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奇兵の魂、南天を衝く  作者: りょう
第一部
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第五章 選択

異変は、音ではなく沈黙として現れた。


村を包む森が、必要以上に静かだった。

鳥は鳴かず、虫の羽音も、どこかで断ち切られている。


自然がこうして息を潜める時、その理由は一つしかない。


晋作は夜明け前から目を覚まし、家の影に身を寄せて空を見ていた。

雲の流れが早い。風向きが、昨夜と違う。


来る。


確証はない。ただ、身体がそう告げていた。

思考よりも先に、呼吸の深さが変わる。


死線が近づく時、大気は奇妙なほど澄む。

四境戦争の直前、下関の海で感じた、あの張り詰めた重さ。

それが今、湿った森の匂いに混じっていた。


村の中央で、人が集まり始めていた。

長が家々を回り、男たちを呼び集めている。


「川向こうで、妙なものを見た」


斥候の言葉を、長が繰り返す。


「兵かどうかは分からん。ただ……今までとは違う」


小さなどよめき。

逃げ道、子ども、家畜。言葉は出るが、決断には至らない。


時間だけが、削られていく。


晋作は黙って聞いていた。

ここで口を開けば、流れは自分に向く。

だが、沈黙を続ければ、何も決まらない。


「……時間がない」


低い声だったが、十分だった。

視線が、一斉に集まる。


「敵かどうかは、まだ分からん」

「だが、備えていない場所は、必ずやられる」


反発が返る。


「戦えば、村は終わる」


「何もしなくても、終わる可能性はある」


説得ではない。

事実を、並べただけだった。


晋作は地面にしゃがみ込み、木切れで線を引いた。

村、森、水路、畑。


粗い図だが、男たちは自然と覗き込む。


その手つきに、迷いはなかった。

戦の勝敗は、始まる前にほぼ決まる。

机上ではなく、現場で削られた判断だけが、線として残る。


「ここを捨てる必要はない」


一拍、置く。


「だが、守るなら条件がある」


空気が張り詰める。


「子どもと年寄りは、今夜のうちに南へ動かす。灯りは落とせ」

「男は残る。役目を分ける。戦う者と、運ぶ者だ」


「撃つのは最後だ。撃てば、必ず空が反応する」


誰もが、その意味を理解していた。


長が、ゆっくりと問う。


「お前は、誰の立場で、これを言う」


晋作は、すぐには答えなかった。


兵士か。

村人か。

それとも、ただの流れ者か。


「……生き残りたい側の人間だ」


完全な答えではない。

だが、それ以上の言葉も見つからなかった。


夜が深まるにつれ、村は静かに変わっていった。

泣き声は抑えられ、荷は分けられ、人影は闇に溶けていく。


英雄的な言葉はない。

ただ、生き延びたいという切実さだけがあった。


夜明け前、森の外れで微かな光が揺れた。


双眼鏡の反射。

短い無線音。


晋作は伏せたまま、それを見た。

胸の奥が、静かに冷えていく。


——もう、把握されている。


最初の銃声は、村から離れた場所で鳴った。

誘いの音。


すぐに、別方向で動きが起きる。

撃ち合いではない。逃がすための動きだ。


合図を送る。

それだけだった。


理由を考える暇はない。

正しさを測る余地もない。


ただ、今そうする以外の選択肢が、見えなかった。


銃声が、遠ざかる。


森が、再び沈黙を取り戻す。


その静けさの中で、晋作は一つだけ理解した。


——もう、戻る場所は変わった。


功山寺で感じた、あの瞬間。

引き返せる道が、何事もなく消えていく感覚。


言葉にはならなかった。

言葉にする必要も、なかった。


夜が明ける。


森と村と、人の行方を、等しく照らしながら。


それが救いではないことを、

晋作は、まだ考えていなかった。


ただ、そうなるだろうという予感だけが、

冷えた空気の中に残っていた。


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