南宋末期の英雄:孟珙⑧
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1235年、南宋の空は重く、風は戦の匂いを運んでいた。モンゴル軍が金朝を滅ぼした勢いのまま、南へと侵攻を開始。襄陽方面からは、黒雲のような軍勢が押し寄せていた。
その防衛の要に立つのが、名将・孟珙である。
「将軍、杜杲殿より急報です。臨淮が連日の猛攻を受けています!」
報告を受けた孟珙は、地図を見つめながら静かに言った。
「杜杲は、南宋の盾だ。彼が踏ん張っている間に、我らは江漢平野を守り抜く。宋の命運は、今ここにある」
忠順軍の本陣では、若き副将・王堅が兵を鼓舞していた。
「敵は強大ですが、我らには孟将軍がいる!江陵を守り抜けば、民の命がつながる!」
孟珙は王堅の肩に手を置き、語りかけた。
「王堅、お前が初めて剣を握った日を覚えているか?」
「はい。将軍が『この剣は民を守るためにある』と教えてくれました」
「ならば、今こそその意味を示す時だ。剣は、民のために振るうもの。命を捨てるな。守るために生きろ」
その言葉に兵士たちは胸を打たれ、戦の覚悟を新たにした。
戦は始まった。江漢平野に押し寄せるモンゴル軍を、孟珙は巧みな陣形と奇策で迎え撃ち、連戦連勝を重ねた。
「江陵大捷だ!孟将軍が勝った!」
民衆は歓喜し、兵士たちは涙した。
一方、臨淮では杜杲が泥にまみれながらも堅陣を築き、夜襲で敵の補給線を断ち、南下を阻止していた。
ある夜、孟珙は杜杲からの文を読んでいた。そこにはこう記されていた。
「我が陣は持ちこたえている。そなたの勝利が、我らの盾となる。宋の未来は、共に築くものなり」
孟珙は文を握りしめ、空を見上げた。
「杜杲よ……我らは別々の地にいても、志は一つだ」
その夜、孟珙は兵の前に立ち、語りかけた。
「我が祖父・孟林は言った。『この子は国を支える柱となる』と。その言葉を、今こそ証明する時だ。我らが守るのは、ただの土地ではない。民の命、未来の希望だ!」
兵士たちは拳を握りしめ、声を上げた。
「宋の魂、ここに在り!」
戦は続いた。襄樊では窩闊台率いる本軍が包囲を開始。孟珙は奇策をもって突破を図った。
「将軍、敵は四方を囲んでおります。脱出は不可能かと…」
参謀が言うと、孟珙は微笑んだ。
「不可能を可能にするのが、将の務めだ。我が戦術を見せてやろう」
その夜、孟珙は兵を分散させ、火を放ち、敵の目を欺いた。混乱の中、彼は先頭に立ち、包囲を突破した。
「我らは生きて帰った!宋はまだ終わらぬ!」
その姿に、兵士たちは涙した。民衆は彼を「南宋の希望」と讃えた。
戦後、孟珙は王堅と並んで城壁に立ち、夕陽を見つめながら語った。
「王堅、この国はまだ若い。だが、志ある者がいれば、未来はある」
王堅は静かに答えた。
「将軍の背を見て、私は信じました。宋は、必ず守れると」
孟珙は空を見上げ、祖父の言葉を思い出す。
「国を支える柱となれ」
その言葉は、今まさに現実となっていた。孟珙は剣を収め、胸に誓う。
「宋の魂、ここに在り。我が命尽きるまで、守り抜く」
そして、彼は再び戦場へと歩み出す。民のために、国のために。その背に、宋の希望が宿っていた。
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光州の攻防
「総帥、敵軍が再び南下を始めました」
孟珙の陣幕に、憔悴しきった様子の伝令が飛び込んできた。彼は、わずかに眉をひそめたが、驚きはなかった。金を滅ぼした後、モンゴル軍が南宋を狙うのは時間の問題だと考えていたからだ。
「敵の数は?」
「報告では十万を超えるかと。しかも、今回の敵将は、クウン・ブカ(忽温不花)とチャガン(察罕)でございます!」
「ふむ……。あの二人が組んだか。厄介なことになったな」
孟珙は、静かに地図を広げた。その表情は、まるで何事もなかったかのように落ち着いていた。しかし、彼の握りしめた拳は、かすかに震えている。
「総帥! 敵軍はすでに光州を包囲し、攻略を開始した模様です!」
伝令の言葉に、陣幕の中に緊張が走った。光州は、長江沿いの重要な拠点。ここを落とされれば、モンゴル軍の侵攻はさらに加速し、南宋の防衛線は大きく後退してしまう。
「総帥、我らも出陣しましょう! 光州の兵たちを見捨てるわけにはいきません!」
孟珙の副将、王堅が、熱い眼差し(まなざし)で孟珙を見つめた。
「待て、王堅。慌てるな」
孟珙は、静かに王堅を制した。
「敵の狙いは、光州ではない。光州を餌にして、我らをおびき寄せ、背後から攻めるつもりだ」
孟珙の言葉に、王堅はハッと息をのんだ。彼の言う通り、モンゴル軍は決して正面から力押しするだけの愚か者ではない。
「だが、総帥! このままでは光州の民が……」
「わかっている。だからこそ、我らは別の手を使う」
孟珙は、地図上のいくつかの場所に指を置いた。
「王堅、お前には精鋭五千を率い、黄州へ向かってもらう」
「黄州に、でございますか?」
「そうだ。奴らは光州を攻め落とした後、必ず黄州に進軍してくる。我らは、そこで迎え撃つ」
孟珙は、王堅の肩を力強く叩いた。
「この戦いの鍵は、光州ではない。黄州だ。光州が我らの盾となって時間を稼いでくれている間に、黄州に完璧な防衛網を築き、奴らを長江から遠ざける。それが、我々の使命だ」
王堅は、孟珙の言葉に深く頷いた。彼の瞳には、師である孟珙への絶対的な信頼と、南宋の未来を背負うという決意が宿っていた。
「承知いたしました! この王堅、必ずや総帥の期待に応え、黄州を守り抜いてみせます!」
王堅は、そう言って敬礼すると、すぐさま兵を率いて黄州へと向かっていった。
その後、モンゴル軍は光州を陥落させ、勢いに乗って長江沿いを東へ進軍。孟珙の読み通り、彼らは黄州へと向かってきた。しかし、彼らが目にしたのは、完璧なまでに強化された要塞だった。
「なんだ、これは……」
モンゴル軍の将軍、クウン・ブカ(忽温不花)が驚きに声を上げた。
「黄州は、我々が先日攻略した光州とはまるで別物だ! 誰が、これほどの城を築いたのだ?」
彼の背後には、同じくモンゴル軍の将軍、チャガン(察罕)が立っていた。
「孟珙だ。あの男しかいない。やつは、我々が光州に固執する間に、密かに黄州の守りを固めていたのだ!」
クウン・ブカは、歯ぎしりを(はぎしり)した。自分たちが光州で大勝を収めたと思っていた矢先、すでに孟珙の掌の上で踊らされていたことを悟ったのだ。
黄州での戦いは、モンゴル軍の猛攻と、南宋軍の徹底した防御がぶつかり合う、膠着した戦いとなった。モンゴル軍は、城壁を破ることができず、日々多くの兵を失っていった。
「王堅、よくやった」
後方で指揮を執っていた孟珙は、遠くから上がる黄州の煙を見つめながら、静かに呟いた。
「だが、これで終わりではない。奴らは必ず、我々の隙を突いてくる。この戦いは、まだ始まったばかりだ」
彼は、静かに空を見上げた。そこには、金との戦いで散った仲間たちの魂が、星となって輝いているように見えた。
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1237年(嘉熙元年)、南宋の大地は再び戦火に包まれていた。モンゴル軍の猛将・クウン・ブカが率いる大軍が寿春へと迫り、淮河一帯の防衛線が揺らいでいた。
その地に立つのは、南宋の名将・孟珙。彼は忠順軍を率い、父・孟宗政から受け継いだ剣と志を胸に、戦場へと向かっていた。
「将軍、敵は寿春の城門まで迫っています!杜杲殿の陣も限界です!」
副将・王堅が焦りをにじませて報告する。
孟珙は静かに地図を見つめ、言った。
「杜杲は信頼できる将。彼が耐えている間に、我らが決着をつける。敵の心臓を突くのだ」
その言葉に、兵士たちは背筋を伸ばした。
「王堅、伏兵の配置は?」
「完了しております。老兵の進言通り、湿地に誘い込む策です」
「よし。ならば、我らは風となり、嵐となる」
その夜、孟珙は兵たちの前に立ち、語りかけた。
「岳飛将軍が天上から見ておられる。『我が遺志を継ぐ者は誰か!』と。今こそ、我らが後継者となる時だ。宋の魂は、我らの剣に宿る!」
兵士たちは拳を握りしめ、声を上げた。
「宋の魂、ここに在り!」
夜明け、戦が始まった。杜杲の陣は巧みに敵を誘い込み、伏兵が一気に襲いかかった。寿春の地に、南宋の反撃の狼煙が上がる。
その最中、クウン・ブカが前線に現れた。
「南宋の将よ、出てこい!我が刃でその名を刻んでやる!」
その声に応えるように、孟珙が馬を駆って現れた。甲冑に身を包み、剣を握るその姿は、まるで岳飛の再来のようだった。
「我が名は孟珙。宋の魂を背負いし者。貴様の刃では、我が志は折れぬ!」
二人は激しく剣を交えた。火花が散り、地が震える。兵士たちは息を呑み、戦場が静寂に包まれる。
「なぜ、そこまでして宋を守る?」
クウン・ブカが叫ぶ。
「この地には、民がいる。笑う者、泣く者、夢を語る者。彼らの命が、我が剣の理由だ!」
その瞬間、孟珙の剣が閃き、クウン・ブカの兜を弾き飛ばした。
「なにっ!我が一太刀浴びただとっ!」
孟珙が絶叫する。
「クウン・ブカ殿!その首もらい受ける!」
とっさに首を守ったクウン・ブカの太股に深々と孟珙の愛刀が突き刺さる。
「不覚…」
クウン・ブカはうめき声をあげて落馬する。
モンゴル軍は動揺し、南宋軍が一気に押し返す。
「勝ったぞ!孟将軍が勝った!」
杜杲が叫び、兵士たちは歓声を上げた。
クウン・ブカは膝をつき、最後に言った。
「孟珙……見事なり……」
そして、静かに倒れた。
戦後、淮河の堤で孟珙は兵と共に勝利の旗を掲げた。夕陽が川面に映り、空には希望の光が差していた。
王堅がそっと近づき、言った。
「将軍、あの時の言葉……『この地を守る者となれ』。今、ようやく意味がわかりました」
孟珙は静かにうなずき、空を見上げた。
「天よ。祖父様よ。岳飛将軍よ。見ていてください。宋の魂は、まだ燃えているのです」
そして、彼は再び戦場へと歩み出す。民のために、国のために。その背に、宋の希望が宿っていた。




