一章 引き返せぬ朝
朝は、音で始まった。
低く、腹の底を叩くような衝撃が、森の奥から連なって押し寄せる。地面が揺れ、土壁が軋み、吊るされた鍋がぶつかり合って甲高い音を立てた。次の瞬間、空気が破裂したかのように弾け、家屋の向こうで黒い土煙が立ち上る。
砲撃だ。
晋作は伏せた姿勢のまま、瞬時に距離と方向を測った。近すぎる。村を囲む円が、すでに描かれている。
「算盤を弾くより先に、死が届く距離か」
幕末の戦場に鳴り響いたアームストロング砲の轟音さえも、この近代火力の連続性には及ばない。だが、その衝撃の合間にある「呼吸」を、晋作の耳は正確に捉えていた。
「散れ!」
叫びはしない。手振りだけで合図を送る。昨夜のうちに決めた通り、残った者たちは三方向へ動き出した。走らない。物音を立てない。恐怖よりも、決め事を優先する顔だ。
次の爆発は、畑を抉った。乾いた土と水路の水が混じり合い、泥が雨のように降り注ぐ。悲鳴が上がりかけ、途中で噛み殺される。
太陽は高くにあるはずなのに、舞い上がる土煙と焦熱のせいで、森の底には底冷えするような闇が淀んでいる。鳥の声が消えた後の静寂は、耳の奥でキーンと鳴る金属音に近い。それは、大軍が動く前に必ず生じる、大気が圧し潰される予兆だった。
空が、唸った。
プロペラの音。
いや、複数だ。
晋作は一瞬だけ空を見上げ、すぐに視線を落とした。見る必要はない。来ると分かっているものを、確かめる意味はない。
「伏せろ!」
今度は声を出した。直後、森の端が白く閃き、衝撃波が背中を叩いた。炎が舐めるように枝を走り、湿った葉が一斉に蒸気を噴き上げる。焦げた匂いが、喉を焼いた。
——功山寺だ。
不意に、あの夜の感覚が重なる。
数で劣り、装備で劣り、それでも動かねばならなかった瞬間。理屈ではなく、流れを掴むしかなかった局面。
肺に流れ込む空気は、かつて下関の病床で吸った、あの季節外れの冷たい雨の匂いとは似ても似つかない。肌にまとわりつく湿った熱気と、ナパームが焼き払う森の悲鳴。だが、闇の奥に潜む死の気配だけは、あの頃と同じ冷徹さを持って彼を凝視していた。
「……同じだな」
呟きは、自分に向けた確認だった。
村の外れで銃声が跳ねた。短く、間隔がある。撃ち合いではない。追わせるための音だ。若い者が、役割を果たしている。晋作はこれまでの経験から、音の主たちが置かれている状況を瞬時に逆算する。
「一、二……狙いは正確だ。だが、怯えがある」
銃声の余韻に残る微かな乱れを、晋作の聴覚が鋭く拾い上げる。敵に恐怖を与えるための音。しかし、その音が敵の本隊をどの程度引きつけているか。情報の断片を、頭の中の戦域地図に書き込んでいく。
晋作は這うように移動し、焼け残った倒木の影に身を滑り込ませた。視界の先、木立の隙間に、異質な直線が見える。ヘルメット。銃口。訓練された動き。
来ている。
しかも、ためらいがない。
「……早い」
ベトコンの知識が、冷静に告げる。これは掃討だ。威嚇でも報復でもない。村そのものを“地図から消す”ための動き。
選択は、すでに済んでいる。
晋作は銃を握り直した。AKの冷たい感触が、掌に馴染む。引き金の重さも、反動も、もう分かる。奇妙なほど、自然だった。
「撃つな、まだだ」
近くに伏せていた男が、唇だけを動かして問うような視線を向ける。晋作は首を振った。
「近づける。十分に」
敵が安心した瞬間、人は必ず形を崩す。その一瞬を、彼は何度も見てきた。時代も、場所も違うが、人の癖は変わらない。
「どんな鋼の規律も、死なないと確信した瞬間に錆びる」
獲物を待つ蜘蛛のような静止。晋作の心拍は、驚くほど平坦だった。敵兵の軍靴が湿った土を踏む「グチャリ」という音の質感さえも、距離を測る物差しに変わっていく。
再び、空が吠えた。
今度は近い。熱が、皮膚を刺す。
炎が走る。家が燃え、屋根が落ちる音が重なる。
村が、壊れていく。
そこに立っていたのは、一人のベトナム人青年ではなかった。返り血を浴びてもなお、戦場を散歩するかのような不敵な笑みを浮かべる男。その瞳に宿る、時代を数百年飛び越えてきた狂気に、森の向こうの狙撃手さえも一瞬、引き金を引く指を凍りつかせた。
胸の奥で、何かが静かに折れた。
だが同時に、別の何かが、確かに立ち上がる。
「……よし」
晋作は低く息を吐き、銃口を定めた。
ここから先は、守るための時間ではない。
逃がすための時間でもない。
巨大な力に、どう抗うか。
その一点において、彼はすでに答えを持っている。
引き金に、指をかけた。
朝日はすでに高く、
森と村と、これから始まる戦いを、等しく照らしていた。




