南宋末期の英雄:孟珙⑭
〇
1263年、春。南宋の空は穏やかだったが、王堅の心には重い雲がかかっていた。
「左遷か……」
朝廷からの命令書を手にした王堅は、静かに目を閉じた。釣魚城で命を懸けて戦い、モンケ・ハーンを討ち取った英雄である彼が、権臣・賈似道の妬みによって和州へ追いやられることになったのだ。
だが、王堅は怒らなかった。彼の胸には、亡き主君・孟珙の言葉が生きていた。
──「忠義とは、地位ではない。志だ」──
和州への道は長く、静かだった。だが、ある峠を越えたとき、王堅の目に涙が浮かんだ。
道の両側に、かつての忠順軍の兵士たちが並んでいた。老いた者も、若き者も、甲冑こそ脱いでいたが、その目には誇りが宿っていた。
「王堅将軍!」
「忠襄の志を継ぐ者!」
「孟珙将軍の魂は、あなたと共にあります!」
その声に、王堅は馬を止めた。しばし沈黙ののち、彼は馬上から静かに一礼した。
「孟珙殿……見ておられますか。私は、まだ剣を捨ててはおりません」
その瞬間、風が吹いた。春の風だった。王堅の耳に、かつての主君の声がよみがえった。
──「王堅、お前は剣を振るうだけの者ではない。民を導く者となれ」──
和州に着任した王堅は、内安使として民の暮らしを守る任に就いた。戦場とは違うが、彼は誠実に働いた。
ある夜、王堅は月を見上げていた。副官の張珏がそっと声をかける。
「将軍……釣魚城の夜を、覚えておりますか?」
「忘れるものか。あの夜、孟珙殿の声が聞こえた気がした。『進め』と」
張珏は拳を握りしめた。
「孟珙将軍は、我らの心に生きています。たとえ都から遠ざけられても、志は消えません」
王堅はうなずいた。
「孟珙殿は、私に『国を託す』と言った。ならば、私はどこにいても国を守る」
その言葉に、張珏は涙を浮かべた。
「将軍……民は、あなたを見ています。孟珙将軍の志を、あなたが灯しているのです」
〇1264年春。和州の空は、どこまでも静かだった。
王堅は病床に伏していた。かつて釣魚城でモンゴルの大軍を退けた英雄も、今は力なく横たわっている。
「将軍……水を」
副官の張珏がそっと杯を差し出す。王堅はかすかにうなずき、唇を湿らせた。
「……孟珙殿……」
その名を呼ぶ声は、風のように弱かった。
張珏はそっと耳を傾ける。
「孟珙殿の志……忘れぬ……」
その言葉に、張珏は目を潤ませた。
「将軍、あの釣魚城の夜を……覚えておりますか?」
王堅は、目を閉じたまま、静かにうなずいた。
──あの夜、敵の猛攻が続く中、王堅は城壁に立ち、兵を鼓舞していた。
「退くな!孟珙殿の剣は、我らの胸にある!」
兵士たちは叫んだ。
「忠襄の魂、ここにあり!」
そして、王堅は突撃を命じ、モンケ・ハーンの本陣を討ち取った。
──その勝利の夜、王堅は空を仰ぎ、つぶやいた。
「孟珙殿……見ていてください。私は、あなたの志を守りました」
病床の王堅は、再び口を開いた。
「張珏……聞こえるか……?」
「はい、将軍。ここにおります」
「孟珙殿は……私に言った……『国を託す』と……」
「ええ、私もその場におりました」
「私は……果たせたか……?」
張珏は、拳を握りしめた。
「将軍、あなたは孟珙殿の志を守り抜きました。釣魚城を守り、民を守り、国を支えました。誰よりも忠義を貫いたお方です」
王堅は、かすかに微笑んだ。
「ならば……よい……孟珙殿に……顔向けできる……」
その瞬間、窓の外から風が吹き込んだ。春の風だった。
王堅は、静かに目を閉じた。
その夜、和州の民は自発的に喪に服した。城門には、一枚の旗が掲げられた。
「忠壯不朽」
それは、孟珙の志を継ぎ、命を懸けて国を守った男への、民の敬意だった。
そして、遠く江陵の空の下、孟珙の墓に風が吹いた。
まるで、王堅の言葉が届いたかのように──
「孟珙殿……私は、あなたの志を忘れませんでした」
〇
1264年春。和州の空は、静かに雨を降らせていた。
王堅が亡くなったという報せは、江陵にも届いていた。かつて孟珙の右腕として戦場を駆け抜けた男の死に、老兵たちは黙して涙を流した。
その夜、江陵の忠襄祠では、孟之経と孟之符が父・孟珙の位牌の前に膝をついていた。
「父上……王堅将軍が、逝かれました」
孟之経がそう告げると、風が祠の扉を揺らした。まるで、孟珙が耳を傾けているかのようだった。
「兄上……王堅将軍は、最後まで『孟珙将軍の志を忘れず』と語ったそうです」
「……父上の志は、王堅将軍の胸に生き続けていたのですね」
二人は静かに目を閉じた。
そのとき、祠の奥から、老臣・張惟孝が現れた。かつて孟珙に仕え、王堅とも共に戦った男だ。
「孟之経殿、孟之符殿。よろしければ、語らせていただきたい。孟珙様の生涯を」
「張惟孝殿……お願いします」
張惟孝は、位牌に一礼し、語り始めた。
「孟珙様は、隋州夏目陽に生まれました。祖父・孟林は岳飛の部属。父・孟宗政も名将でした」
「誕生の夜、祖父は星を見て『この子は国の柱となる』と語ったと聞いています」
「そうです。幼き頃から武を学び、弓の試練に涙しながらも、翌朝には的を射抜いた。その志は、すでに岳飛の魂を継いでいたのです」
孟之符が拳を握った。
「父上は、金との戦いで名を上げ、忠順軍を率いて南宋の盾となりました」
「蔡州では金を滅ぼし、江漢平野ではモンゴル軍を退けました。江陵大捷は、今も語り草です」
「そして……王堅将軍を見出し、信頼を託した」
張惟孝はうなずいた。
「孟珙様は、戦だけでなく民を守る政にも尽力されました。江陵では民が道を清め、老兵が涙で迎えたほどです」
「父上は、最後に『国を託す』と王堅将軍に語った……」
「その言葉を、王堅将軍は生涯忘れませんでした。釣魚城でモンケ・ハーンを討ち、南宋を守ったのです」
「そして、病床で『孟珙の志、忘れず』と……」
張惟孝は、位牌に向かって深く頭を垂れた。
「孟珙様……王堅殿は、あなたの志を守り抜きました。忠襄の魂は、忠壯へと受け継がれました」
その言葉に、祠の灯が揺れた。
孟之経は静かに言った。
「父上……私たちも、あなたの志を継ぎます。民を守り、国を支える柱となります」
孟之符も続けた。
「忠襄の名に恥じぬよう、生きてまいります」
張惟孝は、涙をぬぐいながら笑った。
「孟珙様……ご安心ください。あなたの志は、今もこの国に息づいております」
その夜、江陵の空には星が輝いていた。
まるで、孟珙が天から見守っているかのように──
そして、祠の門には一枚の旗が掲げられた。
「忠襄不朽」
それは、孟珙の生涯を讃える、民の心からの言葉だった。




