南宋末期の英雄:孟珙⑨
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1238年(嘉熙二年)、南宋の都・臨安は、春の陽光に包まれていた。だが、戦の影は遠く離れた前線に今も色濃く残っていた。
その日、京湖戦区の責任者となった孟珙は、淮西防衛を担う名将・杜杲と会談するため、都に足を運んでいた。
「杜杲殿、よくぞご無事で」
「孟将軍こそ。あの寿春の戦、見事でしたな。クウン・ブカを討ち取った時、兵たちが涙しておりましたぞ」
二人は深く頭を下げ合い、静かに酒宴の席へと向かった。
酒が注がれ、杯が交わされる。戦場では交わすことのなかった言葉が、今ようやく語られる。
「杜杲殿、あの時、私の剣が折れていたら、宋はどうなっていたか…」
孟珙が杯を見つめながらつぶやくと、杜杲は力強く言った。
「いや、孟将軍。あの剣は折れぬ。岳飛将軍の魂が宿っておるらしいからな」
孟珙は目を細め、祖父・孟林の言葉を思い出した。
「この子は国を支える柱となる」
その言葉が、今も胸に響いていた。
「杜杲殿、我らは違う戦場を守ってきた。だが、志は一つ。宋を守ることだ」
「うむ。臨淮では泥にまみれたが、兵たちは一歩も退かぬ。孟将軍の勝利が、我らの盾となった」
その言葉に、孟珙は静かに杯を掲げた。
「この一杯は、戦場に散った兵たちへ」
「そして、次なる戦いへの誓いに」
二人は杯を合わせ、静かに飲み干した。
その夜、月が都の空に昇る頃、二人は庭に出て語り合った。
「杜杲殿、私は襄陽を守る。貴殿は淮西を。我らが連携すれば、モンゴルの南下は防げる」
「孟将軍、貴殿の言葉に偽りなし。宋の盾となる覚悟、ここに誓おう」
孟珙は剣を抜き、月光にかざした。
「この剣は、祖父から授かったもの。岳飛の志を継ぐ者として、私は退かぬ」
杜杲も剣を抜き、並べて言った。
「我が剣も、民の命を守るためにある。孟将軍、共に戦おう」
二人の剣が月光に輝き、風が静かに吹き抜けた。
その後、戦略会議では、襄陽と淮西の防衛網を一体化する案が練られた。兵の配置、補給路の確保、連絡の迅速化。すべてが民を守るための策だった。
会議の終わり、孟珙は杜杲に言った。
「杜杲殿、我らが守るのは城ではない。民の命だ。笑顔だ。未来だ」
杜杲は深くうなずき、言葉を返した。
「孟将軍、宋の魂は、貴殿の背に宿っておる。我らが折れぬ限り、宋は滅びぬ」
その言葉に、孟珙は静かに拳を握りしめた。
「ならば、次の戦場でまた会おう。その時も、我らは共に立っている」
こうして、二人の将軍は忠義と友情を胸に、次なる戦いへの誓いを立てた。
都の空には、月が静かに輝いていた。その光は、宋の未来を照らしているようだった。
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「江漢の盾」
廬州の平原を、血と泥が覆っていた。数日にわたる激戦で、南宋軍は限界に達していた。モンゴル軍の騎兵は波のように押し寄せ、弓の雨が降り注ぐたびに、仲間の兵士が次々と倒れていく。もう、誰もが勝利を信じられなくなっていた。
「くそっ、もう駄目だ……」
一人の兵士が剣を取り落とし、膝をついた。その絶望の声は、瞬く間に周囲に広がっていく。
「もう……敵の数が多すぎる。俺たちは、捨て駒なのか?」
その時、一人の将軍が、愛馬を駆って戦場を駆け抜けた。
その男こそ、この戦いを指揮する孟珙だった。
彼の顔には泥と血が飛び散り、甲冑は幾度となく矢を受けていた。
しかし、その瞳は、燃え盛る炎のように熱く、まっすぐだった。
「兵士たちよ! 顔を上げろ!」
孟珙の力強い声が、絶望に満ちた兵士たちの心に響いた。
「我々(われわれ)は、ただの捨て駒ではない! 我々は、この国の盾だ!」
彼は剣を高く掲げ、兵士たちに語りかけた。
「思い出せ! 我々がこの血みどろの戦場で何のために戦っているのかを! お前たちの後ろには、故郷で待つ家族がいる! 父や母、妻や子、そして、まだ見ぬ未来の世代が、我々の勝利を待っているのだ!」
その言葉に、兵士たちの瞳に力が宿り始めた。
「私は、父から剣を授けられた時、この国を守り抜くと誓った! 祖父からは、岳飛将軍の忠義を継げと教わった! そして、私が今、この戦場で目にしているのは、その忠義の魂を受け継いだお前たちだ!」
孟珙の言葉に、副将の王堅が雄叫びを上げた。
「総帥の言う通りだ! 臆するな、兵士たちよ! 我らは、たった一人ではない! 故郷の家族、そして孟珙総帥が、我々と共にいる!」
王堅の言葉が、兵士たちの心に火をつけた。彼らの瞳に再び光が戻り、剣を握る手に力がこもっていく。
「行くぞ!」
孟珙はそう叫ぶと、自ら敵陣へと突き進んだ。まるで風のように素早く、岩のように強固なその姿に、兵士たちは熱狂した。
「総帥に続け!」
誰かが叫ぶと、疲弊していた南宋軍は、まるで生まれ変わったかのように、一斉に反撃に転じた。孟珙は、敵将のいる本陣を目指し、幾多の敵を薙ぎ倒していく。そして、ついにモンゴル軍の敵将を見つけると、一騎討ちを挑み、激戦の末に打ち取った。
大将を失ったモンゴル軍は混乱に陥り、統制を失った。南宋軍は、その隙を逃さず、一気に攻勢をかけ、ついに敵を平原から追い払うことに成功した。それは、まさに奇跡のような大勝だった。
この戦いの後、南宋軍は、失っていた襄陽や信陽といった重要な拠点を次々と回復していった。モンゴル軍の江漢平野への南進戦略は、孟珙の活躍によって完全に挫折させられたのだ。
戦いを終え、故郷の村に戻ってきた兵士たちを、民衆が涙ながらに迎えた。彼らは、兵士たちの無事を喜び、そして彼らを救った孟珙の武勇を称えた。
「将軍がいなければ、我々は故郷を失っていた! 命を救ってくださった英雄だ!」
「そうだ! 将軍こそ、我らが江漢の盾だ!」
孟珙は、民衆の歓声と涙に包まれながら、静かに空を見上げた。そこには、祖父や父から教わった忠義と、岳飛将軍の遺志が、今も生きていることを感じていた。そして、彼は、この国の盾として、民の未来を守り続けることを、心に深く誓ったのだった。
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希望の防衛線
広大な南宋の国境線は、まるで巨大な竜のようにうねっていた。その全長およそ三分の二を、一人の将軍がたった一人で背負っていた。彼の名は孟珙。
「総帥! こちらはもう、限界です!」
伝令兵が血相を変えて駆け寄ってきた。モンゴル軍の偵察隊が、襄陽方面に現れたという。
「兵士たちは疲れ果て、顔に光がありません。いくら補給を続けても、この広大な戦線を維持するのは…」
孟珙は何も言わず、ただ静かに頷いた。彼の傍らには、長きにわたり彼を支えてきた副将の王堅が立っている。
「王堅。兵士たちに告げよ。私はここにいる、と」
その日の夜、孟珙は自ら馬に乗り、夜通しで各地の陣地を巡った。凍える夜風の中、篝火の周りに集まり、故郷を想いながら物資を分け合っている兵士たちの姿があった。彼らは皆、疲労に満ちた顔で、希望を失いかけていた。
「兵士たちよ!」
孟珙が馬から降り、彼らの輪の中に入っていく。驚き、そして歓声が上がった。
「総帥! なぜこのような場所に?」 「危険です! 早く、奥へ!」
兵士たちが心配そうに声を上げた。孟珙は静かに首を振った。
「危険など、お前たちと私で何が違う。お前たちがいる場所が、私のいる場所だ」
その言葉に、兵士たちは涙ぐんだ。孟珙は彼ら一人ひとりの顔をじっと見つめ、語りかけた。
「確かに、この防衛線は長大だ。モンゴル軍の勢い(いきおい)は、まるで止まらぬ大河のようにも見えるだろう。だが、思い出してほしい。私たちは、一人で戦っているのではない。襄陽を守る兵も、信陽の兵も、皆お前たちと同じ志を抱き、この国を、家族を守るために戦っている。私たち**将兵全員が、一つの巨大な防御体系なのだ!」
その熱い言葉に、兵士たちの瞳に力が戻っていく。一人の老兵が、震える声で尋ねた。
「では、この命の先に、希望はあるのでしょうか?」
孟珙は、迷いなく答えた。
「ある! 私が、この南宋の盾として誓おう! 私の祖父や父は、偉大な岳飛将軍の忠義を継ぎ、私に剣を授けた。その剣は、国と民を守るためにある。お前たちの命は、その剣と同じ重さだ。決して無駄にはさせない。だから、信じてくれ! 私が、必ずお前たちと共に、この国を守り抜く!」
その言葉が、凍え、疲弊した兵士たちの心に、温かい火を灯した。
「総帥が共にいてくださるなら、我らに恐れるものなど何もありません!」
一人の兵士が叫ぶと、他の兵士たちも続いた。
「総帥に続け!」
その声は、広大な夜の戦線に響き渡り、まるで一つの巨大な魂が目覚めたかのようだった。
その日を境に、各戦線で兵士たちの士気が驚くほど高まった。彼らは、孟珙の言葉を胸に、まるで生まれ変わったかのように敵と戦い始めた。実際に、モンゴル軍からの大規模な侵攻を、最初の十数年間にわたり食い止めることができたのは、この孟珙が心を通わせて築き上げた、一体的な防御体系があったからに他ならない。
民衆は、彼を「南宋の盾」と呼び、その存在そのものが、彼らにとっての希望の光となったのだった。




