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新しい風

「図書委員?私が?」

声に出した言葉が、職員室の空気の中でかすかに揺れた。担任の山田先生は、やわらかな笑みを浮かべながら頷く。


「そう、佐藤さんにお願いしたいの。去年の白石さんが転校することになって、急遽の人選だったんだけど...」

私は思わず制服のスカートの端を握りしめた。本を読むのは苦手。というより、物語の中に入り込むのが怖かった。でも、断る理由も見つからない。


「あの、私でも...大丈夫でしょうか」

「ええ、もちろん。高橋さんって知ってる?図書委員長の。とても良い子だから、分からないことは何でも聞いてね」


高橋さん。同じクラスだけど、ほとんど話したことがない。いつも一人で本を読んでいる子。そう思い出した時、職員室の扉が静かに開く音がした。


「あ、ちょうどいいところに」

山田先生の声に振り返ると、そこには噂をすれば、という言葉がぴったりの人物が立っていた。


「高橋さん、こちらが新しい図書委員の佐藤さんよ」


まっすぐに伸びた黒髪。すらりとした姿。制服の着こなしも凛としている。高橋千夏。その瞳が、ゆっくりと私の方へ向けられた。


「佐藤さん...みさきさん、ですよね」

私の名前を口にする声が、不思議なほど澄んでいた。


「は、はい。よろしくお願いします」

思わず背筋が伸びる。高橋さんは小さく頷くと、山田先生に向き直った。

「先生、新着図書の件なんですが...」


放課後、初めての図書委員の仕事が始まった。図書館に足を踏み入れた瞬間、いつもとは違う空気が肌を撫でる。午後の陽が大きな窓から差し込み、本棚の影を床に落としている。


「こちらが司書カウンター。返却された本の処理と、貸し出しの手続きをするところです」

高橋さんの説明は簡潔で分かりやすかった。けれど、私の目は彼女の仕草に釘付けになっていた。本を持つ指先の繊細な動き。背表紙に触れる時の、どこか愛おしそうな表情。


「あの、高橋さん」

「なに?」

「本って...好きなんですか?」

質問を口にした後で、余計なことを聞いてしまったかもと後悔した。でも、高橋さんは目を少し細めて、確かな笑みを浮かべた。


「ええ。好きです」

四文字の答え。けれど、その言葉の向こうに、深い物語が隠れているような気がした。


「佐藤さんは?」

「私は...あまり得意じゃなくて」

正直に答えると、高橋さんは少し驚いたように目を見開いた。

「そう...でも、きっと見つかると思います」

「え?」

「佐藤さんの、お気に入りの本が」


夕暮れが近づく図書館。本棚と本棚の間を歩きながら、私は高橋さんの背中を見つめていた。この先どんな物語が始まるのだろう。そんなことを考えながら、私は知らず知らずのうちに、普段よりも大きな一歩を踏み出していた。



放課後の図書館で過ごす時間は、思いのほか早く過ぎていった。返却された本を元の場所に戻す作業を終えて、私は書架の間から顔を出した。


「あとは、この本の整理を」

高橋さんが手にしていたのは、少し古びた装丁の本だった。「風立ちぬ」──堀辰雄。聞いたことのある題名だけれど、読んだことはない。


「この本、好きなんです」

そう言って高橋さんは、本を胸の前で抱きかかえるように持った。その仕草があまりに自然で、思わずじっと見つめてしまう。


「どんなお話なんですか?」

聞いてから慌てた。図書委員になったばかりの私が、こんな基本的な本も知らないと思われたらどうしよう。けれど、高橋さんの表情は優しく、むしろ嬉しそうだった。


「病気の人を想い続ける、切ない恋の物語です」

「切ない、ですか...」

「でも、その中にある希望とか、儚さの中の強さとか」

言葉を探すように、少し考え込む仕草が印象的だった。


「難しそう」

「そうかもしれない。でも」

高橋さんは窓の外を見やった。夕暮れが近づき、図書館の空気がほんのり茜色に染まり始めている。


「最初から全部わかる必要はないと思うんです。少しずつ、自分の中で形になっていけばいい」

その言葉は、本のことだけを言っているようには聞こえなかった。


...


「ただいまー」

家に帰り着いた時には、もう空が暮れかけていた。


「お帰り、みさき。遅かったね」

リビングから母の声。妹の杏奈は宿題をしているのか、テーブルに向かっている。


「図書委員になったから」

「へぇ、みさきが?珍しいね」

母の声には少しの驚きが混じっていた。それもそうだ。本を読むのが苦手な私が図書委員というのは、誰が見ても意外な選択だろう。


部屋に戻って制服を着替えながら、今日のことを思い返す。高橋さんの本を扱う手つき。語り口。そして「風立ちぬ」を抱える姿。


机の引き出しを開けると、中から文庫本が出てきた。去年、国語の課題図書として買ったまま、ほとんど読まないで終わってしまった本だ。


表紙をそっと撫でる。高橋さんのように、丁寧に。


スマホが震える。親友の陽子からだ。


《図書委員になったって本当?》

《うん》

《へー!そっか。で、どうだった?》

少し考えてから、返信する。

《なんか、不思議な感じ》

《どういう意味?》

《...うまく説明できないけど》


確かに不思議な感じだった。本が苦手な私が、本の匂いのする場所で過ごす。考えただけでも居心地が悪そうなのに、実際はそうでもなかった。


それは多分、高橋さんの存在が大きい。本が好きな人の、本と向き合う姿。それを間近で見られたことで、何かが少し変わったような気がした。


まだ形にならない、けれどぼんやりとした予感。それは、夕暮れの図書館に差し込む光のように、確かにそこにあった。


部屋の電気をつけずに、窓際に立つ。星が一つ、また一つと瞬き始める空を見上げながら、明日も図書館に行くんだな、と思う。


その考えに、少しだけ心が躍るのを感じた。


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