南宋末期の英雄:孟珙①
〇
夜空に星が瞬く、静かな春の夜。隋州夏目陽の孟家では、ひとりの赤子の産声が響いた。
「生まれたぞ!男の子だ!」
産婆の声に、家族が駆け寄る。祖父の孟林は、赤子の顔を見て目を細めた。
「名は孟珙としよう。この子は、国を支える柱となるだろう」
そう言って、孟林は静かに庭へ出て、星空を見上げた。空にはひときわ輝く星があり、まるで何かを告げているようだった。
その夜、父の孟宗政は、赤子の枕元に一本の剣を置いた。剣は岳飛将軍の志を継ぐ者に伝えられる家宝だった。
「この剣は、武と徳を授けるもの。孟珙よ、お前がこの国を守る者となることを、父は願っている」
宗政の声は静かだったが、胸の奥から湧き上がる決意が込められていた。
その夜、孟林と宗政は縁側に並んで座った。月明かりが二人の顔を照らす。
「父上、岳飛様の志を継ぐには、我が子に何を教えるべきでしょうか」
宗政が尋ねると、孟林はゆっくりと答えた。
「まずは、忠と義だ。国を思い、民を守る心。それがなければ、剣はただの鉄にすぎん」
「はい。孟珙には、剣の重みと志の深さを教えます」
その言葉に、孟林はうなずいた。
「宗政よ、お前もよくやっている。だが、この子は特別だ。星がそう告げている。孟安から続く我が家の血が、この子に集まっている」
「……父上、もしこの子が戦場に立つ日が来たら、私は命をかけて守ります」
「いや、守るだけでは足りん。導くのだ。孟珙が自らの志を見つけ、歩む道を照らしてやれ」
その夜、孟家の庭には風が吹き、竹がささやくように揺れた。孟珙は母の腕の中で眠りながら、小さな手を剣の方へ伸ばしていた。
翌朝、宗政は兄たちに語った。
「孟璽、孟琛、孟璟よ。弟が生まれた。これからは、お前たちも彼の師となるのだ」
「はい、父上。俺たちが剣の振り方も、心の持ち方も教えます」
「弟が泣いても、逃げても、俺たちは見捨てません」
「孟家の名に恥じぬよう、育てます」
その言葉に宗政は満足げにうなずいた。
「よいか、孟珙は将来、国を背負う者になる。その時、彼が迷わぬよう、今から支えてやるのだ」
こうして、孟珙の人生が始まった。剣と志に囲まれた家族の中で、彼は育ち、やがて南宋を守る名将となる。
その夜の星空は、孟家の者たちの胸に深く刻まれ、後に語り継がれる伝説の始まりとなった。
〇
1200年、春の風が隋州夏目陽の孟家の庭をやさしく吹き抜けていた。五歳の孟珙は、竹の枝を剣に見立てて、元気に走り回っていた。
「えいっ!ぼくは将軍だぞー!」
その姿を見て、父の孟宗政は微笑みながら息子を抱き上げた。
「珙よ、剣は振るだけではなく、心で使うものだ。強さだけでは、民は守れぬ」
その言葉に、祖父の孟林は静かにうなずいた。彼は岳飛軍の一員だった過去を持つ、誇り高き武人だった。
その夜、孟林は宗政を呼び寄せ、囲炉裏の前に座らせた。火の揺らめきが、二人の顔を照らす。
「宗政よ。そろそろ語る時が来た。岳飛様のことをな」
宗政は真剣な顔でうなずいた。
「父上…私は、岳飛様の志を忘れたことはありません」
孟林は、ゆっくりと語り始めた。
「岳飛様は、民を守るために命をかけた。だが、奸臣によって冤罪を着せられ、無念の死を遂げられた。忠義を貫いたが、国はそれを裏切ったのだ」
宗政は、幼い孟珙を膝に乗せながら、目に涙を浮かべた。
「そんなことが…父上、なぜ国は忠を見捨てたのですか」
「それが世の常だ。だがな、志は消えぬ。岳飛様の魂は、我らの血に流れておる」
宗政は、そっと息子の頭を撫でた。
「珙よ、お前はまだ幼いが、いつかこの国を守る者になる。その時が来たら、岳飛様の志を胸に戦うのだ」
孟珙は、父の涙を見て不思議そうに言った。
「父上、泣いてるの?ぼく、強くなるよ。おじい様みたいに、父上みたいに!」
その言葉に、宗政は笑いながらも、深くうなずいた。
「そうだ。お前ならできる。だが、強さだけでは足りぬ。心に忠を持て。民を思え」
その時、孟林は奥の棚から一本の剣を取り出した。鞘には古びた文様が刻まれていた。
「宗政よ。この剣は、岳飛様の志を継ぐ者に授けるもの。汝、忠を継げ」
宗政は剣を受け取り、深く頭を下げた。
「父上、この剣と共に、孟家の誇りを守ります」
その夜、宗政は庭に出て、星空を見上げた。風が竹を揺らし、月が静かに照らしていた。
「星よ、聞いてくれ。この子は、国を守る者となる。岳飛様の志を、孟家が再び灯すのだ」
屋敷の中では、孟珙が眠りながら小さな手を剣の方へ伸ばしていた。まるで、未来の使命を感じ取っているかのように。
その夜は、孟家にとって運命の夜だった。忠義の剣が再び授けられ、志が次の世代へと受け継がれたのだった。
そして、孟珙の物語は、ここから始まる──。
〇
1205年、孟家の屋敷には厳しい空気が流れていた。10歳になった孟珙は、父・孟宗政や兄たちから武術と兵法を学ぶ日々を送っていた。
「弓を引け、珙!」
兄の孟璽が声を張る。孟珙は震える手で弓を構え、的を見つめた。
「……っ!」
矢は空を切り、的の外れた地面に突き刺さった。
「また外したか。お前は将門の子だぞ。情けない!」
兄の言葉に、孟珙は唇を噛みしめた。目には涙が浮かび、拳を握りしめる。
「……ごめんなさい……」
その夜、孟珙は一人、庭の隅で膝を抱えていた。そこへ父・宗政が静かに現れた。
「珙。泣いているのか?」
「……ぼく、弱いです。兄上たちみたいにできない……」
宗政はそっと隣に座り、夜空を見上げた。
「昔、岳飛様という将軍がいた。民を守るために戦い、忠義を貫いた。だが、無実の罪で命を奪われた」
「……忠義って、なんですか?」
「自分の命よりも、国や人々を思う心だ。岳飛様は、弓の腕も剣の技も一流だったが、それ以上に心が強かった」
宗政は懐から古びた巻物を取り出した。
「これは岳飛様の遺訓だ。『文を習い、武を磨き、心を正せば、道は開ける』とある」
「心を……正す……」
「そうだ。失敗しても、立ち上がる心があれば、必ず前に進める。お前はまだ十歳。だが、孟家の血を継ぐ者だ。誇りを持て」
宗政は息子の肩に手を置いた。
「明日の朝、誰よりも早く起きて、弓を引いてみろ。誰も見ていなくても、自分のために引くんだ」
「……はい。やってみます」
その言葉に、宗政は静かにうなずいた。
翌朝、まだ空が白む前。孟珙は一人、弓を持って庭に立っていた。冷たい風が頬を打つ。兄たちはまだ眠っている。
「……心を正せば、道は開ける……」
深く息を吸い、弓を引いた。矢はまっすぐに飛び、的の中心を貫いた。
「……やった……!」
その瞬間、屋敷の奥から足音が響いた。宗政と兄たちが駆け寄ってくる。
「珙!今のは……」
「見事だ!」
兄たちが驚きの声を上げる中、宗政は静かに微笑んだ。
「よくやったな、珙。誰よりも早く、誰よりも強くなったのは、お前の心だ」
「父上……ぼく、もっと強くなります。岳飛様のように、民を守れる武人になります!」
宗政は深くうなずき、息子の肩を力強く叩いた。
「その志は、孟家の誇りだ。今日から、お前は我が家の希望だ」
その日、孟珙は家族の前で初めて誇りを手にした。涙はもうなかった。心に宿ったのは、岳飛の遺志と、未来への決意だった。
そして、孟家の庭に射し込む朝日が、彼の背を照らしていた。それは、将来の名将の誕生を告げる光だった。




