差しは静かだけど、底に強い光が揺れている。
「逃げるつもりなら、止める」
「ひっ……!」
(こ、怖……いや怖くはないけど……なんかすごい迫力……!)
「許さないからな。俺から離れることも、俺以外の未来を選ぶことも」
声が低く落ち、背筋を震わせた。
「だから、俺達の婚約は今日で終わりにすると言ったんだ」
(なんでそこでその台詞なの!?誤解しか生まないじゃん!)
頭を抱えたくなるほど混乱しているのに、殿下の瞳から目を逸らせない。喉がぎゅっと締め付けられて、声にならない息だけが漏れる。
「リオネル」
殿下の声音が、先ほどまでの冷徹な響きと違い、驚くほど柔らかくなる。冬の空気を溶かす春の風みたいに、そっと触れてくる声。
「お前の居場所は、ここだ。俺の隣だけだ」
その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。どう返せばいいのか分からない。唇が震え、ただ呆然と殿下を見上げるしかできなかった。
必死に気持ちを落ち着けようとするのに、鼓動が暴れて聞こえるほどうるさい。
「……ぼ、僕、婚約破棄されるんだって思って……っ」
なんとか絞り出した声は、頼りなく掠れていた。
殿下の眉がきゅっと寄る。まるで――心底理解できない、という顔。
「俺がそんなことを言うわけがないだろう」
「い、いや、でも!さっきのあの長い沈黙……!あれはもう完全に終わりの空気で……!」
「沈黙したら婚約破棄なのか?」
殿下が真剣な顔で首をかしげる。その表情があまりにも素で、腹立たしい。
「だって!殿下、ずっと黙って、目も合わせてくれなくて、まるで……っ」
「考えていただけだ」
「……え?」
「どう言えば上手く伝わるか、言い方を考えていた」
殿下はそれだけ言うと、少しだけ視線をそらした。頬が――気のせいじゃなければ、ほんのり色づいている。
「……正直に言うのは、少し照れるな」
えっ、何その破壊力。ちょっと待ってほしい。鋼みたいに強くて完璧な人が、こんなふうに照れるなんて。僕の心臓はもう限界の音を立てている。
思考が混線している僕の手を、殿下がそっと包んだ。大きな掌。いつも剣を握っているはずなのに、驚くほど優しい温度。触れた瞬間、指先まで痺れるような感覚が走った。
そして、逃がさないように強く、ぎゅっと指を絡め取られる。
「俺には、お前が必要なんだ。勝手にいなくなるな」
低い声が、耳元すれすれの距離で震える。その声音は、怒りよりもずっと深く、切なくて――
(えっ……これ、拗ねてる……?)
そう気づいた瞬間、胸がぐらりと揺れた。完璧な殿下が、こんなふうに感情を隠せず零すなんて。
「……っ、そ、そんなつもりじゃ……!」
声にならない悲鳴みたいな言葉が漏れる。本当は言い返したいのに、殿下の指が離れない。その温度だけで、頭が真っ白になる。
殿下は僕の手を包み込んだまま、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。その笑顔は、いつもの鋭い表情とはまるで違う。穏やかで、あたたかくて、触れたら溶けてしまいそうで。
「じゃあ、もう婚約破棄なんて二度と言うな。これからは、ずっと俺の隣にいろ」
さらりと言ったくせに、視線は真剣そのものだ。そのまっすぐさに、思わず言葉が詰まる。言い返そうと口を開きかけた瞬間、殿下の指がぎゅっと絡んだ。
「お前がいない朝なんて耐えられない。目が覚めたら、隣にいてほしい」
「ひえっ!?で、殿下……っ、近いです近いですからっ……!」
必死に後ずさろうとするけれど、いつの間にか腕を回され、腰をがっちり捕らえられていて一歩も逃げられない。殿下の胸板がすぐ目の前に、視界いっぱいに広がる。
「逃げるなよ、俺のリオネル」
「――っ!」
耳元で囁かれて、思考が爆発した。顔が一瞬で赤くなる。そんな僕を見て、殿下は嬉しそうに目を細める。
こんな顔、僕だけにしか見せないんだろうと思ってしまった瞬間、胸がぎゅっと鳴った。
「も、もうっ……勘弁してくださいぃ……!」
情けない声で訴えると、殿下はくつくつと喉の奥で笑う。
「勘弁するわけないだろ。やっと掴まえたんだ」
腕の力がさらに強くなった。逃げ道なんてどこにもなくて、ただ苦しいくらいに近いのに、離れたいなんて少しも思えない自分がいる。
「こ、こんなところで抱きしめないでください……っ!近衛兵さんたちが外に――いや、めっちゃ増えてるー!?」
開けっ放しになっていた扉の外を見ると、いつの間にか近衛兵だけでなく従者たちまでずらりと並び、ぎゅうぎゅうに廊下を埋め尽くしていた。
全員が満面の笑みで、手には花びらやクラッカーまで用意している。なんでそんな準備がいいの!?
「殿下ーー!おめでとうございます!」
「どうか末永くお幸せにー!」
一斉に盛り上がった祝福の嵐に、顔が爆発するほど熱くなる。恥ずかしすぎて床にめり込みたい。
なのに殿下は、僕の背に腕を回したまま、どこか誇らしげに頷いている。
「聞いただろう。もう逃げ道はないからな」
「うわあああああぁ!恥ずかしさで死ぬ……!」
笑い声と花びらが舞う中、殿下の手はしっかりと僕の手を握り、離さなかった。その指の温度だけが、やけにまっすぐ胸に響いてくる。
――こうして、婚約終了宣言から始まった大騒動は、甘い結末へと転がり込んだのだった。
きっと、これからもっと賑やかで、もっと甘い未来が待っている。




