第四章 報告書の中の村
サイゴンの朝は早い。
湿った空気がまだ熱を帯びきらないうちから、庁舎の中ではタイプライターの音が鳴り始めていた。天井のファンが回り、紙の端がわずかに揺れる。
作戦室の壁一面に広げられた地図には、赤いピンが無数に刺さっている。道路、河川、村落。規則性はあるが、整ってはいない。前線とは常にそういうものだ。
米陸軍少佐リチャード・ハミルトンは、立ったまま地図を見ていた。コーヒーには手を伸ばさない。
第二区域、森林地帯。
ここ数週間の接触報告が、妙に均質だった。
「……減っているな」
声は低い。部下の大尉が顔を上げた。
「損耗率ですか?」
「いや。こちらの“無駄”だ」
報告書には、短い文章と数字しかない。敵影確認、接触、短時間の交戦、撤退。航空支援要請時には、現場はすでに空。繰り返されるパターン。そのどれもが、失敗ではない。だが、成功でもない。
「逃がしている、というより……」
大尉が言葉を探す。
「こちらの手順を、先回りされている感じです」
ハミルトンは頷いた。
問題は“やられている”ことではない。読まれていることだ。
米軍の物量と索敵能力を前提にした動き。その前提条件そのものを、静かに外されている。
彼は地図に視線を走らせ、一点で止めた。
森と水路に挟まれた、小さな村。
名前は重要ではない。
だが、ここを起点に「動きが軽くなっている」。
「ここだ」
指先で、ピンを弾く。
「最近、この周辺だけこちらの消耗が少ない。偶然ではない」
「ベトコンの新しい指揮官、でしょうか」
「……断定は早い」
ハミルトンは椅子に腰を下ろした。優秀な指揮官には、癖が出る。大胆さか、慎重さか。どちらかに必ず傾く。
だが、ここに見えるのはそのどちらでもない。
「攻めない。だが、守りすぎもしない」
教範通りでも、ゲリラの常道でもない判断。
まるで、戦場全体を一段引いた位置から見ている。
「碁盤だな」
ぽつりと呟く。
「一手で勝とうとしない。形だけを整え続ける打ち方だ」
大尉は黙った。その言い回しが、現場の兵士のものではないことを理解している。
「現地の聞き取りです」
別の報告書が差し出される。
「若い兵士が一人、生き延びていると。名前は……トゥアン」
ハミルトンの眉が、ほんのわずかに動いた。
「死亡確認は?」
「爆発に巻き込まれた、と。遺体は未確認です」
「……なるほど」
生きていた、ではない。
死んだことにされている。
彼は報告書を閉じ、住民記録と照合する。噂、証言、断片的な言葉。そのどれにも共通しているのは、組織名ではなく、一人称の変化だった。
「一人で、ここまで“空気”が変わるか」
疑問は、ほぼ消えていた。
窓の外で、ヘリコプターが離陸する。低い羽音が、庁舎全体を震わせる。
「監視を強めろ」
ハミルトンは言った。
「村そのものには、まだ触るな。だが、人の流れ、物資、水路。遮断ではない。把握だ」
「捕捉できたら?」
一拍、間があった。
「生きていれば理想だが……現場判断で構わん」
彼は立ち上がり、地図を見下ろした。
赤いピンの中で、その村はまだ取るに足らない存在だ。
だが、戦争はいつも、数字の端に現れた異物から歪み始める。
「報告書に、説明できない余白が出始めたらな」
誰にともなく言う。
秩序は、常に完璧なはずだ。
だからこそ、その綻びは致命的になる。
ハミルトンは窓の外の空を見た。
青く、澄み切った空。その下で、無数の爆撃機が待機している。
だが、その秩序の針を外側から突く何かが、
あの森に潜んでいる。
⸻
その頃、森の奥で、晋作も空を見上げていた。
音はまだ遠い。
だが、追う側が「見る段階」に入ったことだけは、はっきりと分かった。
静かな村は、すでに数字の中に組み込まれている。
あとは、それが現実として踏み込んでくるかどうか。
問題は、いつか。
それだけだった。




