第三章 囁き
村に滞在して三日が過ぎた。時間の感覚は、戦場にいた頃よりも曖昧だった。朝は霧とともに始まり、昼は湿った暑さに包まれ、夜は早く訪れる。変化に乏しいようでいて、村の空気は少しずつ変わっていた。
晋作はそれを、言葉よりも視線で感じ取っていた。
水を汲む女たちの会話が、彼の姿を認めた瞬間に途切れる。子どもたちが遊びの手を止め、距離を取る。敵意ではない。だが、親しみでもなかった。
「トゥアンは、前からあんな男だったか」
そんな囁きが、背後で生まれては消えていく。
彼は村の男たちと畑仕事を手伝いながら、必要以上のことは語らなかった。銃の話も、作戦の話も避けた。ただ、地形について尋ね、森の入り口と水路の位置を確かめ、逃げ道になり得る場所を頭の中で繋げていく。
それが、かえって目立った。
「なぜ、そんなことを知りたがる」
ある夕暮れ、若い男がそう問いかけてきた。声は低く、周囲を気にしている。
「知っておいた方が、生き残れる」
晋作は、事実だけを返した。
男は納得しなかった。
「俺たちは、ここで静かに暮らしてきた。目立てば、兵も、爆弾も呼び寄せる」
その言葉に、かつて聞いた声が重なる。藩内で、変革を唱えた時に浴びせられた忠告と、ほとんど同じだった。
「静かにしていても、来る時は来る」
晋作はそう言い、言葉を切った。それ以上は、今は不要だった。
夜、村の集会所に男たちが集まった。表向きは収穫の相談だったが、実際には別の話題が中心だった。
「トゥアンは変わった」
「前から考える男ではあったが、あそこまでではない」
「戦争を呼び込む気か」
否定も擁護も、はっきりとは口に出されない。ただ、空気だけが重くなる。
晋作は、その場には出なかった。出れば、議論は彼を軸に回り始める。それはまだ早い。
家の外で、星を眺めながら耳を澄ます。遠くで車両の音がした気がした。確証はない。だが、こうした違和感は、往々にして当たる。
思い出すのは、京都での夜だ。密談と裏切り、噂と密告。敵よりも味方の疑心が、どれほど人を縛るかを、身をもって知っている。
革命は、常に内側から揺らぐ。
「……同じだな」
誰に向けたとも知れぬ言葉が、闇に落ちる。
翌朝、村の長が晋作を呼んだ。
「お前は、この村をどうしたい」
単刀直入だった。
「どうもしたくはない。ただ、守れるなら守る」
「そのために、戦うと?」
「戦わずに済むなら、それが一番だ」
長はしばらく黙り、やがて言った。
「だが、お前の考えは、ここでは早すぎる」
晋作は否定しなかった。早すぎる思想は、いつも疎まれる。それでも、必要になる瞬間が必ず来る。
村の外れで、子どもが泣いている。母親が慌てて口を塞ぐ。音は、命取りになる。
晋作はその光景を見て、確信した。この場所は、すでに選択を迫られている。ただ、誰もそれを言葉にしていないだけだ。
囁きは、やがて叫びに変わる。その時、動ける者がいるかどうか。
彼は静かに、次の手を考え始めていた。




