七章 踏み絵
2部6章を描き直しました。
恐れいりますが、そちらを読んで頂いた後に、2部7章をご覧いただけたら幸いです。
夜明けは、予告なく訪れた。
空が白むより先に、森の匂いが変わった。湿った土と腐葉の匂いに、わずかだが異物が混じる。金属。油。人の数が増えたときの、あの匂いだ。
晋作は足を止め、耳を澄ませた。
鳥は鳴かない。だが、風はある。葉の擦れる音に紛れて、規則的ではない、しかし確実な気配が近づいてくる。
来たな。
合図はなかった。名も呼ばれない。ただ、森の奥から一人の男が現れた。昨日の三人とは違う。背は低く、痩せている。だが、目だけが異様に鋭い。銃は持っていない。代わりに、胸元の内側に何か硬いものがあるのが分かる。
「ついて来い」
短い言葉だった。命令でも、依頼でもない。ただの事実の提示。
晋作は頷き、何も言わずに後に続いた。
歩く距離は短い。だが、道は選ばれていた。踏み固められていない斜面、沢を一度横切り、意図的に足跡を残す場所と、消す場所を使い分ける。案内役の動きは洗練されていた。
試されている。
それを悟った瞬間、晋作はわざと一度、足を滑らせた。派手ではないが、無様な転び方だ。男は一瞬だけ振り返り、その反応を確認する。
「大丈夫か」
「年だ」
晋作は短く答え、立ち上がる。銃は地面に落としていない。無意識にそう動けている自分を、内心で笑った。
やがて、開けた場所に出た。
そこには、十数人の男たちがいた。服装はまちまちだが、全員が同じ空気を纏っている。引き金に指をかけない距離感。だが、全員が全員を見ている。
中央に、簡素な机が置かれていた。
その上に、二つのものがある。
一つは、紙の束。もう一つは、銃。
紙は、手書きだった。村の名、山の名、数字、矢印。作戦図だ。見覚えのある地形が、いくつも含まれている。村もある。あの村も。
「説明しろ」
低い声がした。背の高い男だ。昨日と同じ人物だった。
晋作は紙に目を落とし、ゆっくりと視線を走らせる。
「……これは、餌だ」
即答だった。
数人の男が、わずかに動く。
「村を前に出し、敵を引きつけ、別方向で叩く。合理的だが、長くはもたない」
「なぜ」
「村は、黙って燃えると思われている」
晋作は紙の一角を指で叩いた。
「だが、人がいる場所は、必ず歪む。逃げる者、怒る者、耐えきれない者が出る。そこから綻びる」
「代案は」
晋作は紙を裏返した。白い面だ。
「ここに、何も書かない」
沈黙。
「村を使うな。空白にしろ。敵にとって意味のない場所にする」
「敵が来たら?」
「来させるな」
「どうやって」
晋作は、銃に視線を移した。
「撃たないことだ」
ざわめきが起きる。明確な不満だ。
「撃たなければ、制圧される」
「撃てば、消される」
晋作は静かに言った。
「この戦争で一番危険なのは、空を怒らせることじゃ」
背の高い男が、しばらく考え込む。
「……それが、君の答えか」
「いいや」
晋作は銃を手に取った。重さを確かめるように、一度だけ構え、すぐに机の上へ戻す。
「これは、踏み絵だ」
「踏み絵?」
「撃てと言われたら撃つか。撃つなと言われたら撃たないか」
視線が集まる。
「どちらも正解になり得る。だが、どちらを選ぶかで、その先の地獄が変わる」
「君は、どちらを選ぶ」
晋作は一瞬、功山寺の夜を思い出した。あのときも、正解はなかった。ただ、引き返せない選択があっただけだ。
「撃たない」
即答だった。
「ただし」
一拍、置く。
「撃たせる」
空気が凍る。
「人ではない。時間と場所を撃たせる。敵に、誤射させる。空を空振りさせる。熱源、音、無線。奴らが頼る目を欺く。」
背の高い男が、ゆっくりと息を吐いた。
「……君は、本当に厄介だ」
「昔から、そう言われとる」
沈黙の末、男は紙を畳んだ。
「踏み絵は終わりだ」
晋作は、その言葉の意味を即座に理解した。
選ばれたのではない。
引き返せなくなっただけだ。
森の奥で、低く、遠い音が響いた。プロペラではない。砲でもない。まだ、準備の音だ。
晋作は空を見上げた。
踏んだのは、紙か、銃か。
それとも、自分自身か。
答えは、まだ出ない。
だが、次に来るのが「血」であることだけは、はっきりしていた。




