5、美しき囚人
グランベール国の奴隷になってから、多分、一週間が経った。
時計やカレンダーがないので日付の感覚がなく、何日が過ぎたのか正直わからないのだが、感覚的に一週間は過ぎているはずだ。
3392番ことジョナサンに金魚のフンのようにくっついて行動してきたので奴隷としての仕事内容は把握できたが、ここの環境は想像していた以上に辛かった。
そこそこ鍛えている人間ならまだ許容範囲かもしれないが、私のように一日平均百歩も歩かず、飲んで食ってを繰り返してきたような人間には過酷過ぎる環境だ。
何が一番辛いかって、それは食事が朝と夕方の二回しか配給されないことだった。
ピンが私達の部屋に乱暴に置くのは、コップ一杯分の水と拳くらいの大きさの硬いパン、そして痛んだリンゴが一個のみだ。
ジョナサンは慣れているのか当たり前のようにして食べていたが、私は泣きながら「少ない。足りるわけがない。ざけんな。ざけんな」と文句を言って食べていた。
私は普段、寝ている時以外は一時間に一回は必ず何か高カロリーのあれこれを食べていた。
それが私の当たり前だったのだ。
だから奴隷の食事は文句を言っていないとやってられないほど少ない量なのだ。
しかしその文句がピンに聞かれ、お腹を一発殴られてからは黙って食べるようになった。
あれは物凄い痛みだった。
痛みで全身が痙攣し、二十分くらいは立ち上がることができなかった。
奴隷の朝は太陽が昇りきらないうちに始まる。
毎朝ピンが鍋の底を太い棒で叩き私達を起こしてくるのだが、すぐに起きないと問答無用でベッドから引きずり降ろされ腹を蹴られる。
私も一度経験してからは、最初のパンッという響きだけで飛び起きるようになった。
そうして量の少ない朝ごはんをピンに怒られないようになるべく早く食べ終えると、奴隷としての仕事が始まるのだ。
一階と二階、そして地下には石壁で遮られた三百人分の牢屋が長方形を描くようにしてズラァと並んでいる。
逃亡防止の為か窓はどれも小さいので日差しが入らず薄暗い。
体臭やカビなどの悪臭が漂うその場所を、私とジョナサンは一日に何度も往復した。
毎日、朝と夕方、建物の前に運ばれる囚人用の食事を急いで配って回り、鉄格子の間から柄の長い箒を入れて牢屋内を掃除する。
時々囚人が新入りの私を茶化すために箒を引っ張ってきたりするので、綱引きみたいなゲームが急に始まってしまいもの凄くストレスだ。
牢屋の出入り口部分は鉄格子なので、気を付けて歩いていないと腕を伸ばした囚人に掴まり「なんだこの肉は!奴隷のくせにコソコソ食べてんのか?」と野次を飛ばされたり、ひどい時は殴られることもあった。
食事の配給、掃除に加え、囚人の体調管理チェックや、怪しい動きをしてないか監視などもしたりするのだが、私は囚人たちに近づきたくなくてジョナサンの後ろに隠れることが多かった。
基本的には囚人との会話は禁止されているが、ピンに行動を監視されているわけではないので、少しくらいの会話なら問題はないようだ。
ジョナサンには何人か気の知れた仲になった囚人もいるようだったが、私はその数秒間の和気藹々とした雰囲気に参加しようとは思わなかった。
彼らは犯罪を犯してきた人たちばかりだからか、気が短く、言葉を誤ればすぐ攻撃的になるからだ。
一回怒らせてしまえば、凄みの利いた目つきで睨み、暴言を石壁に反響させてくるのだ。
その迫力が凄まじすぎて、何度かチビってしまったこともあった。
手が空けば建物周辺の草むしり、ピンの部屋の掃除、それから警備騎士へ水を配ったりもした。
警備騎士らは基本無口で愛想が悪く、私が「お水どうぞ…」とコップに入った水を差しだしてもお礼を言わない。
全くなんて礼儀がなってないんだ騎士のくせに!と内心イライラしているのだが、そこで思い出すのは自分のことだった。
実家で引きこもっていた私は、頼んだ物を母が部屋まで持って来てくれてもお礼なんか言わなかった。
きっと私も母を苛つかせていたのだろうと思うとなんだか申し訳なかったなと反省するが、そんなこと今頃気づいても遅いのだ。
仕事は毎日休みなく、早朝から夜まで続いた。
歯磨きの時間もなければ、お風呂の時間もない。
服も着替えが貰えず、この世界に召喚された時の服をずっと着ている。
ジョナサンなんて三年も同じ服を着ているというのだ。
せめて下着だけは洗いたくて、井戸の水を汲む時に急いで手洗いしたり、脱いだインナーシャツを水に浸して体を拭いたりしている。
ジョナサンの目が気になったが、ジョナサンも自分の下着を洗ったり体を拭くことに集中していて、隙あらばお前の裸を見てやろう、なんて下心はないようだった。
一応衛生的なものを気にして生きてはいるが、それでも日に日に私の体は強烈に臭くなっていった。
今なら脇を向けただけで人を倒せる気がする。
八日目の朝。
ピンに起こされ朝ごはんを食べていると、ジョナサンは二階の部屋の窓から朝日を眺め、「ついに独り立ちだね、4444番」と妙に感慨深げに言った。
今日から一人行動になり、ジョナサンが一階と二階を担当し、私が地下牢を回すことになっている。
ジョナサン曰くその方が効率がいいんだそうだが、相手する囚人が半分になるとはいえ、これからはジョナサンに教えてもらった全てを私一人でやらなければいけないのは正直憂鬱だ。
本当は『なんだこのブラック企業より酷い環境は!やってられるか!やるかボケ!やるかボケェッ』とでも言って放棄したい所なのだが、あのスキンヘッド筋肉モリモリマッチョのピンにボコボコに殴られるから、どうしたってそれができない。
この爆発システムのある首輪のせいで逃げ出すこともできない私は、大人しくこの理不尽な奴隷制度の前に屈する他ない。
悔しいものである。
「まあ、4444番なら大丈夫だって。でも困ったことがあればいつでも僕に言ってよ」
「ありがとう、3392番…」
約一週間、一日中時間を共有しただけあり、私はすっかりジョナサンと打ち解けた。
人柄もよくわかってきた気がする。
やせ細っていて顔に疲労感があるせいか私より一回りは年配かと思っていたが、意外にもジョナサンは二つ上の二十四歳だった。
私のことを「弟ができた気分」と言っていろいろ世話してくれるのはありがたいが、そうか、やっぱり男と思っていたのかとちょっと凹んだのも事実。
ジョナサンは基本的に温厚な性格で、私がドジをしても苛ついたりしないし急かしたりもしない。
けれど自分自身にはストイックな節があり、仕事が急に増えたり予期せぬトラブルなんかがあったりすると、急に「限界突破―!!」と腹から叫び、ニタニタと笑いながら動き始める。
最初は狂ったのかと思って怖かったが、何度も見たせいかもう慣れた。
彼は追い込んで伸びるタイプなんだと思う。
朝ご飯を食べ終えた私達は、建物の外に出た。
毎朝馬車が囚人用の食事を運んでくるので、まずはパンが入ったカゴを手に取り、それを牢屋の鉄格子の隙間からそっと入れて配っていく。
その後急いで井戸へ行き、水瓶に水を入れ、各囚人の部屋に常備してある汚いコップに注いで回る。
この水瓶が2.5リットル程度しか入らないため、何度も水を入れ直すために行ったり来たりしなければならず、体重の重い私の脚腰に鞭を打ってくる。
なんて効率の悪さだ。
それに加えて喉を乾かした囚人たちが「走れ走れ!とまるな!走れ!はやくしろよ!」と責め立ててくるので、まるで強制スパルタダイエットをしてる気分だ。
あまりに腹が立って「人にものを頼む時は、あのぅすみませぇん、お願いしますぅ、って手をこまねきながら腰を低くして言うのが常識でしょ!?」と囚人相手に啖呵を切ったことがあるが、丁度その時タイミング悪くもピンが地下牢に降りていたせいで「怒鳴るのは俺の仕事なんだよ!」とビンタ十発を食らったことがあり、それ以来私は鬱憤をひたすら腹に溜めていた。
囚人たちはよっぽど暇なのか、何もない所だから暇で当然なのだろうが、水を運んだり掃除をする私を見るといつもからかってくる。
だいたいは見た目のことだ。
それから動きが鈍いだとか、きっと童貞なんだろうかとか、女を知らないんだろう、揉んだことないんだろうとか。
下品な言葉を吐いては私の反応を見て娯楽に使おうとしているのだ。
最初こそ「そうですよ!あなたがたが味わったこともないような美味しいお肉を食べてこの体ができたんです!」と自慢してみせたり、「も、揉んだことくらいあるし!」と顔を赤くしながら反論していたが、数日が過ぎた頃からは全てがどうでもよくなり、徹底的に無視を決め込むようになった。
囚人と話したことがピンに見つかって殴られるのが怖かったのもそうだが、いちいち囚人に反応していられない程、私は疲れ、空腹に限界を感じ始めていたのだ。
なにより、元のゲーム三昧引きこもりニート暮らしが恋しかった。
けれどもし帰る事ができるのなら、私は引きこもりニートをきっぱりやめたっていい。
更生して社会に出て真面目に働く。
家事も進んでやるし、町内会が週一でやってるゴミ拾いにも参加する。
だから、これが夢なら今すぐ覚まして!
そう天に祈ってから就寝しても、朝になると鍋を叩く音に起こされ、囚人の世話に明け暮れる。
対価も与えられない過酷な労働がこれから一生続き、美味しいものも食べれないんだと思うと、どうしようもなく泣けてくる。
涙を流しているとジョナサンがそばに来て肩や背中を撫でてくれることが何度かあった。
「僕もたくさん泣いてきたけど、どうにもならないって悟っちゃってさ。大丈夫だよ。時間が経てば嫌でも慣れちゃうから」
そう言ってジョナサンは私を励まそうとするけど、私は慣れてたまるかな気分だ。
いっそ死んでしまった方が楽なのではないか。
そんなことすら考えるようになっていた。
ジョナサンと別行動をとるようになって五日が過ぎた。
仕事は覚えたが、相変わらず体力はないしお腹は空いているし体は臭い。息も臭い気がする。
精神状態も危うくなりかけている私は、気づけば民謡を口ずさむようになっていた。
こういう時、よく聴いていた流行りのJ-POPでもK-POPでもなく、小学校の音楽の時間で習ったような古き良き民謡が浮かんでくるのはなぜだろう。
食事の配給が終わった私は、箒を持って地下牢内の掃き出しをしながら気持ち控えめにソーラン節を歌っていた。
地下牢には天井すれすれのところに窓があるのだが、小さいというのに砂や埃がよく飛んでくるので、掃き掃除をサボるとすぐに溜まる。
「ヤーレンソーランソーランソーランソーランソーラン、ハイハイッ」と語尾の所だけ力強く掃いてしまうと、溜まっていた埃がブワァッと立ち上がり視界を遮るほどだ。
囚人たちは咳をしながら「おい!今わざとやっただろ!」と怒ってくるが、私はいつも無視を決め込み歌い続けていた。
引きこもりニートになる前、私がまだ中学生だった時の体育祭で踊ったものだけど、意外に歌詞を覚えていて、やろうと思えば振り付けもできそうなのだから不思議なものだ。
あの時は嫌々やってたが、当時の努力は体に染み付いているんだなぁ。
感慨深い気持ちになりながら、「おとこどきょうはごせきのかーらだ、ドンとのりだせ、なみの~うえ、チョイヤサエ~エンヤ~」と謳っているとどういうわけか気持ちよくなってしまい、声量を少し大きくしてしまう。
すると、軽やかな笑い声が聞こえた気がした。
いつもなら囚人の一人が馬鹿にして笑っているんだろうと気に留めなかったと思うが、どうも今の笑い方、囚人にしては品があった気がしてならない。
どこから…と気になって周囲を見渡すと、真横の部屋の囚人と目が合った。
「良い歌だ」
そう呟いた男の声は低く、胸に響くいい声だった。
RPGゲームなんかのイケメン枠キャラのようにいい声だった。
ただでさえ薄暗いのに、腰までもある長い銀の髪と髭のせいで顔の造形がよくわからない。
だが、宝石のような琥珀色の瞳と、他の囚人に比べて体格の良い体をしているのはわかる。
ボロボロの汚いロングTシャツみたいな服を着ているというのに、片足を立てて座る様子は妙な気品さまで醸し出している。
しかもその座り方だと大事な一物が見えてしまう危うさがあって、大変けしからんが、それでいい。
兎に角、いい声の主は、いい男そうだった。
髭で隠れている口が笑っているようにも見えて、じっとその男を見つめていた私はハッと我に返った。
ソーラン節を歌っていたのを見られていたのだと思うと急に恥ずかしくなり、私は背中を丸め、掃き掃除をするフリをしながらその場を逃げるように立ち去った。
箒と塵取りを建物の外にある倉庫に戻すと、ようやく速くなっていた脈拍が落ち着いてきた。
地下牢にあんないい男感漂う人がいたなんて、今までどうして気づかなかったのだろう。
考えてみると答えはすぐに出た。
ジョナサンと行動を別にするようになっても、私は囚人一人一人を注視することは少なかった。
体調管理チェックや怪しい行動をしてないか監視する必要があるが、私は正直言うと適当にやっていたからだ。
各部屋の前に行き「今日の体調はどうですか」と顔を見て確認するようにとジョナサンには言われているが、サボる時間を稼ごうと考えた小賢しい私は、数部屋分まとめてやることにしたのだ。
「今から体調チェックします。不調がある人は声をかけてください」と大きめの声で伝えると、数部屋分の前を歩き、声をかけてきた囚人だけ適当に相手していたのだ。
食事の配給や掃き掃除の時も、なるべく目を合わせないように心掛けていたので、あんなにいい男風の人がいたことに今まで気づかなかったのだ。
あのいい声の囚人は、一体どんな悪い事をしたのだろう。
考えると、何故か再び心拍が速くなった気がした。
それから私の奴隷としての日課に、あのいい声を持つ囚人の観察が加わっていた。
そんな観察しなくてもいいのに、気になってしまい、目がチロチロチロチロと何度もあの人を見てしまうのだ。
もちろん、部屋の前に立ってガン見しているわけではなく、奴隷としての仕事をしながら、なんとなく目がそっち行っただけです風を装って盗み見ている。
彼は他の囚人と同じように汚い服を着ているのに、肌はそれほど汚れているようには見えなかった。
食事も硬いパンと水だけなので体は細いのだが、逞しい感じがある。
なんでだろうと思いながら観察を続けていると、その理由がわかった。
肌が汚れていないのは、水を配給されるとその半分は喉に流し、もう半分の水は布巾に浸し体を拭いていたのだ。
そして天井付近にある小窓から太陽の日差しが差し込む時間になると、石の壁を上って太陽光を浴び、腹筋や腕立て伏せ、その他名前もわからない筋トレを一日に何度か行っていた。
なるほど。だから他の囚人よりも衛生的で、体格が良いのかと私は感心していた。
そんな観察を続けていたある日の食事配給時。
なんとなく、一番大きそうなパンをわざわざ選んで彼の部屋の鉄格子から入れた。
奥の壁に持たれかかっている様子の彼の姿を熟視できるチャンスだと顔を向けたら、琥珀色の瞳が私をしっかりと見ていた。
そして、微笑みを浮かべたのだ。
髭で口元が隠れていてもわかった。
それは美しい笑顔だった。
私の心が弾けたような気がした。