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春の雨

五月の終わり、雨が降り始めた。


朝から空は灰色で、昼休みには本格的な雨になった。廊下を歩く生徒たちの足音が、いつもより少し重く響く。


「ねぇ、みさき」

教室で弁当を広げながら、陽子が声をかけてきた。

「高橋さん、今日もいないね」


そう言われて、後ろの席を振り返る。確かに、午前中から席が空いていた。


「保健室...かな」

「え?知ってるの?」

「いや、たまに見かけるから」


図書委員になって、放課後以外でも高橋さんのことを気にかけるようになっていた。たまに保健室から出てくるところを見かけることもある。けれど、声をかけることはできなかった。


「あ」

陽子が窓の外を指さした。中庭に、見慣れた後ろ姿。雨の中、高橋さんが一人で立っていた。傘も差さずに。


「ちょっと」

私は立ち上がって、教室を飛び出した。


中庭に出ると、春の雨が優しく降っていた。高橋さんは、まだ同じ場所に立ったまま。


「高橋さん!」

声をかけると、ゆっくりと振り返った。

「あ、佐藤さん」


近づいていくと、髪も制服も雨に濡れているのが分かった。顔は少し蒼白い。


「具合、悪いんですか?」

「ううん...大丈夫」

そう答える声が、いつもより弱々しく聞こえた。


「でも、このまま」

言いかけた時、高橋さんがふらりと前のめりになる。

「!」

咄嗟に支えると、体が熱かった。


「保健室、行きましょう」

「ごめんなさい...」

「いいんです。掴まってて」


ゆっくりと歩き始める。廊下に入ると、通りかかった生徒たちが心配そうに見ていった。保健室まであと少し──その時、後ろから声がした。


「千夏!」

振り返ると、木村先輩が走ってきた。


「大丈夫か?俺が連れていくよ」

「いえ、私が」

「でも」

「お願いします、佐藤さん」


高橋さんの小さな声に、木村先輩は一瞬動きを止めた。そして、少し複雑な表情を浮かべながら頷いた。


「分かった。けど、もし何かあったら」

「はい」

私が答えると、先輩は渋々といった様子で、その場を離れた。


保健室に着くと、養護教諭の中村先生が驚いた顔で立ち上がった。

「まあ、高橋さん!」


ベッドに横たわった高橋さんの額に、冷えたタオルが置かれる。

「また、無理してたでしょう」

中村先生の声は、優しく諭すような調子だった。


「佐藤さん、ありがとう。あとは私が看るから」

「はい...」


保健室を出ようとした時、かすかな声が聞こえた。

「ごめんね」

振り返ると、高橋さんは目を閉じたまま、そっと言葉を零した。


「また、放課後に」

私がそう返すと、微かに頷いているのが見えた。


放課後、図書館に向かう足取りが、いつもより少し急いでいた。

扉を開けると、いつもの静けさが広がっている。けれど、高橋さんの姿はない。


本の整理を始めながら、時折入り口の方を見る。窓の外では、まだ雨が降り続いていた。


六時間目が終わった後、保健室をのぞきに行ったけれど、すでに帰ったと中村先生に告げられた。家で休んでいるのかな──。


「佐藤さん」

振り返ると、そこに高橋さんが立っていた。少し顔色は良くなっている。


「あ、大丈夫だったんですか?」

「ええ、ごめんなさい。心配かけて」

「いえ...」


高橋さんは普段の様に本棚の前に立ち、背表紙を撫でるように確認していく。でも、その動きが少しぎこちない。


「あの」

「なに?」

「今日は早く帰った方が」

言いかけると、高橋さんの手が止まった。


「大丈夫です」

「でも」

「ここにいたいんです」


その言葉に込められた何かが、胸に刺さる。高橋さんは、ゆっくりと窓の方へ歩いていった。


「佐藤さん」

「はい?」

「さっきは、本当にありがとう」

「いえ、当たり前のことを」

「でも、嬉しかった」


夕暮れ前の雨模様の空が、図書館の中を青く染めていく。高橋さんの横顔が、どこか儚く見えた。


「実は」

高橋さんが、ポケットから一枚の写真を取り出した。少し古びた写真には、小学生くらいの女の子が写っている。


「これ、私なんです。お父さんと一緒に図書館で撮った写真」

「お父さん...」

「今はもう、一緒じゃないんですけど」


その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。

離婚。そう、木村先輩の「心配」は、そういうことだったのか。


「お母さんは、夜遅くまで働いてくれてて」

続ける声が、少し震えている。

「だから、放課後はずっとここに...」


私は黙って聞いていた。高橋さんが話してくれること、その重みを感じながら。


「本当は、具合が悪くなるの、よくあるんです。でも、家に帰っても...」

「一人だから」

私の言葉に、小さく頷く。


「木村君は、小学校からの友達で。よく気にかけてくれて」

「そうだったんですね」

「でも、時々息苦しくて」


雨音が強くなる。図書館の屋根を打つ音が、静かに響いていた。


「私ね」

高橋さんが、また写真を見つめる。

「この写真の図書館で、初めて物語の素晴らしさを知ったんです」

「お父さんと?」

「ええ。だから、今でも本に囲まれていると、あの頃の気持ちを...思い出せるの」


その言葉で、先日の「逃げ場所」という言葉の意味が、少し分かった気がした。


「高橋さん」

「なに?」

「私、毎日ここにいます。だから」


言葉を探す。何を言えばいいのか、分からない。けれど、伝えたい気持ちはある。


「一人じゃ、ないです」


高橋さんの目が、少し潤んだように見えた。

窓の外では、雨が優しく降り続けている。春の終わりを告げるような、しとしとと降る雨。


その音を聞きながら、私たちは黙って本を整理し続けた。けれど、その沈黙は、少し前までとは違う色を持っていた。


まるで、二人で同じ物語を読んでいるような──そんな空気が、図書館に満ちていた。

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