第一章 灰の森にて
夜明け前のジャングルは、驚くほど静かだった。
つい数時間前まで、爆音と炎が支配していたとは思えない。燃え尽きた木々から立ちのぼる白い煙が低い霧と混ざり合い、地表をゆっくりと這っている。湿った土の匂いと焦げた葉の残り香だけが、戦争の名残として漂っていた。
高杉晋作は、倒木に背を預け、浅く息を整えていた。
腹部に巻かれた粗末な包帯は、すでに血と膿で重く湿っている。痛みはあるが、耐えられぬほどではない。伝馬町の牢で肺を焼かれ、息を吸うことすら叶わなかった日々に比べれば、これはまだ生の感触だった。
彼は自分の手を見つめる。
浅黒い肌。若い指。爪の形も骨の張りも、かつての自分とは違う。だが、その手が銃を扱い、包帯を締め、仲間を引きずってこの場を離れた記憶は、確かに残っている。
奇妙な話だ、と心の中で思う。
頭の奥には二つの時間が同居していた。下関の雨、京の夜、功山寺の闇。そして今、湿った土と焼けた葉の匂い。どちらも夢ではない。どちらも現実だった。
少し離れた場所で物音がした。反射的に銃へ手を伸ばし、すぐに力を抜く。現れたのは十代半ばほどの少年だった。痩せた身体に大きすぎる軍服を着込み、顔には煤と泥がこびりついている。
「……生きてたのか、兄貴」
ベトナム語だった。その意味が違和感なく理解できることに、もはや驚きはない。
「運が良かっただけだ」
そう答えたつもりだったが、口から出た言葉はこの時代の発音だった。少年は不審に思う様子もなく、その場に腰を下ろす。
「トゥアン兄貴がやられたって、みんな思ってた。あんな爆発の中で……」
晋作は胸の奥がわずかに軋むのを感じた。
トゥアン。この身体の元の持ち主の名。母の声、村の朝霧、初めて銃を渡された夜の恐怖と高揚。それらは自分のものであり、そうでない。
「死んだと思われているなら、好都合だ」
少年は首を傾げたが、それ以上は聞いてこなかった。この戦場では理由を問うこと自体が贅沢だった。
夜が完全に明けきる前に、周囲には六人の人影が集まった。皆、疲弊している。服は破れ、顔には血と煤が混じり、視線だけが妙に鋭い。生き残った者の目だった。
「兄貴、どうする」
年嵩の兵士が言った。晋作は答えず、しゃがみ込んで地面に手を置く。湿った土に混じる新しい焦げの匂い。風は南東から北西へ、弱いが一定だった。
「撃つな。走るな。散れ」
短く告げる。
「敵は近い。ここで撃てば、空から来る」
頭上を指す。プロペラ音は聞こえない。だが、それは去ったのではなく、探している音だ。
「三人ずつ別の方角へ。沢沿いは使うな。足跡が残る」
若い兵士が口を挟みかけた。「司令部への連絡が――」
「後回しだ。生きていれば何度でも話せる。死ねば、何も伝わらない」
沈黙のあと、古参の兵士が小さく頷いた。男たちは合図もなく森に溶けていった。足音はすぐに消え、残ったのは虫の声と遠くの砲声だけだった。
一人になると、晋作は深く息を吐いた。
功山寺の夜が、焼けた森に重なる。あの時も勝算などなかった。ただ、やらねば終わると知っていただけだ。
地下壕の位置、協力者の村、米軍が嫌う地形。
トゥアンの知識が、長州で培った土地勘と結びついていく。
使える。
そう思った瞬間、自分がこの時代に根を下ろし始めていることを否応なく認めた。
銃を肩にかけ、森の奥へ歩き出す。
異国だ。時代も違う。だが、巨大な力に抗うという一点において、何も変わらない。
世界は広い。
その事実だけが、朝靄の中で静かに残っていた。




