南宋末期の英雄:孟珙②
〇
1207年、春の陽ざしが随州棗陽の山々をやさしく照らしていた。孟珙、十二歳。祖父・孟林との稽古は、今日も厳しくも温かい空気に包まれていた。
「構えが甘いぞ、珙!敵に隙を見せるな!」
「はいっ、祖父様!」
孟珙は木剣を握り直し、汗をぬぐいながら再び構えた。祖父の動きは年齢を感じさせない鋭さがあり、まるで風のように舞っていた。
「よし、今日はここまでだ。よく耐えたな」
「ありがとうございます!」
稽古を終えた二人は、棗陽の丘を下りながら並んで歩いた。孟林はゆっくりと語り始めた。
「珙よ、棗陽はな、古くから軍の要地であり、交易の盛んな地でもある。風土は穏やかで、民は勤勉。水も豊かで、牛肉麺が名物だ」
「牛肉麺……食べたいです!」
「ふふ、よし。今日は特別だ。市場へ行こう」
市場は活気に満ちていた。香辛料の香り、果物の色彩、職人の声。孟珙は目を輝かせながら祖父の後を歩いた。
「祖父様、あれは何ですか?」
「棗陽の干し棗だ。甘くて滋養がある。兵の遠征にも重宝される」
やがて、二人は牛肉麺の屋台にたどり着いた。湯気の立つ丼が目の前に置かれ、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「いただきます!」
麺をすすった瞬間、孟珙の目が見開いた。
「うまいっ……!体が熱くなるような味です!」
孟林は笑いながら頷いた。
「この味は、棗陽の魂だ。牛の力、麦の恵み、民の技。すべてが詰まっている」
「……祖父様。ぼく、この地を守りたいです。こんなに豊かで、あたたかい場所を、誰にも奪わせたくない」
孟林はしばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「珙よ。お前の曾祖父・孟安は岳飛様のもとで戦った。わしもその志を継ぎ、剣を振るった。
だが、戦はただ剣を振るうだけではない。民を思い、地を知り、心を燃やすことが大切なのだ」
「心を燃やす……」
「そうだ。この牛肉麺のようにな。熱く、力強く、誰かのためにある味だ。お前も、そんな武人になれ」
孟珙は丼を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「祖父様。ぼく、誓います。この棗陽を、そして宋を守る者になります。剣だけでなく、心で戦います!」
孟林の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「……よく言った。その言葉、わしの命よりも尊い。岳飛様も、きっと喜ばれるだろう」
その帰り道、孟珙は市場の喧騒の中で静かに歩きながら、胸に誓いを刻んだ。
──この地を守る。民を守る。志を継ぐ。
棗陽の風が、彼の背を押していた。そしてその誓いは、やがて南宋を揺るがす名将の魂となって燃え上がることになる。
〇
1209年、孟珙は十四歳になっていた。武術の稽古にも磨きがかかり、弓も剣も兄たちに引けを取らぬほどになっていたが、心の中にはまだ答えのない問いがあった。
その夜、孟家の書院に兄・孟璽、孟琛、孟璟が集まり、囲炉裏の火を囲んで語り合っていた。そこへ、好奇心に満ちた目をした孟珙が静かに入ってきた。
「兄上たち、宋って、どんな国なんですか?なぜ戦が絶えないのですか?」
孟璽が微笑みながら答えた。
「よくぞ聞いたな、珙。宋は、民を思う文の国だ。だが、北には金という騎馬民族の国があり、我らの地を奪った。
そして今、さらに強大なモンゴルが現れた」
「モンゴル……?」
孟琛が地図を広げながら説明した。
「モンゴルは草原の民。馬に乗り、弓を放ち、風のように攻めてくる。金も彼らに押されている。宋はその間で苦しんでいるのだ」
「じゃあ、宋は弱いのですか?」
その言葉に、孟璟が静かに首を振った。
「弱いのではない。志を失いかけているだけだ。かつて岳飛という将軍がいた。忠義を貫き、金を討とうとしたが、無実の罪で命を奪われた」
「岳飛様……」
孟珙の目が揺れた。祖父・孟林から何度も聞かされた名将の名。その魂が、今も孟家に息づいている。
「岳飛様は、民を守るために剣を振るった。だが、国の中にはそれを恐れた者もいた。だからこそ、我らが志を継がねばならぬ」
孟璽が立ち上がり、火の前に置かれた古びた剣を手に取った。
「この剣は、祖父が岳飛様から受け継いだものだ。珙、お前に見せよう」
孟珙はそっと剣に触れた。冷たい鉄の感触が、胸の奥に火を灯す。
「兄上……ぼくは、戦いたい。この国を守りたい。北の脅威を討ちたい!」
その言葉に、兄たちは目を見合わせ、ゆっくりとうなずいた。
「その志こそ、孟家の誇りだ」
その夜、月が高く昇る中、孟珙は一人、庭に立っていた。祖父の剣を前に、静かに膝をつく。
「岳飛様……祖父様……父上……。ぼくは誓います。この剣にかけて、北方の脅威を討ち、宋を守る者となります!」
風が吹き抜け、竹の葉がささやいた。屋敷の奥では、祖父・孟林が静かにその姿を見守っていた。
「……その目、その声。まさしく、岳飛様の魂が宿っておる」
翌朝、孟珙はいつもより早く起き、剣を手に稽古場へ向かった。兄たちが驚くほどの気迫で剣を振るう姿に、家族は言葉を失った。
「珙……お前は、もう子どもではない。志を持った武人だ」
父・孟宗政がそう語ったとき、孟珙は深く頭を下げた。
「父上、ぼくはこの命を、宋のために使います」
その言葉に、家族は静かにうなずいた。
──この夜の誓いが、やがて南宋を守る名将の始まりとなる。孟珙の志は、剣よりも強く、風よりも速く、時代を切り開いていくことになる。
〇
1214年(貞祐2年)、春の風が西山を吹き抜ける頃、孟珙は十九歳になっていた。故郷・威州の山里は、モンゴル軍の侵攻に怯える民の声で満ちていた。
「珙様、どうかこの地をお守りください!」
村人たちの叫びに、孟珙は静かにうなずいた。
「この地は、我らの命の根だ。誰にも渡さぬ」
その言葉に、祖父・孟林は目を細めた。
「……お前の目は、岳飛様に似てきた。忠義を貫く者の目だ」
その夜、金朝の使者が孟家を訪れた。使者は深々と頭を下げ、巻物を差し出した。
「金宣宗陛下よりの勅命です。孟珙殿を、権威州刺史に任じるとのこと」
「刺史……わたしが?」
孟珙は驚きに目を見開いた。刺史とは、地方を治める重職。若き自分に務まるのかと不安がよぎった。
だが、祖父がゆっくりと立ち上がり、剣を手に語った。
「珙よ。お前は、この剣を継ぐ者だ。岳飛様の魂は、孟家に宿っておる。逃げるな。立て」
「……はい。祖父様。わたしが、この地を守ります!」
翌朝、孟珙は西山の村に集まった若者たちの前に立った。彼らは皆、剣も槍も持たぬ農民だったが、目には決意が宿っていた。
「我らは兵ではない。だが、守るべきものがある。家族がいる。畑がある。命がある!」
「珙様、剣をください!この手で、守ります!」
孟珙は一人ひとりに剣を手渡した。その手は震えていたが、心は揺るがなかった。
「この剣は、ただの鉄ではない。岳飛様の志が込められている。振るう時は、民のために振るえ!」
「はいっ!」
その声が山に響いたとき、孟林がそっと現れた。
「珙よ……見よ。これが、お前の軍だ」
「祖父様……」
「岳飛様は、かつてこう言われた。『民を守る剣こそ、真の剣なり』と。お前の剣は、まさにそれだ」
その言葉に、孟珙は深く頭を下げた。
「祖父様。わたしは、岳飛様の志を継ぎます。この地を、命に代えても守ります!」
孟林の目に、涙が浮かんだ。
「……岳飛の魂、汝に宿る。孟家の誇りだ」
村人たちはその場で歓声を上げた。
「珙様、万歳!孟家、万歳!」
その日、西山の空は晴れ渡り、若き刺史・孟珙の旗が高く掲げられた。
──この旗は、やがて南宋を守る希望の象徴となる。孟珙の志は、剣よりも強く、民の心に深く刻まれていくのであった。




