静かな午後
放課後の図書館は、まるで時間が少しだけゆっくり流れているような場所だった。
「いつもここにいるの?」
本棚の整理をしながら、陽子が小声で聞いてきた。図書委員になって一週間が過ぎ、今日は珍しく親友も手伝いに来てくれていた。
「うん、まあ」
「へぇ」
陽子は、となりの本棚で作業をする高橋さんの方をちらりと見た。
「高橋さん、すごくない?本当に本が好きそう」
「...うん」
私の返事に、陽子が意味ありげな微笑みを浮かべる。
「なに?」
「ううん、なんでもない」
そう言って陽子は本棚の奥に潜り込んでいった。彼女の背中から、何かを見透かされているような気がして、少し落ち着かない。
確かにここ一週間、私は高橋さんのことをよく観察していた。いつも早めに図書館に来て、最後まで残る。本を整理するときの丁寧な手つきは変わらないけれど、時々遠い目をして、窓の外を見つめることがある。
「あの、高橋さん」
「なに?」
「その、放課後はいつも図書館なんですか?」
質問を投げかけた瞬間、高橋さんの手が一瞬止まるのが見えた。
「ええ、まあ」
先週私が答えたのと、同じような言葉。けれど、その声の中に何か隠されているような気がした。
「家の事情で...」
そこまで言って、高橋さんは言葉を切った。私は慌てて話題を変えた。
「この、百年前の小説って、まだ借りる人いるんですか?」
手元の本を見せながら聞くと、高橋さんの表情が少し和らいだ。
「意外と多いのよ。特に夏目漱石は」
「へぇ...」
「佐藤さんは読んだことある?」
「あ、いえ...」
その時、図書館の入り口から声が聞こえた。
「千夏」
振り向くと、そこには見慣れない男子生徒が立っていた。3年生だろうか。
高橋さんは一瞬驚いたような表情を見せ、それからすぐに普段の穏やかな顔に戻った。
「木村君」
「今日も遅くまでいるの?」
「ええ」
「そう...」
男子生徒──木村君は、何か言いかけて、それから私と陽子の存在に気づいたように口を閉じた。
「また来るよ」
そう言って去っていく背中を、高橋さんは静かな目で見送っていた。
「幼なじみの木村君」
振り返ると、高橋さんが小さな声で説明を加えた。
「よく心配してくれるの」
私は無言で頷いた。その「心配」という言葉の重さが、どこか引っかかる。けれど、それ以上は聞けなかった。
夕暮れが近づき、陽子が帰った後、私たちは読書コーナーの整理を始めた。本を拭く高橋さんの横顔が、オレンジ色の光に照らされている。
「ねぇ」
「はい?」
「佐藤さんは、どうして本が苦手なの?」
突然の質問に、手の動きが止まった。どうして──その理由を、私自身よく分かっていなかった。
「どうしてって...」
私は手の中の布を握りしめた。高橋さんは黙って待っている。夕暮れの図書館に、静寂だけが漂う。
「多分、怖いんです」
「怖い?」
「物語の中に入っていくのが」
その言葉に、高橋さんは少し首を傾げた。私は続ける。
「一度、物語に入り込みすぎて...現実が怖くなったことがあって」
小学生の頃の話だ。読んでいた小説の主人公が親を亡くし、それから何日も、自分の両親も突然いなくなってしまうんじゃないかと怯えていた。それ以来、物語の世界に深く入ることが怖くなった。
「なんだか、子供っぽいですよね」
そう付け加えると、高橋さんはゆっくりと首を横に振った。
「そんなことないわ」
窓際まで歩いていき、夕焼けを見上げる。
「物語を感じすぎるってことは、それだけ想像力が豊かだってことじゃない?」
「でも...」
「ねぇ、佐藤さん」
高橋さんが振り返る。夕陽に照らされた横顔が、まるで物語の一場面のように美しかった。
「物語は、逃げ場所にもなるのよ」
「逃げ場所...」
「現実が辛い時、物語は私たちを守ってくれる。だから──」
その時、図書館の扉が開く音がした。
「失礼します」
別のクラスの生徒が数人、宿題をしに来たようだった。
私たちは黙って作業に戻る。けれど、高橋さんの言葉が頭の中で反響していた。物語は、逃げ場所。その言葉の裏側に、彼女の何かが隠されているような気がして。
「あ」
本棚の整理をしていると、一冊の本が落ちてきた。反射的に受け止めようとして、高橋さんと手が重なる。
「ご、ごめんなさい」
慌てて手を引っ込める。高橋さんは落ち着いた様子で本を受け取り、棚に戻した。
「大切な本だから、傷つけちゃいけないものね」
その言葉に、どこか懐かしさを感じた。本を大切にする。それは当たり前のことなのに、高橋さんがそう言うと、特別な響きを持つ。
図書館の時計が、五時を指す。
「そろそろ、閉館の時間ね」
「はい」
カウンターの鍵を閉める音が、静かに響いた。外に出ると、夕暮れはもう深まりかけていて、校舎の影が長く伸びていた。
「佐藤さん」
玄関で靴を履き替えながら、高橋さんが声をかけてきた。
「また、明日」
それだけの言葉なのに、どこかほっとする。
「はい、また明日」
下駄箱の前で別れ、私は自転車置き場へ向かう。空を見上げると、まだうっすらと茜色が残っていた。今日は陽子も来てくれて、高橋さんのことも少し分かった気がする。それなのに、どこか物足りない。
スマホを取り出すと、陽子からメッセージが来ていた。
《図書館、楽しかった!高橋さん、なんかすごくいい人だね》
《うん》
《あのさ、みさき》
《なに?》
《最近表情が変わったよ?》
画面を見つめたまま、少し考える。表情が変わった?確かに、この一週間で何かが変わった気がする。でも、それが何なのかは、まだよく分からない。
《気のせいだよ》
そう返信して、自転車のペダルを踏み出した。夕暮れの街を走りながら、今日の高橋さんの言葉を思い返す。
物語は、逃げ場所になる──。
その言葉の意味が、いつか分かる日が来るのだろうか。