六章 値踏み
異変は、追撃ではなかった。
村を捨てて二日。
晋作たちは森を南へ抜け、沢を三つ越え、あえて足跡を残す道と消す道を交互に選びながら移動していた。誰も口には出さないが、全員が同じことを感じている。
――追ってこない。
それが、最も不気味だった。
通常なら、もう空が動いている。
索敵のヘリか、少なくとも遠距離からの威嚇射撃があるはずだ。だが、空は静かで、電波のざらつきもない。銃声も、爆音もない。
森が、監視の目に変わっていた。
「……見られているな」
同行していた年長の兵士が、ぽつりと言った。
誰も否定しなかった。
晋作は歩きながら、意識を外へ広げていた。
足音、枝の折れ方、風の乱れ。敵意ではない。だが、偶然にしては整いすぎている。
――撃たない。
――近づかない。
――だが、離れもしない。
追撃ではない。排除でもない。
観察だ。
「向こうは、俺たちを“敵”としては見ていない」
そう言った瞬間、数人の視線が晋作に集まった。
「じゃあ、何としてだ」
晋作は答えなかった。
代わりに、足を止め、一本の若木を指で弾いた。
「使えるかどうか、だ」
沈黙が落ちる。
それは、この戦場で最も残酷な言葉だった。
⸻
最初の試しは、その夜に来た。
火を焚かず、音も立てずに休んでいたとき、森の縁に小さな物音がした。敵襲ではない。だが、偶然にしては近すぎる。
若い兵士が銃を構えかけた瞬間、晋作は無言でその銃身を押し下げた。
数秒後、地面に何かが転がってきた。
布に包まれた、小さな塊。
罠ではない。
爆発もしない。
慎重に開くと、中には乾燥した米、簡易の包帯、そして新品の弾倉が二つ。
規格は、AK用。
「……どういうことだ」
誰かが呟いた。
施しではない。
援助でもない。
補給のテストだ。
――これを、どう使う?
――仲間に配るか?
――疑って捨てるか?
――それとも、罠と見て退くか?
晋作は米袋を手に取り、しばらく考えた末、言った。
「半分は使う。半分は捨てる」
「なぜだ」
「全部使えば、依存になる。全部捨てれば、意地だ、施しをすべて受ければ奴らの犬になり、すべて拒めばただの野垂れ死にだ。半分だけ受け取って、半分はドブに捨てる。……それが、こちらにまだ選ぶ権利があるという唯一の示威になる」
誰も反論しなかった。
その夜、彼らは半量の米を炊き、残りは沢に流した。弾倉は一本だけ使い、もう一本は分解して埋めた。
森は、何も反応しなかった。
それが、答えだった。
⸻
二度目の値踏みは翌日の夕刻。
円を描くように、距離を保って三人の影が立っている。銃口は向けられていない。代わりに、いつでも上げられる位置にある。それが、この場の関係性を雄弁に物語っていた。
「名を聞いていない」
最初に口を開いたのは、背の高い男だった。ベトナム語だが、訛りがない。都市部の発音だ。声は低く、感情が乗っていない。
晋作は答えない。
沈黙は、拒絶ではない。値を測らせるための間だ。
「村を動かした判断。囮の撃ち方。あれは、訓練では身につかない」
男が続ける。「誰に教わった」
「教わってはいない」
晋作はようやく口を開いた。
「負ける側の癖を、よく知っているだけだ」
空気が、わずかに動いた。三人のうち、ひとりが足の位置を変える。無意識の反応だった。
「……面白い言い方だ」
背の高い男が言う。「我々は、君を評価している」
「それは、知っている」
晋作は一歩、前に出た。銃は背中に下げたままだ。敵意ではなく、距離を詰める行為そのものが賭けだった。
「だが、評価される理由は一つじゃない。使えるか、危険か、裏切るか。どれだ」
男は否定しない。
「君は賢い」
「賢い者ほど、条件を先に出す」
その言葉に、初めて男の口元が僅かに動いた。笑みではない。確認だ。
「条件とは?」
晋作は、森の奥――村のあった方角を一瞬だけ見る。
「この周辺の村を、前線にするな」
即座に、沈黙が落ちた。
重い沈黙だ。拒絶でも同意でもない。計算の時間。
「それは、我々の戦略に関わる」
「承知している」
「君は、何の立場でそれを言う?」
また同じ問いだ。村の長が投げたものと、よく似ている。だが、重みが違う。こちらは、答え次第で命が消える問いだった。
晋作は、わずかに肩をすくめた。
「立場などない。ただ――」
一拍、置く。
「燃えやすい場所で戦うのは、愚かだ」
男たちの視線が鋭くなる。
「空が敵の武器なら、地上は餌だ。村は餌になる。人もだ」
「では、代わりに何を出す」
背の高い男が言った。条件を飲む気がない者の言い方ではない。
晋作は、その瞬間を逃さなかった。
「俺を使え」
短い言葉だった。
「前線でも、後方でもない。繋ぎの場所で」
「繋ぎ?」
「情報、動線、時間稼ぎ」
功山寺の夜が、脳裏をかすめる。正規軍と非正規の隙間で、彼はいつもそこに立っていた。
「俺は、大軍を率いない。旗も掲げない。だが、敵が嫌がる選択肢だけは、いくつも出せる」
沈黙。
風が、葉を鳴らす。
やがて、三人のうち最も若い男が口を開いた。
「信用は?」
晋作は即答した。
「ない」
一瞬、空気が緩んだ。予想外の答えだったのだろう。
「だから条件だ。信用は後からついてくる。つかなければ、切ればいい」
背の高い男が、低く息を吐いた。
「……随分と、自分を安く売る」
「逆だ」
晋作は、静かに言った。
「俺は、高い。だから、使い道を間違えるなと言っている」
長い沈黙の末、男は一歩、前に出た。
「君の条件は、一部だけ受け入れられる」
「十分だ」
「代償は?」
その言葉に、晋作の胸の奥がわずかに軋んだ。だが、表情は変えない。
「いずれ分かる」
男は頷いた。
「明日、連絡員が来る。それまで待て」
3人はが踵を返し、数歩進んでから晋作が語りかける。
「一つ、忠告だ。この戦争、勝ち負けだけで測ると、必ず歪む」
返事はなかった。晋作は理解していた。
もう戻れない。
村を守るために出した条件は、同時に、自分を戦争の歯車に深く噛み合わせるものだった。
だが――
功山寺でも、同じ顔をしていたはずだ。
「……まったく」
小さく笑う。
「性分というのは、厄介なもんだな」
夜は、まだ終わらない。
⸻
夜。
晋作は一人、銃を膝に置いて座っていた。
敵ではない。
だが、味方でもない。
踏み越えたわけでもない。
だが、戻れる場所は、もうない。
選ばれるということは、
選択肢を失うということだ。
「まったく……」
小さく笑う。
「生き延びただけのつもりが、また面倒な場所に立たされた」
だが、その胸の奥で、確かな熱が再び灯っているのを、彼は否定しなかった。
値踏みは、まだ終わっていない。かつて上海の租界で見た、列強による買い叩かれる魂の群れ。彼らが今、晋作を同じ秤にかけようとしている。だが、彼らは知らない。この秤に乗っているのは、一人のベトナム兵の肉体ではなく、一度は歴史を終わらせようとした男の、爆ぜるような志なのだということを。
だが、賽は――
もう、盤の上に置かれていた。




