南宋末期の英雄:孟珙⑫
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1252年(淳祐12年)、春の風が興元の山々を吹き抜けていた。断崖を越え、王堅率いる南宋軍がついに城門を開いた。民衆は歓喜の声を上げ、兵士たちは疲れた体を支えながらも、誇らしげに剣を掲げた。
その夜、王堅は城の高台に立ち、静かに空を見上げていた。月は高く、星々が瞬いている。
「将軍……見ていてくださっていますか?」
背後から、若き副官が声をかけた。
「王堅様、民が集まっています。あなたに言葉を求めています」
王堅はゆっくりと振り返り、深く息を吐いた。
「わかった。行こう」
広場には、老若男女が集まり、火を囲んでいた。王堅が姿を現すと、誰もが静まり返った。
「皆、よく耐えてくれた。今日、我らは興元を取り戻した。だが……この勝利は、私ひとりの力ではない」
王堅は剣を抜き、地に突き立てた。
「この剣は、かつての忠襄公──孟珙将軍から授かったものだ。彼はすでにこの世を去ったが、その志は今も我らの中に生きている」
民の中から、ひとりの少年が声を上げた。
「孟珙将軍って、どんな人だったのですか?」
王堅は微笑み、膝をついて少年の目を見た。
「彼は、国を守るために命を懸けた人だった。敵が迫ると、真っ先に前線に立ち、兵を鼓舞した。民のために政を整え、兵のために涙を流した。そして、最期の言葉は──『国を頼む』だった」
少年の目が潤んだ。
「その言葉、王堅様が継いだのですね」
「そうだ。私は、将軍の背中を見て育った。初陣の夜、敵の矢が降る中、彼は私に言った。『恐れるな。お前の剣には、忠義が宿っている』と」
副官がそっと近づき、王堅に囁いた。
「昇進の報が届きました。団練使に任命されました」
王堅は静かに頷き、民の前に立ち直った。
「私は、団練使となった。だが、肩書きなどどうでもよい。大切なのは、守るべきものがあるかどうかだ。孟珙将軍は、命を懸けてそれを教えてくれた」
その言葉に、民衆は一斉に頭を下げた。
「忠襄公の志、我らも忘れません!」
王堅は剣を抜き、夜空に掲げた。
「孟珙殿──あなたの志は、今もこの地に息づいています。私は、あなたの弟子として、宋を守り続けます!」
星がひときわ強く輝いたように見えた。
その夜、興元の空には、忠義の炎が灯っていた。孟珙の魂は、王堅の胸に生き続け、南宋の未来を照らしていた。
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1254年(ほうゆう2年)、合州の夜は静かだった。だがその静けさの裏で、王堅は剣を握りしめ、闇に身を潜めていた。
「敵の本陣は谷の向こう。味方は孤立している。今、動かねば……」
王堅の声は低く、しかし力強かった。彼の背後には、わずか百名の精鋭が息をひそめていた。
「将軍、夜襲は危険です。敵は倍以上の兵力を持っています」
副官がささやくと、王堅は空を見上げた。雲の切れ間から星が顔を出していた。
「孟珙将軍なら、どうしたと思う?」
副官は一瞬言葉に詰まり、そして静かに答えた。
「……進むでしょう。民と兵を守るためなら、命を惜しまぬ方でした」
王堅は頷いた。
「ならば、我らも進む。忠襄公の志は、我らの剣に宿っている」
その言葉に兵たちは顔を上げた。誰もが孟珙の名を知っていた。かつて南宋を守り抜いた英雄。その魂は、王堅の胸に生きていた。
「夜の闇を味方につけろ。火矢の準備を。敵の木柵を焼き払う。我らが道を開く!」
王堅の号令とともに、兵たちは谷を越えた。矢が飛び交い、火が舞い、敵陣は混乱に包まれた。
「王堅将軍だ!援軍が来たぞ!」
孤立していた味方の兵が歓声を上げる。王堅は剣を振るい、敵将を討ち、城門を開いた。
その翌日、広安では民兵と共に城を守る戦いが始まった。王堅は民の先頭に立ち、矢の雨をかいくぐりながら指揮を執った。
「この城は、孟珙将軍がかつて守った地だ。我らが守らずして、誰が守る!」
民兵のひとりが叫んだ。
「将軍、あなたの背中に忠襄公の影が見えます!」
王堅は振り返り、静かに微笑んだ。
「影ではない。志だ。孟珙殿の志は、我らの中に生きている」
激戦の末、広安の城は守り抜かれた。夜、民たちは感謝の灯籠を空へと放った。
王堅は城壁に立ち、空を見上げた。灯籠が星のように舞い上がる。
「孟珙殿……見えますか。私は、あなたの教えを胸に戦いました。あなたが築いた盾は、今も南宋を守っています」
風が吹き、王堅の頬をなでた。まるで孟珙の声が届いたかのようだった。
「よくやった、王堅。国を託したのがそなたでよかった」
王堅は剣を掲げ、静かに誓った。
「忠襄の魂、我が剣にあり。この国、必ず守り抜く」
その夜、広安の空には、忠義の灯が静かに揺れていた。孟珙の志は、王堅の戦いの中で、確かに生き続けていた。
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1254年(ほうゆう2年)7月、夏の陽が釣魚城を照らしていた。城門の前には、民衆と兵士が集まり、ひとりの男の到着を待っていた。
その男の名は王堅。かつて南宋の名将・孟珙のもとで戦い、今や興元府諸軍都統制兼合州知州として、釣魚城の守りを任された将軍である。
馬から降りた王堅は、城門の前に立ち、静かに剣を抜いた。
「忠襄公──孟珙殿の志を、我が剣に宿す。今日より、この城を命に代えても守り抜く」
その言葉に、民衆の中から年老いた兵が声を上げた。
「王堅様!あなたこそ、忠襄の魂を継ぐ者!」
「そうだ!孟将軍が守ったこの地を、あなたが引き継ぐのだ!」
歓声が広がる中、王堅は剣を高く掲げた。
「孟珙殿……見ていてください。私は、あなたの弟子として、この地を守ります」
その夜、王堅は城の高台に立ち、月を見上げていた。風が静かに吹き、遠くから灯籠の光が揺れていた。
「……孟珙殿。あなたがいれば、どれほど心強かったか」
すると、背後から副官の張珏が声をかけた。
「将軍、民の間で噂が広まっています。『孟珙将軍の魂が、王堅様に乗り移った』と」
王堅は微笑み、張珏に向き直った。
「魂ではない。志だ。孟珙殿は、私に剣を授けてこう言った。『国を守る者となれ』と」
張珏は目を見開いた。
「それは……孟将軍が引退された朝のことですか?」
王堅は静かに頷いた。
「江陵の朝霧の中、甲冑を脱いだ孟珙殿は、私に一言だけ残した。『国を託す』と」
張珏は拳を握りしめた。
「その言葉、我らも受け継ぎます。釣魚城は、孟珙将軍の志の城。王堅様、我らはあなたと共に戦います!」
王堅は剣を地に突き立てた。
「よし。ならば、この剣は孟珙殿の剣。この城は、忠襄の城。我らが守る!」
その言葉に、兵士たちは一斉に剣を掲げた。
「忠襄の魂、我らにあり!」
「王堅将軍、我らが盾となる!」
その夜、釣魚城の空には、無数の灯籠が舞い上がった。民が感謝の思いを込めて放った灯籠は、星のように輝きながら空へと昇っていった。
王堅はその光を見上げ、静かに語りかけた。
「孟珙殿……あなたの志は、今もこの地に息づいています。私は、あなたの弟子として、南宋を守り続けます」
風が吹き、月が雲間から顔を出した。
その光は、まるで孟珙のまなざしのように、王堅を照らしていた。




