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奇兵の魂、南天を衝く  作者: りょう
第二部
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序章 炎の転生

――それは、この戦争が始まる、ほんの少し前の記憶だった。


慶応三年四月十四日。長州藩領下関、桜山南側の屋敷。


雨が降っていた。季節外れの冷たい雨が、遠い山々を覆い尽くし、藩境の空気さえも湿らせていた。開け放たれたままの障子の隙間から忍び込む湿気を帯びた風は、部屋に充満した血と煎じ薬、そして床に置かれた伽羅の香が混ざり合った独特の匂いを、僅かに、しかし執拗に揺らめかせた。


畳の上に伏した男の胸は、まるで砂を噛んだような音を立てていた。呼吸は浅く、喉からはヒューヒューと、壊れた鞴のような、生命の終わりを告げる音が響く。激しく咳き込むたびに、生命の営みそのものが熱い血液の飛沫となって、傍らの手拭いを朱色に、そしてその下の畳を濃い茶色に染めていく。


男の名は高杉晋作。藩論を覆し、幕府を打ち破り、日本の未来をこじ開けた風雲児。だが、その命は、結核という陰湿な病によって、志半ばで摘み取られようとしていた。二十九歳。あまりに短く、あまりに激しすぎる生涯だった。


身体はすでに、彼の意志を伝える道具ではない。指先一つ動かすにも激しい疲労を伴い、深く息を吸い込むことさえ、肺をナイフで掻き回されるような拷問であった。


彼は死を恐れてはいない。だが、己の未完の革命が凡庸な結末を迎えることを恐れていた。長州は立ち上がった。徳川の世は終わるだろう。だが、その先の新しい国で、己が創設した奇兵隊、あの身分を問わぬ暴れ者たちが、一体どのような顔をして、どのような精神を持って生きていくのか。それをこの目で見届けることができない。胸の奥に残されたのは、強烈な焦燥感と、尽きることのない渇望だけだった。それは、人生という舞台の幕が、己の意に反して閉じられることへの、根源的な怒りであった。


「……おもしろき」


晋作は、血の気が失せた乾いた唇を震わせた。喉が焼け付くようだ。


「こともなき世を、おもしろく」


彼は、下の句を継ぐ力を失っていた。意識は薄れ、視界は目の前の手拭いの赤さえも認識できなくなっていく。この世に対する未練も、情熱も、あの渇望も、すべてこのまま無に帰すのか。


そう思った、意識が停止する最後の刹那だった。

それは戦の只中ではない、ただ一人の男の生の終わりであった。


熱い。強烈な熱波が、冷え切っていたはずの彼の意識を容赦なく、そして暴力的に襲った。それは結核の病的な熱ではなく、皮膚を、肉を、骨までをも瞬時に炭化させるような、物理的で、純粋な業火の熱だ。


静寂であるはずの死後の世界は、一瞬にして轟音に支配された。それは雷鳴や砲声ではなく、いくつもの金属が引き裂かれ、大気が爆発し、そして人間の断末魔の叫びが混ざり合った、この世の音ではありえない混沌の響きであった。


彼の意識は、闇の中で強烈な磁場に引かれ、千切れ、引き裂かれそうになりながら、ある一点の極限的な感情へと吸い込まれていった。それは、彼の志が持っていたエネルギーと、同じ質量を持つ、圧倒的な絶望であった。


一九六八年一月。

彼の死から、ちょうど一世紀後の南ベトナム、サイゴン北西部。ジャングル。


空は、文字通り燃えていた。熱帯の密林を焼き尽くすのは、人間が造り出した最も残酷な兵器であった。米軍の攻撃機が投下したナパーム弾が、樹液と泥と血の混ざった大地を舐め、木々を一瞬で炭化させ、周囲の空気そのものを灼熱の檻に変えていた。熱風が皮膚を襲い、喉を灼いた。


「援護! 弾薬を! クソッ、衛生兵はどこだ!」


誰かが叫んでいる。その言葉は、彼の過去の記憶に存在しない音の並びだ。しかし、その声に含まれる絶望と怒り、そして巨大な力に押し潰される恐怖の感情は、万国共通のものだった。


泥と血と焦げた木の葉にまみれた地面に、一人の若い男が倒れていた。彼の名はファム・トゥアン。二十歳。南ベトナム解放民族戦線、ベトコンの兵士である。


彼の体は、至近距離でのクラスター爆弾の爆発によって吹き飛ばされ、すでに人間の形を保っていなかった。右足は太ももの付け根から、血肉が泥に混ざり、腹部からは生命が赤い濁流となって、土壌に吸い込まれていく。呼吸は浅く、意識は、底なしの沼地へ沈むように急速に遠のいていた。


死ぬのか。こんな地獄で。


トゥアンの意識は、最後の抵抗を試みていた。故郷の母の顔、幼馴染のリーの笑顔が、炎の揺らめきの中で歪んでいく。彼は知っている。フランスによる植民地支配から続く、この国の抑圧の歴史を。俺たちの国を、俺たちの手に取り戻す。ただそれだけのために、飢えと恐怖に耐えて戦ってきたのに。巨大な鉄の鳥を操る異国の軍隊に、虫けらのように焼き殺されるのか。


その純粋で強烈な無念と、すべてを諦めきれない怒りの感情が、一世紀前の日本から来た未完の志と、時間と空間の壁を突き破って、運命的な共鳴を果たした。


ドクンッ、とトゥアンの心臓が、まるで停止寸前の機械に新たな電流が流れたかのように、不自然に大きく、力強く跳ね上がった。


死に行く若者の肉体に、別の意志が、別の情熱が、別の言葉が、異物として強引に割り込んだ。それは一世紀前の日本で、時代の扉をこじ開けようとして燃え尽きた、荒ぶる革命の魂だった。


二つの意識は、灼熱の中で衝突し、混ざり合い、そして一つの異質な、強靭な存在へと融合した。


激痛が走った。魂が器に定着する際の、記憶を強制的に書き換えられるような強烈な衝撃。トゥアンが持っていたゲリラ戦の訓練、村での生活の記憶。それらがすべて、晋作の持つ漢詩の素養、長州の軍学、そして京都での政治的駆け引きの記憶と、乱雑に、しかし強固に結びつけられた。それは、単なる魂の乗り移りではなく、異なる時代の知識と情熱の強制的な同化であった。


カッ、と男は目を見開いた。


そこに宿る瞳は、先ほどまでの死を前にしたあどけない青年のものではない。百年の時を超えて再び戦場に立たされた、修羅場をくぐり抜けた猛獣だけが宿す、凄絶な光が宿っていた。


彼は、重い鉛のように感じた体を、ゆっくりと、しかし確実に、泥の中から起こした。


「ここは、どこだ。この銃は、何だ」


口をついて出たのは、この時代のベトナム語ではない。硬く、そして微かな咳を含んだ長州の言葉だった。しかし、彼の脳内では、周囲で飛び交うベトナム語の怒号と、米軍の通信が、意味だけが、まるで日本語であるかのように鮮明に理解できていた。


腹部の傷が焼けるように痛むが、結核で呼吸すらままならなかった頃に比べれば、空気が吸える。生きている。彼は周囲を見渡した。


見たこともない服装の兵士たちが逃げ惑っている。頭上では、プロペラを持った巨大な鉄の塊が、耳障りな音を立てて旋回している。あれが、西洋列強の新しい黒船の類であり、この時代を支配する巨大な権威の象徴であることは、彼の経験則が直ちに教えてくれた。


敵だ。


そして、自分が手に握りしめているものを見る。刀ではない。鉄と木でできた、奇妙な筒状の武器。トゥアンという若者の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。これはAK-47。連発銃だ。引き金を引けば、瞬く間に多数の弾丸が飛び出す。刀よりも速く、火縄銃よりも圧倒的に強い。


手に持った感触は、かつて腰に差していた愛刀のような重心の偏りも、吸い付くような漆の肌触りもない。ただ冷たく、無機質で、合理性だけを突き詰めた重みがある。だが、引き金に指をかけた瞬間、トゥアンの指先が覚えている硝煙の記憶が、晋作の魂が持つ破壊の衝動と火花を散らして結びついた。これは、新しい時代の「抜刀」なのだと直感した。


 弾倉を叩き込み、ボルトを引く。金属音が夜の空気に鋭く響いた。その音は、彼の中で完全に「戦いの合図」として処理された。


 かつて奇兵隊を率いた時、手にしたのは最新のミニエー銃だった。あの時も、古い武士たちは「飛び道具など」と鼻で笑った。だが、時代を動かしたのは、常に新しい力だ。


 晋作は銃口を虚空に向け、その重さを確かめる。この銃は、使い手を選ばない。農民でも、子どもでも、引き金を引けば死を振り撒ける。それは、彼がかつて目指した「身分に依らぬ軍隊」の究極の形とも言えた。


 「……悪くない」

 誰にともなく呟く。


男の口元が、皮肉と興奮がないまぜになった三日月形に歪んだ。


死の淵から舞い戻った先もまた、血生臭い戦場か。閻魔もよほど彼という男を面白がっているらしい。


高杉晋作は、血に濡れた手でその銃を構え直した。状況は最悪だ。味方は崩れかけ、敵の火力は圧倒的。周囲は炎に包まれ、後退の道はない。


だが、それは彼が最も血湧き肉躍る状況であった。功山寺でわずか数百の非正規兵を率いて数千の幕府軍に挑んだ、あの夜と、全く同じではないか。巨大な権威に対し、己の知恵と情熱だけで立ち向かうという、最も彼好みの舞台である。


「おもしろい」


晋作は、トゥアンの肉体を通じて、泥濘の大地に仁王立ちになった。


爆音にかき消されそうなその呟きは、確かな熱と、百年の時を超えた革命の炎を帯びていた。その炎の匂いの中で、彼はまだ、自分が再びどこへ立たされようとしているのかを知らなかった。

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