南宋末期の英雄:孟珙⑩
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1239年(嘉熙三年)、南宋の空は重く、戦の気配が濃く漂っていた。モンゴル軍が襄陽・樊城を攻めるため、漢水支流の淅水に大量の木材を集め、船を建造しているという報が届いた。
その報を受け、南宋の名将・孟珙は軍議の場で立ち上がった。
「このままでは、襄陽が水上から攻められる。敵の船が完成する前に、木材を焼き払わねばならぬ」
沈黙の中、ひとりの若き将が前に進み出た。
「将軍、私に行かせてください。順陽へ潜入し、敵の木材集積場を焼き払います」
それは、忠順軍の副将・王堅だった。
孟珙は彼を見つめ、静かに言った。
「王堅、お前はかつて負傷兵を背負って帰還した男だ。だが、今回の任務はそれ以上に危険だ。敵陣のど真ん中に火を放つのだぞ」
王堅は拳を握りしめ、目を逸らさずに答えた。
「将軍、私の剣は、宋の民を守るためにあります。命を懸ける価値があるなら、迷いはありません」
孟珙はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「よかろう。だが、決して無理はするな。お前の命もまた、宋の宝だ」
その夜、王堅は少数の精鋭を率いて順陽へと向かった。月は雲に隠れ、闇が彼らを包んでいた。
「火を放つのは、集積場の中心だ。敵の目をかいくぐり、静かに動け」
王堅の声は低く、しかし力強かった。
敵陣に忍び込んだ彼らは、木材の山に火を放った。炎が一気に広がり、夜空を赤く染めた。
「火が回った!撤退だ!」
矢の雨が降る中、王堅は兵を守りながら脱出した。肩に矢を受けながらも、彼は倒れなかった。
翌朝、孟珙は遠くの丘から、順陽の空に立ち上る烽火を見つめていた。
「やったか…」
その時、傷だらけの王堅が帰還した。兵士たちが歓声を上げる中、孟珙は彼の前に立った。
「王堅、お前は…宋の宝だ」
「ありがたい…その言葉に心震えます…」
王堅は静かに空を見上げ、拳を握りしめた。
「将軍、あの炎は、民の希望です。敵の船は焼け落ち、襄陽は守られました」
孟珙は深くうなずき、語った。
「民はそなたの背中を見ることで安心して眠る事ができよう。」
兵士たちはその言葉に胸を打たれ、剣を掲げた。
「宋の魂、ここに在り!」
こうして、孟珙と王堅の絆はさらに深まり、南宋の防衛は一層強固なものとなった。順陽の炎は、ただの火ではなかった。それは、忠義と勇気の証だった。
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1240年(嘉熙4年)、春。孟珙は四川宣撫使兼夔州知州としての任を受け、険しい山道を越えて新たな地へと向かっていた。彼の背には、幾度の戦をくぐり抜けた甲冑が重く、胸には祖父・孟林から授かった「忠」の志が燃えていた。
その背を追うように、王堅が馬を駆る。かつて忠順軍で共に戦った若き将は、今や孟珙の右腕として知られる存在だった。
「将軍、峠を越えれば夔州はすぐです。だが、敵の動きが怪しい。奇襲に備えるべきかと」
孟珙は馬上から王堅を見下ろし、静かに頷いた。
「王堅、お前の目は鋭い。かつて順陽で木材集積場を焼き払った時のようにな」
王堅は微笑みながら答えた。
「あの夜、炎の中で見た将軍の背中が、今も私の道標です」
その夜、夔州の山間に敵の影が忍び寄った。王堅は先陣を切り、わずかな兵を率いて山道に伏兵を配置。夜霧の中、敵が現れた瞬間、矢が放たれ、火が灯った。
「今だ!押し返せ!」
王堅の声が響き、兵たちは一斉に突撃。敵は混乱し、山道を退いた。
翌朝、孟珙は王堅のもとへ歩み寄り、剣を手に語りかけた。
「王堅、この剣を見よ。これは祖父・孟林が私に授けた『忠の剣』だ。今、私はお前に新たな名を授ける」
王堅は驚き、膝をついた。
「将軍……」
「お前は、我が『信頼の剣』だ。この地を共に守ろう」
王堅の目に涙が浮かぶ。
「この命、将軍に預けます。宋のため、民のため、必ず守り抜きます!」
その言葉に、孟珙は深く頷いた。
「よい。ならば、共にこの地に希望を灯そう。夔州は我らの新たな戦場であり、民の安寧を築く場所だ」
その後、夔州では孟珙の統治が始まり、王堅はその補佐として活躍。民は街道を清め、兵は士気を高めた。戦地にあっても、そこには確かに希望が芽吹いていた。
そして、ある夜。孟珙と王堅は焚き火を囲み、静かに語り合った。
「王堅、お前はかつて言ったな。『孟珙の背中が道標だ』と」
「はい。今もその思いは変わりません」
「ならば、いつか私がこの甲冑を脱ぐ日が来たら……その背を、お前が見せてやれ。民に、兵に、そして未来に」
王堅は拳を握りしめ、力強く答えた。
「はい、将軍。その日が来るまで、私はこの剣を振るい続けます。忠義の志を、絶やしません!」
焚き火の炎が揺れ、二人の影が山の壁に映る。それはまるで、宋の未来を照らす灯火のようだった。
こうして、孟珙と王堅の絆はさらに深まり、四川の地に新たな希望が灯った。忠義と信頼が交わるその瞬間、戦場に咲いた絆の花は、やがて南宋を支える柱となるのだった。
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1244年(淳祐4年)、孟珙は新たな任地・夔州へ向かっていた。枢密都承旨としての重責を背負い、京西湖北路安撫制置使としての任務も兼ねる彼の心には、戦場で交わした誓いと、民を守るという使命が燃えていた。
険しい山道を越えた先、夔州の城門前で、懐かしい声が響いた。
「将軍!お待ちしておりました!」
振り返ると、そこには王堅が立っていた。かつて忠順軍で共に戦った若き将は、今や夔州の守りを担う重臣となっていた。
「王堅……よくぞ来てくれた。お前の顔を見ると、戦場の記憶がよみがえる」
孟珙は馬を降り、王堅と固く握手を交わした。
「あの順陽の夜、炎の中で見た将軍の背中が、今も私の道標です」
「お前の剣がなければ、あの地は守れなかった。今度はこの夔州を、共に守ろう」
二人は城内へと歩みを進めながら、かつての戦を語り合った。蔡州での激戦、江漢平野での大捷、そしてクウン・ブカとの一騎打ち——それぞれが命を懸けた瞬間だった。
「将軍、あの時の言葉……『宋の宝、ここに在り』。あれは、私の胸に刻まれています」
孟珙は静かに頷いた。
「岳飛の志を継ぐ者として、我らはその魂を絶やしてはならぬ。民のため、国のため、剣を振るうのだ」
その夜、孟珙は夔州の庁舎で兵士や民の代表を集め、語りかけた。
「この地は、戦の傷を癒す場所であり、希望を育む場所でもある。私は、ただの将ではない。皆の声を聞き、皆と共に歩む者だ」
老兵が立ち上がり、涙ながらに言った。
「将軍……わしらは、あんたの背中を信じてここまで来た。どうか、この地に安らぎを」
「約束しよう。夔州に、希望の灯をともす」
翌日から、孟珙は民政に力を注いだ。荒れ果てた道を整え、病に苦しむ者には薬を届け、兵士には訓練と休息を与えた。王堅もその補佐として奔走し、民の信頼は日に日に厚くなった。
ある夕暮れ、孟珙は王堅と城壁に立ち、夕陽を眺めながら語った。
「王堅、私はこの地に来て、戦よりも深いものを知った。民の笑顔こそが、真の勝利だ」
「将軍……その言葉、私も胸に刻みます。いつか、私が将となる日が来たら、この志を継ぎます」
孟珙は微笑み、肩を叩いた。
「その日が来る。だが今は、共にこの地を守ろう。宋の未来は、我らの手にある」
こうして、夔州には新たな風が吹き始めた。戦場で鍛えられた絆と、民を思う心が交わり、孟珙の統治は希望の光となって広がっていった。そしてその光は、やがて南宋全土を照らす柱となるのであった。




